小沢氏の影響力後退と自民圧勝ですっかり普段のニュースチェックから少し後退していたフリージャーナリストの岩上安身氏主宰のIWJが経営的にヤバい的な話がTwitterで囁かれているみたいです。
http://twitter.com/iwakamiyasumi
http://anmintei.blog.fc2.com/blog-entry-999.html
俺自身web関係でアレしてきた経験上岩上氏が有料サイトを立ち上げる云々の話出た時に「いやぁこれは厳しい」と正直感じていた。フリーエコノミーにおけるビジネスモデルはほとんどコレというのが存在せず(唯一の成功例はホリエモンのメルマガぐらいじゃないか)、大手メディアがやる場合も「当面は採算度外視」がデフォだったりするので、経験というか直感で「岩上氏有料サイトに切り替えるならフォロワー30万は越してからじゃないと無理じゃないか、、」と思っていた。
数字的根拠はアレとして、
『フリーエコノミーからの有料化』には構造的な矛盾があるんですよ。
(根本的にこれまでと違う概念のビジネスモデルが必要だと捉えるべきで)
米国におけるフェアユースに始まる無料流通の概念は殊更ネット社会における情報拡散などに適合性が高く、専らそれは「無料である正当性」みたいな部分に論拠するワケですよ。
実に簡単な話で、2chなどの掲示板でもそうだけれど始まりは”会社や学校や井戸端会議などで”「ねぇ奥さん昨日のニュース観た、大変よね〜」に取得された情報が自由に語れる、又公開後その情報の再確認なんかも基本的には無料ベースだったりするってどこにでもある日常で(まさか世間話をする時に著作権があるから昨日のニュースを口にしてはいけないなんて無茶な話は無い)、インターネットがメディアとして機能している部分においてそれはさ公共放送じゃないんだから(そこに自分で聞きにいかないと聞けないワケだし)広告性もってそれが拡散するとかの表のメディアとは構造からが違っていて、各ユーザーにしてみれば「世間話と感覚的な違いが無い」のです。←その世間話が口コミで広まるって機能性をネットが担保しているだけ(ダイレクトに到達させるメディアでは無い:だからある意味旧ビジネスモデルでも成功できたのが有料メルマガだったのだと思う)。
そこをさ(勝手に拡散する機能性)、有料にしちゃうと水道の蛇口を占めるように「秘密の世間話」になるんだよね、
拡散してナンボの報道メディアにとって一歩間違えばそれ致命的な話になり兼ねない。
(日本の大新聞なんか事実上公取違反か独禁法違反を前提に昭和なんかでは半ば”マストの町内会費”的な感覚だったので、無料じゃないがその既得権を使ってフリーペーパー感覚でどこの家にも新聞はあるみたいな話になってたんだし、勿論ご存じ民放TVは無料だしさ、)
シンプルに言えば、ラジオでヘビーローテーションさせたいような「新曲の販促」、
これがさIWJはニュースを(新曲同様に)売り込みたいワケだがそのラジオ番組は有料なので一般人は聴けませんよみたいなことだとさ、この段階でもう無理なんだわ。
(だから有料化前に一定規模以上の安定母数を確保しておかないと新規会員を呼び込めない。)
webなんとかの運営ってさ「とにかく金かけない」「できれば個人で」みたいなところからじゃないとまず難しい。
更に取材を受ける側にとっても「そこで語ってもどれだけの人に浸透するの」って威力が有料化で落ちちゃうと、これは何のための取材ですかって事にもなり兼ねない。
(昔話みたいになりつつあるスポーツ新聞ってのもさ、アダルトなナントカとかがある意味稼ぎ頭ってのかな〜、販促的にそういう部分あったワケじゃん。web広告だってアダルトのアフェリエイト無しに考えられないでしょ。)
随分昔の話になるけれど、所謂ひとつの悪質系某アダルトサイトってさDoCo○○だとかも裏で推奨してたんだよね(通信費儲かるワケだから)、SONYのベータ潰しでパナがVHSを田舎で売り込んだ時にもアダルトビデオ無料でお付けしますとかさ(笑
インターネットの販促って「無料であること」なんだわ。そこを有料にしちゃうことは常に一歩間違うと自滅の道になってしまう。
(webの動画やTVの有料チャンネルなんかも販促ってさ「今なら一か月なんとかが無料」とかでしょ。あのリクルートなんでフリーペーパーを武器にあそこまでいってるんだし。)
勿論IWJも一部のコンテンツは無料のまま開放していたんだけれど、報道メディアで「一部無料方式」は馴染まないと思うんだよね。
(黒字化成功している珍しい例と知られている神保氏の『ビデオニュース・ドットコム』も拡散性という点では成功しているとは言えず、同人誌的なメディアみたいなもんだし。)
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2013年10月22日
2013年10月18日
時代がガツンと進んできました
安倍政権のインフレターゲット云々どころじゃありませんよ。
いよいよきました、真打ち登場。
↓
毎月28万円支給、スイスでベーシックインカム国民投票へ
http://media.yucasee.jp/posts/index/13699?la=nr1
(一部引用)
<ゆかしメディア2013年10月08日>
投票結果なんてどうでもいんですよ。
この話題が報道され政策として周知される事が重要なんです。
少なくとも欧州では大人たちが難しい顔して「あーでもないこーでもない」と論争する話題として頭角するでしょうし、(経済学というよりも)経営学的にその可能性を真面目な顔で説明する人など出てくると思います。
