リアリティーだと「リアル”らしさ”の方では無くリアルを追求するべく姿勢の方」など注釈つけてもまだ誤解の元なので(この辺言葉が元々アバウトなのでほんとにめんどくさい)、表題的には『リアリズム』としたが殊更”ナントカ主義”のような話をしよってのではありません。
前回を引き継いで、現代社会における自我の実存の”認知”を考えとる訳です。
ここが認知できないと自我は『主体の無いシミュレーション』のような代物になってしまいます。
(そこで主体性やら自立性やらあり得ないわけで、構造的に自我は何らかの”権威”なりに従属でもしないと存在の確認すらできなくなるっちゅう訳です。)
若干「主語の無い言葉」だとかにも被るかなと思います。
前回の話でそもそも人間に限らず生物ってものが認知しているのは「そのままのリアル」ではなく、脳内に展開されたバーチャルな現実である事を説明してきましたが、
時代的に岸田教授登場云々の頃にはそのバーチャルなものを統合する仮想権威として『共同幻想』が云々され(動物で言えばここが普遍的本能のような行動原理により統合されている)、そこんところの社会性は時代の変遷で『単独者』的な概念に置き換わり、現代社会では『共同幻想』の実態が過半数を割り込む実情やら(この時点で『共同幻想』の権威性プルーフの多数決上位構造は自戒してしまう)説明してきたろころです。
簡単に言えば『予め舞台設定された状況における自分の配役』のような認知で自我の存在を認知する『共同幻想』特有の社会的基盤は予めおり込み済みの先進国化の中で弱体化・脆弱化するワケで。
(ちなみにネットにおけるSNSはそこに派生したスキマ産業のようなものになる。)
うんで、
『単独者』的な実存がどういう事になって『リアリズム』として自我の統合なり主体論なりを構成するんかということだけれど、
「ニワトリか卵か」のような話でもある。
■単独者が実存を体現するとも言えるし、その構造は『抗(あらがう)』形でのリアリズムの追求なので自動的にそれは『単独者』の事だとも言える。
そこんところのバックグラウンドが『近代・共同幻想』が「ようやく文盲率が下がった」あたりで本格化するのに比べて、先進国下・高福祉下における核家族(或いは結婚によらない出生率が5割越えによる母子家庭を基本とする”もっと核世帯”)と高学歴化により『リベラル系後期先進国・単独者』の図式は殊更大きな変化という事でもない。
(勿論『近代・共同幻想』時代から『単独者』はいたわけだけど、これは偶発的環境も込みで発生していたと見てもいい。「そういう自我の才能」みたいなものは概念としてナンセンス←理由は考えるまでも無い話で、群れを形成する生物は「好きでやっているのでは無く」捕食生物などに対する安全保障としてであって、アダムにも似た”ペット化環境”などで証明されているように環境が許せばあらゆる生物は単独行動化するもんだと考えても大きく間違いでは無い。)
そしてー心理学的な見方なんだが、
『反抗期』でこいつを検証するとだ、
幼児期幻想ってのは自らの発育やらで台頭する「個人的快感獲得能力(てか本当は人間が妙な進化していなければ生まれた冒頭から持っていてもいい能力が)」”人類普遍の不具者”の立場から遅ればせながら機能回復するためで、その交換性(誇大とも言えるイメージに対しても経済学的に交換価値があるように認知され)により”幻滅”過程に以降する。
(注:この成長により獲得される能動性なり個人的快感獲得能力なるものは、実現だとか体現されている必要性は無い。「ひとりで好き勝手に歩けるようになった」に起因する”可能性”は”未知”であるため仮想無限大なのでこいつが”誇大性”とタイマン勝負できる