又、引用の報道にも記載があるように「その政策が右派からきたもの」そして内容的に左派にもウケる内容であること、この辺のイデオロギー対立の『共同幻想』すらぶち壊す力がある政策であり、
もうどうにも袋小路に入りつつある欧州経済の閉そく感を打開する最終兵器となる可能性もあります。 ↑
勿論「票の動きに目が無い」政治家のみなさんが、この政策を見逃す筈も無く、
政治家個人や勉強会など様々な方向から「実現性」が討議され始めるのではないでしょうか。
(ちなみに「みんなの党」は党の政策になってますし、旧民主党リベラル派の間からもこの話普通に出てきてました。)
■私は個人的に「リアル資本主義」として、汎用性の高い産業ロボットを公共投資で購入し、国民背番号に割り当てした上で国が中小企業などに法定最低賃金で貸与する形で「ベーシックインカム分公共投資で生産された産業ロボットが稼ぐ」という仕組みを考えておる訳ですが、
他にも同様の「国が稼ぐ」オプション出てくると思うんですよ。
『ベーシックインカム』導入すれば「大規模需要政策」になるんですから、産業政策とリンクする政策化すれば自立循環が成功する可能性「有り得ます」。
大手メディアが報道するのかまだ微妙ですが、
スイス国民投票の論議が盛り上がってくれば更に拡散の可能性もあるように思います。
少なくともひとつの端緒として”始まった感大”です。
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いよいよきました、真打ち登場。
↓
毎月28万円支給、スイスでベーシックインカム国民投票へ
http://media.yucasee.jp/posts/index/13699?la=nr1
(一部引用)
ベーシックインカムを巡って市民の間で運動が行われていたスイスで、導入に関する国民投票が行われることが8日わかった。
ロイター通信などによると、市民運動の代表者がこれまでの活動で集めてきた署名10万人分を政府に提出し、国民一人あたり(成人)に1カ月2500スイスフラン(約28万円)を支給することを訴えた。また、そのパフォーマンスとして、国会議事堂に2500スイスフランの硬貨をトラックからぶちまけた。
スイスでは、破格の報酬を受け取る会社代表に対して高額報酬を規制する法案が通ったり、経済格差拡大が社会問題化している、という背景がある。
ベーシックインカムとは、国民の最低限度の生活を保障する制度で、乳幼児から老人までその権利を受けることができる。様々な保証を一括した配給制度であり、運用においても事務の簡素化をはかることができるため小さな政府を実現しやすいなどのメリットもある。また、民間ベースでも、雇用の流動性を生むために、新たな産業の創出など利点も大きい。
ただし、その一方では、給付金額しだいでは、支給総額が膨大なものになる可能性、勤労意欲の低下などの懸念点も多く、導入された国はいまだにない。
スイスでは11月にも国民投票が行われる見通しだが、結果は注目だろう。
ベーシックインカムは、相反する思想を持つ、小さな政府主義のリバタリアン、平等主義のコミュニストの両方が賛成する傾向にある。
<ゆかしメディア2013年10月08日>
投票結果なんてどうでもいんですよ。
この話題が報道され政策として周知される事が重要なんです。
少なくとも欧州では大人たちが難しい顔して「あーでもないこーでもない」と論争する話題として頭角するでしょうし、(経済学というよりも)経営学的にその可能性を真面目な顔で説明する人など出てくると思います。
又、引用の報道にも記載があるように「その政策が右派からきたもの」そして内容的に左派にもウケる内容であること、この辺のイデオロギー対立の『共同幻想』すらぶち壊す力がある政策であり、
もうどうにも袋小路に入りつつある欧州経済の閉そく感を打開する最終兵器となる可能性もあります。 ↑
勿論「票の動きに目が無い」政治家のみなさんが、この政策を見逃す筈も無く、
政治家個人や勉強会など様々な方向から「実現性」が討議され始めるのではないでしょうか。
(ちなみに「みんなの党」は党の政策になってますし、旧民主党リベラル派の間からもこの話普通に出てきてました。)
■私は個人的に「リアル資本主義」として、汎用性の高い産業ロボットを公共投資で購入し、国民背番号に割り当てした上で国が中小企業などに法定最低賃金で貸与する形で「ベーシックインカム分公共投資で生産された産業ロボットが稼ぐ」という仕組みを考えておる訳ですが、
他にも同様の「国が稼ぐ」オプション出てくると思うんですよ。
『ベーシックインカム』導入すれば「大規模需要政策」になるんですから、産業政策とリンクする政策化すれば自立循環が成功する可能性「有り得ます」。
大手メディアが報道するのかまだ微妙ですが、
スイス国民投票の論議が盛り上がってくれば更に拡散の可能性もあるように思います。
少なくともひとつの端緒として”始まった感大”です。
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2013年10月09日
精神分析的アプローチにおける『抵抗』
(「抵抗」はそのまんま字の意味ではなくって、用語的な意味の話ね。)
『単独者』の概念のとこの実存主義における「反抗」と似ているのでわかり難いかもしれなんだが、まーここでも「抵抗はパッシブで反抗はアクティブ」という事でまとめておく。
さて本題の『抵抗』でいうとですね、
通常『共同幻想』社会適応人格な人が心理学を理解できない云々のくだりが「抵抗の代表選手」と言ってもいい。現象としては「受け付けない」って趣かな。
昭和の口語調で言えば「頑固オヤジ、わからずや、頭の硬い(堅い)人、真面目人間」
ちなみにその反対『共同幻想』に反抗する単独者を昭和の口語調にすれば「天邪鬼(あまのじゃく)、(普通と違う)個性的な人、変人(昭和には「自分を持っている人」なんて変な言葉もあった)」
メンタル問題の場合もそれに類する強い抵抗ナントカが論じられる場合もあるけれども(カウンセリングなども無効になる的な)、それは根本的に日常会話が成立するレベルを逸脱したしまったりする人格破綻状態の場合で、「受け入れがたい感がある」だとかのレベルを(手遅れ的意味の)強い抵抗話に理解するのは違うと考えてる。
■「強迫心理」の元ネタは『共同幻想』であり(ザックリ言えば『幼児心理など過去の共同幻想』なんだけども)、勿論自己保存的防衛反射あるのが当たり前になる。
専らメンタル問題を自覚して相談するであるとか通院するって行為にシフトした段階でそこんところのハードル(防衛反応)を越していて、『自意識』も「もういい加減にしろ」的にそのスタンスを与件化していると見てもいんだけれど、
当人がメンタル問題などへの自覚が中途半端だと(端的に言えば目先の問題が他人のせいだと効果的に認識されていて恨みや怒りや暴言で代謝されてしまっている場合)、『問題意識』認知によってハードル(防衛反応)を越せないというか、ハードルの上に乗り上げてどうしたもんか状態だったりすることになるので、見掛け上の抵抗は激しいものになる。
(ここは前段の注釈との対象で言うと「見掛け上」ってところがポイント)
『共同幻想』適応人格で何不自由無く生きている人と心理学論議になった場合の「何言ってもダメだ感」みたいな抵抗は普通にあり得るので、それは織り込み済み的に考えておいて丁度いい。。
(『共同幻想』適応人格との共通性はあくまでも”準ずる”であって、『共同幻想』適応人格と同じでは無い。←メンタル問題がある場合に心理的側面への問題意識が全く無いって事は有り得ないため。『自意識』としても認めざるを得ない何らかの不都合が顕在化しているって事だから。)
かといって『共同幻想』適応人格とその「抵抗」が同じかと言えば前述括弧書きにもあるように全く違うものになる。
▲『共同幻想』適応人格で何らメンタル等に問題無い場合、
『共同幻想』に付き従う『自意識』との関係も合意による強固な構造になっているので、大人の論理として「これこれこのような、かくかくしかじかの理由でそんな事は有り得ないし、間違いである。何故なら道徳的にも○○は、、、」←などのように保守系の大人の政治思想みたいな論理がガッチリ定着しているので「自信満々に受け入れない」というか(笑、
無理に論議進めようとすれば敵性認定されて「本物の防衛出動」になってしまいます(昭和の頑固オヤジが暴力に訴えても自分の信じる道徳を守ろうとするように)。
まーわかりやすく言えば、「クラッシックを愛する昭和の頑固オヤジ的な『共同幻想』適応人格にとって、心理学や精神分析ってのは”ビートルズのウルサイ音楽など理解できない”的反感のような形」で抵抗が発生するワケだ。
(『共同幻想』適応人格の場合、フロイド心理学はある程度の水準超えると構造的拒絶で理解できない。←典型的な『共同幻想リミッター』の一種。)
現代社会に近づくほど「心理学が学問としてタブーでなくなってきた」背景はそのまんま『共同幻想』社会が崩壊過程にあるからで、前述のたとえ話も「昭和の」と枕詞があるように(実はこれ昭和には「明治の」という枕詞がついたものだった)現代社会でそんな鉄板の『共同幻想』人格なるものは探す方が難しいと考えていい。誰しもどこかで迷う時代に突入している。
▲これに対して「強迫心理」系の『抵抗』ってのは、
『自意識共犯的』に自意識がこれを(無意識に)追認する事はあっても「両手を携えて確信犯的共犯者として構造化しているワケでは無いため」、大人の論理としてそれを大演説で語るって状況にはならない。
(たとえば「微妙に根拠が疑問形的だったり」)
構造的に正当性認知が不安定なので(てか真剣に考えれば「強迫心理」などに正当性や合理性などある筈も無いので)、更に言えば自意識は「それは『共同幻想』に含まれる関連事項じゃないか」的に受け身で騙されているかのように事後的な共犯関係となっているのだから、表向きは普通の『共同幻想』だというのが建前になる。→しかし、その表向きの『共同幻想』との関係さえ前述のとおり強固なものでは無いから、表面的というか根拠に対する認識が小学校の学級委員長が言うような水準を超えないワケで、ここでも「構造的に不安定」なわけさ。
実際どうにかこうにか『自意識』を抑圧する事で均衡しているに過ぎないのだからね。
だからメンタル問題において(その発現理由はともかく)『抵抗』が発生する場合、
その反論は、
「論旨が疑問形レベル」だとか、
「そもそも論理的にというか文脈的にも反論にもなっていない」だとか、
「事実関係すら取り違えている」だとか、
「誰も言っていない事に反論している」だとか、
所謂行為としては抵抗が起きているようだけれど、そのほとんどが無理筋になる訳で(これ勿論自分自身ある程度自覚できることだからさ)話の通じない『共同幻想』適応人格のそれとは同じでは無い。
=精神分析的なアプローチはメンタル問題を発現する自我だからこそ有効って事になる。
これを勿論いい悪いで論じるのはナンセンスなんだけれども、『共同幻想』適応がガチっと入っていないから(反抗期からそのまま『単独者』ルートとは別に)「社会全体に拡大しつつある『共同幻想』崩壊の先端」として心理学への理解が可能なポテンシャルがある事になる。
ここには重要なポイントがあって、「建前上は『共同幻想』的根拠って”事になっている”」ため、当事者が『共同幻想』社会になんだかんだと関係続けていると(所謂「取り巻きスカウティング」みたいなケースも多発するんだけれど)、周囲は表向きのスタンスが『共同幻想?』なものだから「そもそもメンタル問題の存在などを疑う事も少ない上に」このマスキング効果が当事者へのメンタル問題認識を後退させる。←逆抑圧とでも言えばいいのかな、、
(※確信犯的『共同幻想』の再選択をした場合も鉄板級の『共同幻想』適応を志向することになるので、後期先進国社会において誰もが何らかの形で同様に通るルートの一種には違いなく、『共同幻想』そのものが崩壊過程にあるのだから、現代社会においてこれにどう対峙するのかって部分を避けられる人格は無い。)
→続きを読む
『単独者』の概念のとこの実存主義における「反抗」と似ているのでわかり難いかもしれなんだが、まーここでも「抵抗はパッシブで反抗はアクティブ」という事でまとめておく。
さて本題の『抵抗』でいうとですね、
通常『共同幻想』社会適応人格な人が心理学を理解できない云々のくだりが「抵抗の代表選手」と言ってもいい。現象としては「受け付けない」って趣かな。
昭和の口語調で言えば「頑固オヤジ、わからずや、頭の硬い(堅い)人、真面目人間」
ちなみにその反対『共同幻想』に反抗する単独者を昭和の口語調にすれば「天邪鬼(あまのじゃく)、(普通と違う)個性的な人、変人(昭和には「自分を持っている人」なんて変な言葉もあった)」
メンタル問題の場合もそれに類する強い抵抗ナントカが論じられる場合もあるけれども(カウンセリングなども無効になる的な)、それは根本的に日常会話が成立するレベルを逸脱したしまったりする人格破綻状態の場合で、「受け入れがたい感がある」だとかのレベルを(手遅れ的意味の)強い抵抗話に理解するのは違うと考えてる。
■「強迫心理」の元ネタは『共同幻想』であり(ザックリ言えば『幼児心理など過去の共同幻想』なんだけども)、勿論自己保存的防衛反射あるのが当たり前になる。
専らメンタル問題を自覚して相談するであるとか通院するって行為にシフトした段階でそこんところのハードル(防衛反応)を越していて、『自意識』も「もういい加減にしろ」的にそのスタンスを与件化していると見てもいんだけれど、
当人がメンタル問題などへの自覚が中途半端だと(端的に言えば目先の問題が他人のせいだと効果的に認識されていて恨みや怒りや暴言で代謝されてしまっている場合)、『問題意識』認知によってハードル(防衛反応)を越せないというか、ハードルの上に乗り上げてどうしたもんか状態だったりすることになるので、見掛け上の抵抗は激しいものになる。
(ここは前段の注釈との対象で言うと「見掛け上」ってところがポイント)
『共同幻想』適応人格で何不自由無く生きている人と心理学論議になった場合の「何言ってもダメだ感」みたいな抵抗は普通にあり得るので、それは織り込み済み的に考えておいて丁度いい。。
(『共同幻想』適応人格との共通性はあくまでも”準ずる”であって、『共同幻想』適応人格と同じでは無い。←メンタル問題がある場合に心理的側面への問題意識が全く無いって事は有り得ないため。『自意識』としても認めざるを得ない何らかの不都合が顕在化しているって事だから。)
かといって『共同幻想』適応人格とその「抵抗」が同じかと言えば前述括弧書きにもあるように全く違うものになる。
▲『共同幻想』適応人格で何らメンタル等に問題無い場合、
『共同幻想』に付き従う『自意識』との関係も合意による強固な構造になっているので、大人の論理として「これこれこのような、かくかくしかじかの理由でそんな事は有り得ないし、間違いである。何故なら道徳的にも○○は、、、」←などのように保守系の大人の政治思想みたいな論理がガッチリ定着しているので「自信満々に受け入れない」というか(笑、
無理に論議進めようとすれば敵性認定されて「本物の防衛出動」になってしまいます(昭和の頑固オヤジが暴力に訴えても自分の信じる道徳を守ろうとするように)。
まーわかりやすく言えば、「クラッシックを愛する昭和の頑固オヤジ的な『共同幻想』適応人格にとって、心理学や精神分析ってのは”ビートルズのウルサイ音楽など理解できない”的反感のような形」で抵抗が発生するワケだ。
(『共同幻想』適応人格の場合、フロイド心理学はある程度の水準超えると構造的拒絶で理解できない。←典型的な『共同幻想リミッター』の一種。)
現代社会に近づくほど「心理学が学問としてタブーでなくなってきた」背景はそのまんま『共同幻想』社会が崩壊過程にあるからで、前述のたとえ話も「昭和の」と枕詞があるように(実はこれ昭和には「明治の」という枕詞がついたものだった)現代社会でそんな鉄板の『共同幻想』人格なるものは探す方が難しいと考えていい。誰しもどこかで迷う時代に突入している。
▲これに対して「強迫心理」系の『抵抗』ってのは、
『自意識共犯的』に自意識がこれを(無意識に)追認する事はあっても「両手を携えて確信犯的共犯者として構造化しているワケでは無いため」、大人の論理としてそれを大演説で語るって状況にはならない。
(たとえば「微妙に根拠が疑問形的だったり」)
構造的に正当性認知が不安定なので(てか真剣に考えれば「強迫心理」などに正当性や合理性などある筈も無いので)、更に言えば自意識は「それは『共同幻想』に含まれる関連事項じゃないか」的に受け身で騙されているかのように事後的な共犯関係となっているのだから、表向きは普通の『共同幻想』だというのが建前になる。→しかし、その表向きの『共同幻想』との関係さえ前述のとおり強固なものでは無いから、表面的というか根拠に対する認識が小学校の学級委員長が言うような水準を超えないワケで、ここでも「構造的に不安定」なわけさ。
実際どうにかこうにか『自意識』を抑圧する事で均衡しているに過ぎないのだからね。
だからメンタル問題において(その発現理由はともかく)『抵抗』が発生する場合、
その反論は、
「論旨が疑問形レベル」だとか、
「そもそも論理的にというか文脈的にも反論にもなっていない」だとか、
「事実関係すら取り違えている」だとか、
「誰も言っていない事に反論している」だとか、
所謂行為としては抵抗が起きているようだけれど、そのほとんどが無理筋になる訳で(これ勿論自分自身ある程度自覚できることだからさ)話の通じない『共同幻想』適応人格のそれとは同じでは無い。
=精神分析的なアプローチはメンタル問題を発現する自我だからこそ有効って事になる。
これを勿論いい悪いで論じるのはナンセンスなんだけれども、『共同幻想』適応がガチっと入っていないから(反抗期からそのまま『単独者』ルートとは別に)「社会全体に拡大しつつある『共同幻想』崩壊の先端」として心理学への理解が可能なポテンシャルがある事になる。
ここには重要なポイントがあって、「建前上は『共同幻想』的根拠って”事になっている”」ため、当事者が『共同幻想』社会になんだかんだと関係続けていると(所謂「取り巻きスカウティング」みたいなケースも多発するんだけれど)、周囲は表向きのスタンスが『共同幻想?』なものだから「そもそもメンタル問題の存在などを疑う事も少ない上に」このマスキング効果が当事者へのメンタル問題認識を後退させる。←逆抑圧とでも言えばいいのかな、、
(※確信犯的『共同幻想』の再選択をした場合も鉄板級の『共同幻想』適応を志向することになるので、後期先進国社会において誰もが何らかの形で同様に通るルートの一種には違いなく、『共同幻想』そのものが崩壊過程にあるのだから、現代社会においてこれにどう対峙するのかって部分を避けられる人格は無い。)
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2013年10月03日
リアリズム論「現実は言うほど(幻想では無く)空想である」
元からリアリズムであって”現実主義”として考えても現実そのものでは無くって「踏まえた」だとか「捉えかた」や「向き合い方」って事になるでしょう。リアリティーなんて事になれば「現実的の”的”」ですから全く現実じゃなくてせいぜいが「現実らしさ」です。
当たり前の話ですが、動機形成における想定って奴は未来の話なのだから現実そのものじゃありません。かといって現実は静止画像じゃないのだから(時間の流れを水にたとえれば川面を眺めているようなもので)「これです」と切り出せるものでも無い。
先、先、と半分”読み”つつも更に「その先」を想定する行為は現実の流れの中で現実の先を見ているのであれば行為として現実だと考える事もできる。
心理学であるとか「強迫心理」の説明で頻繁に『現実との乖離』の話が出てきますが、
専らこの話は「過去の認識と事実関係との確認」から説明される事になりますが、現場というか過去ではん無く現在・その時に『乖離』ってのはどういう状態になっとるのかと。
■ここで冒頭の話に繋がるワケです。
ぶっちゃけ「先、先、」レベルが荒唐無稽なのは無理あるとしても、「その先」をどう考えるのかってところはパスカルの賭けとかの話そのまんまなので、ぶっちゃけ「空想だのSF級の現実との乖離」あっても全然OKなんです。
(一瞬そりゃ「現実”離れ”」って事になるのでおかしくないか?とお思いの方いらっしゃるかもしれませんが、そうはならんのです。)
「○○の夢を”目指して”頑張ります」
「○○を目標に”向かって”頑張ります」
上記2例はどちらも「本当にそれを実現させようって思っているワケでは無い」事を明言してます。
(意思表明しているのは「方向」だとか「行先」について、)
せいぜいが「できたらいいなと思っています」という表明ですわね、
つまり「その先」の話だから(確率的には地球が滅亡している可能性だってあるんだから)荒唐無稽でもいんです、それは現実との乖離にならないんです。
更に言うと、乖離どころか(ここがパスカルの書けまんまですが)乖離している事を誰も証明できない。ひょっとして有り得る確率はあるんだから(それこそ地球滅亡だって)。
■モチベーション論でもあるんだけれども、
自分の動機形成における「馬の鼻の先にぶら下げたニンジン」ってのはさ、ライオンなんかで当てはめれば(狩り的に言えば成功する狩りの方が数は少ない)「あのバッファロー食おうか」という企画意図ですな(泥棒で言えば「次のヤマはあの現金輸送車だ」など)、「獲得利益の想定」さえあれば実現性に乏しくても動機形成は可能です。
で、この動機を実行するか否かの選択が”賭け”って事になる。
更に「人生は賭けである」って話に繋がるわけだ。(未来は誰にもわからないんだから)
現在行おうとしている行為の動機形成とその実行プロセスは「常に賭け」であって、
おばちゃんの「○○スーパーならもっと安いんじゃないかしら」とかだって立派な賭けです。
そこで、
言語学的見地としてだね「現実的なる方のリアリティー」で行くと、
『共同幻想』社会適応人格の場合、これは暗韻的に(間接的というよりモロ暗韻)『共同幻想的世界観との一致性があるか』を意味していて(現実ってものが『共同幻想』の枠内から外れない事)、むしろ「現実との乖離フラグ」になる訳だよ。
現実ってものの可能性をひとつの予め想定された枠組みに押し込めるって認識だからね。
(曰く『抑圧』プロセスと全く同じ)
しかし『共同幻想』社会適応人格の場合、乖離もクソも現実認知ってものが『共同幻想』の想定範囲内に無理しゃりにでも収まっていない事には「話が違う」って事になるため「現実との乖離があるんだがそれで仮想上の合理性は保たれている事になる」←無意識に『共同幻想』保守主義という政治思想を自分自身の主義主張として(賭けの中で)選択したことに”なっちゃっている事”を容認する形で事後承諾しているって自我プロセスになる。
(※これを覆すには「リベラル主義的抗弁」というような形で「抗(あらがう)姿勢」を取れば各論で突破可能なのだけれど=「自意識マターによる反抗」という概念を肯定できていないと「自意識共犯肯定」が変化する事は無い。)
てことはだ、
言語学的見地としての「現実主義的リアリズム」ってのはだ、
前述の乖離を「そりゃ乖離してんだろ」と批判的位置取りになってくると思うわけさ。
リアルに加工してんじゃネーぞとね。
(わかりやすく極端な表現にすれば「現実至上主義」だからさ、)
「この野郎、ひょっとしたら明日世界は滅亡するかも知れないってリアリズムをどういう立ち位置から堂々と否定してんだ、お前は神か?」←みたいな感じかな。
皮肉な事に「リアリティーよりリアリズムのが空想的だ」とも言える。
この辺のだね、一見論理矛盾しているように見えてそれが正解ってのわだ、極めて言語ってものがその論理性において『共同幻想寄りである』って事を表しているようにも思える。
そりゃ言語自体『共同幻想ツールの一種』なんだからさ、まーそうなんだけれど。
■<話は戻って>
「スゲー空想なのに現実から乖離していない”賭け”」←この概念をどう見るかなのさ。
時間軸との関連性が重要なんだけどさ、
心理学的に言えば頻繁に登場する「時制認知の問題」って言えばいいか。
前述『共同幻想』事例における典型的な現実との乖離話で言えば、「将来の可能性も『共同幻想』枠内なのである」というようなドグマによって「事実上現在により”枠の範囲だが”未来が規定されちゃっている」=時制の認知がズレているわけだよ。
(言い替えるとだ→未来と現実世界を混同している。)
この場合自分の言葉の論証っていうのかな〜、その証明は「あたかも未来の自分がそれを断じるような」形になるんよ。思考のベクトル的に、
自分の認知座標が『現実から乖離』しているよね。←そういうことよ。
「わかんネーぞ、ひょっとしてこんな事になるかもしれない」という思考は、実行行為としては(どんなに読みが深くても)空想なんだけれど、「可能性を示唆しているだけ」なんだわね。
常に「違うかもしんないけどさ」って暗韻含んでで言語が構成されている。
↑
こういうプロセスであれば、思考はどんなに飛躍しても『現実から乖離しない』のだよ。
「空想って現実だから」
(前述の『共同幻想事例』は「未来も『共同幻想』は健在」って”断定”なんだわ。)
動機形成における「そもそもの企画」ってのは常に空想なんだからさ(その取捨選択が”賭け”)、そこ余談や与件化された想定があっちゃいかん事になる。
(”読み”の部分の「能書き」としての余談や与件化ってのはアリだけれど、)
■『現実との乖離』度合ってのを測る尺度は、
「わかんネーぞ、ひょっとしてこんな事にあるかもしれない」という可能性が(読みによる空想的想定以外で)否定されずに担保されてっかって事に尽きるんです。
↑↓
▲なものだから勿論だが「強迫心理的思考」ってのは、
「○○に決まっている」「○○に違いない」が定番メニューですんで、ガチで『現実と乖離』していってしまうワケです。
あたかも別の時間軸というか別の世界線を生きている人みたいに「自我の時計(マシンの時刻設定の国が違ってるみたいに)」がズレてしまうと考えていんじゃないか。
5年先を考える時には「5年先から現在を」、来月の事を考える時には「来月から現在を」というように現在時刻が未確定なら未来にあたかも確定した状態で現在の自分を見下ろしているような図式です。
(※そのまんま『自我を超越的権威認知から抑圧する図』とはそういう事なんでしょう。リアリズムでは無く「強迫心理が設定したリアリティーの強要」という図です。)
なものだから、肝心要の「今現在への認知が激しく辻褄合わなくなる」のであり(未来の設定に無理があるため)、自意識が後追いするようにこれを『自意識共犯』の恰好で追認していく流れですね。
だから「強迫心理的思考」の時って、理由や根拠が後から出ててくる傾向にある。
■逆に言えば『単独者』的な自我の場合、空想半端ない事もアリアリなので(それがリアリズムである)、普通にサブカルっていうか(メジャーに対してインディ系なのだからむしろサブカルじゃないと構造論的におかしい)、バカばっかりな結論になるのであり、
「バカだなあ」という賞賛と「実存主義における不条理による証明や”反抗”というような世界」とそこで符号するんですよ。符号というか一致というかね、
立ち位置が間違いなく”今現在”だからアホみたいな話に花が咲くという論理です。
※最後に岸田心理学における『唯幻論』との関係で言えば、唯幻論は自我の認知そのものに対する意味と同時に(岸田心理学時代は『共同幻想』との関係を主に論じたものなので)共同幻想下における構造的「強迫心理構造」があるが故の幻想ですよって(所謂メンタル問題に限らずというところがポイント)話の基調にあって、「それは幻想か空想か」と言葉にするとわかるとおり「前者は認知においてパッシブであり後者は当事者主体が明瞭なアクティブな認知である」って話をすればその関係もわかりやすいかと思う。更に言えば「空想する主体がリアリズムである」とするならば、それを俯瞰から観察するとそれも現象として幻想って事になるので、何か殊更『唯幻論』の文言までどうこうするような話では無い。
<10/5追記編集>
加えて、岸田心理学には「理論的には現実から乖離した幻想を周囲が共有化して『共同幻想』として成立させてしまえば」って仮説が語られているぐらい立ち位置は『共同幻想』と個人の自我の関係性から語られているけれども、ここは経済学で言うところのマクロ分析の話で(ミクロのフロイド心理学にマクロ的視点を持ち込んだのが岸田心理学の真骨頂なので)、ここでも言わんとしているのは『乖離』をどう合わせるかって論点になる。(この仮説は周囲のマシンの時間調整も全部ズレてるマシンの時間に合わせちゃったらみたいな、あえてナンセンスな仮説を提示しているんだが、)
つまり「リアリティー」の担保を狙った場合の説明だね。
この”無茶な仮説”は実存主義における「リアリズム(単独者系)」と(『共同幻想』における「リアリティー」)の違いがわかりやくすく理解できる対比になっているかなと思う。
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当たり前の話ですが、動機形成における想定って奴は未来の話なのだから現実そのものじゃありません。かといって現実は静止画像じゃないのだから(時間の流れを水にたとえれば川面を眺めているようなもので)「これです」と切り出せるものでも無い。
先、先、と半分”読み”つつも更に「その先」を想定する行為は現実の流れの中で現実の先を見ているのであれば行為として現実だと考える事もできる。
心理学であるとか「強迫心理」の説明で頻繁に『現実との乖離』の話が出てきますが、
専らこの話は「過去の認識と事実関係との確認」から説明される事になりますが、現場というか過去ではん無く現在・その時に『乖離』ってのはどういう状態になっとるのかと。
■ここで冒頭の話に繋がるワケです。
ぶっちゃけ「先、先、」レベルが荒唐無稽なのは無理あるとしても、「その先」をどう考えるのかってところはパスカルの賭けとかの話そのまんまなので、ぶっちゃけ「空想だのSF級の現実との乖離」あっても全然OKなんです。
(一瞬そりゃ「現実”離れ”」って事になるのでおかしくないか?とお思いの方いらっしゃるかもしれませんが、そうはならんのです。)
「○○の夢を”目指して”頑張ります」
「○○を目標に”向かって”頑張ります」
上記2例はどちらも「本当にそれを実現させようって思っているワケでは無い」事を明言してます。
(意思表明しているのは「方向」だとか「行先」について、)
せいぜいが「できたらいいなと思っています」という表明ですわね、
つまり「その先」の話だから(確率的には地球が滅亡している可能性だってあるんだから)荒唐無稽でもいんです、それは現実との乖離にならないんです。
更に言うと、乖離どころか(ここがパスカルの書けまんまですが)乖離している事を誰も証明できない。ひょっとして有り得る確率はあるんだから(それこそ地球滅亡だって)。
■モチベーション論でもあるんだけれども、
自分の動機形成における「馬の鼻の先にぶら下げたニンジン」ってのはさ、ライオンなんかで当てはめれば(狩り的に言えば成功する狩りの方が数は少ない)「あのバッファロー食おうか」という企画意図ですな(泥棒で言えば「次のヤマはあの現金輸送車だ」など)、「獲得利益の想定」さえあれば実現性に乏しくても動機形成は可能です。
で、この動機を実行するか否かの選択が”賭け”って事になる。
更に「人生は賭けである」って話に繋がるわけだ。(未来は誰にもわからないんだから)
現在行おうとしている行為の動機形成とその実行プロセスは「常に賭け」であって、
おばちゃんの「○○スーパーならもっと安いんじゃないかしら」とかだって立派な賭けです。
そこで、
言語学的見地としてだね「現実的なる方のリアリティー」で行くと、
『共同幻想』社会適応人格の場合、これは暗韻的に(間接的というよりモロ暗韻)『共同幻想的世界観との一致性があるか』を意味していて(現実ってものが『共同幻想』の枠内から外れない事)、むしろ「現実との乖離フラグ」になる訳だよ。
現実ってものの可能性をひとつの予め想定された枠組みに押し込めるって認識だからね。
(曰く『抑圧』プロセスと全く同じ)
しかし『共同幻想』社会適応人格の場合、乖離もクソも現実認知ってものが『共同幻想』の想定範囲内に無理しゃりにでも収まっていない事には「話が違う」って事になるため「現実との乖離があるんだがそれで仮想上の合理性は保たれている事になる」←無意識に『共同幻想』保守主義という政治思想を自分自身の主義主張として(賭けの中で)選択したことに”なっちゃっている事”を容認する形で事後承諾しているって自我プロセスになる。
(※これを覆すには「リベラル主義的抗弁」というような形で「抗(あらがう)姿勢」を取れば各論で突破可能なのだけれど=「自意識マターによる反抗」という概念を肯定できていないと「自意識共犯肯定」が変化する事は無い。)
てことはだ、
言語学的見地としての「現実主義的リアリズム」ってのはだ、
前述の乖離を「そりゃ乖離してんだろ」と批判的位置取りになってくると思うわけさ。
リアルに加工してんじゃネーぞとね。
(わかりやすく極端な表現にすれば「現実至上主義」だからさ、)
「この野郎、ひょっとしたら明日世界は滅亡するかも知れないってリアリズムをどういう立ち位置から堂々と否定してんだ、お前は神か?」←みたいな感じかな。
皮肉な事に「リアリティーよりリアリズムのが空想的だ」とも言える。
この辺のだね、一見論理矛盾しているように見えてそれが正解ってのわだ、極めて言語ってものがその論理性において『共同幻想寄りである』って事を表しているようにも思える。
そりゃ言語自体『共同幻想ツールの一種』なんだからさ、まーそうなんだけれど。
■<話は戻って>
「スゲー空想なのに現実から乖離していない”賭け”」←この概念をどう見るかなのさ。
時間軸との関連性が重要なんだけどさ、
心理学的に言えば頻繁に登場する「時制認知の問題」って言えばいいか。
前述『共同幻想』事例における典型的な現実との乖離話で言えば、「将来の可能性も『共同幻想』枠内なのである」というようなドグマによって「事実上現在により”枠の範囲だが”未来が規定されちゃっている」=時制の認知がズレているわけだよ。
(言い替えるとだ→未来と現実世界を混同している。)
この場合自分の言葉の論証っていうのかな〜、その証明は「あたかも未来の自分がそれを断じるような」形になるんよ。思考のベクトル的に、
自分の認知座標が『現実から乖離』しているよね。←そういうことよ。
「わかんネーぞ、ひょっとしてこんな事になるかもしれない」という思考は、実行行為としては(どんなに読みが深くても)空想なんだけれど、「可能性を示唆しているだけ」なんだわね。
常に「違うかもしんないけどさ」って暗韻含んでで言語が構成されている。
↑
こういうプロセスであれば、思考はどんなに飛躍しても『現実から乖離しない』のだよ。
「空想って現実だから」
(前述の『共同幻想事例』は「未来も『共同幻想』は健在」って”断定”なんだわ。)
動機形成における「そもそもの企画」ってのは常に空想なんだからさ(その取捨選択が”賭け”)、そこ余談や与件化された想定があっちゃいかん事になる。
(”読み”の部分の「能書き」としての余談や与件化ってのはアリだけれど、)
■『現実との乖離』度合ってのを測る尺度は、
「わかんネーぞ、ひょっとしてこんな事にあるかもしれない」という可能性が(読みによる空想的想定以外で)否定されずに担保されてっかって事に尽きるんです。
↑↓
▲なものだから勿論だが「強迫心理的思考」ってのは、
「○○に決まっている」「○○に違いない」が定番メニューですんで、ガチで『現実と乖離』していってしまうワケです。
あたかも別の時間軸というか別の世界線を生きている人みたいに「自我の時計(マシンの時刻設定の国が違ってるみたいに)」がズレてしまうと考えていんじゃないか。
5年先を考える時には「5年先から現在を」、来月の事を考える時には「来月から現在を」というように現在時刻が未確定なら未来にあたかも確定した状態で現在の自分を見下ろしているような図式です。
(※そのまんま『自我を超越的権威認知から抑圧する図』とはそういう事なんでしょう。リアリズムでは無く「強迫心理が設定したリアリティーの強要」という図です。)
なものだから、肝心要の「今現在への認知が激しく辻褄合わなくなる」のであり(未来の設定に無理があるため)、自意識が後追いするようにこれを『自意識共犯』の恰好で追認していく流れですね。
だから「強迫心理的思考」の時って、理由や根拠が後から出ててくる傾向にある。
■逆に言えば『単独者』的な自我の場合、空想半端ない事もアリアリなので(それがリアリズムである)、普通にサブカルっていうか(メジャーに対してインディ系なのだからむしろサブカルじゃないと構造論的におかしい)、バカばっかりな結論になるのであり、
「バカだなあ」という賞賛と「実存主義における不条理による証明や”反抗”というような世界」とそこで符号するんですよ。符号というか一致というかね、
立ち位置が間違いなく”今現在”だからアホみたいな話に花が咲くという論理です。
※最後に岸田心理学における『唯幻論』との関係で言えば、唯幻論は自我の認知そのものに対する意味と同時に(岸田心理学時代は『共同幻想』との関係を主に論じたものなので)共同幻想下における構造的「強迫心理構造」があるが故の幻想ですよって(所謂メンタル問題に限らずというところがポイント)話の基調にあって、「それは幻想か空想か」と言葉にするとわかるとおり「前者は認知においてパッシブであり後者は当事者主体が明瞭なアクティブな認知である」って話をすればその関係もわかりやすいかと思う。更に言えば「空想する主体がリアリズムである」とするならば、それを俯瞰から観察するとそれも現象として幻想って事になるので、何か殊更『唯幻論』の文言までどうこうするような話では無い。
<10/5追記編集>
加えて、岸田心理学には「理論的には現実から乖離した幻想を周囲が共有化して『共同幻想』として成立させてしまえば」って仮説が語られているぐらい立ち位置は『共同幻想』と個人の自我の関係性から語られているけれども、ここは経済学で言うところのマクロ分析の話で(ミクロのフロイド心理学にマクロ的視点を持ち込んだのが岸田心理学の真骨頂なので)、ここでも言わんとしているのは『乖離』をどう合わせるかって論点になる。(この仮説は周囲のマシンの時間調整も全部ズレてるマシンの時間に合わせちゃったらみたいな、あえてナンセンスな仮説を提示しているんだが、)
つまり「リアリティー」の担保を狙った場合の説明だね。
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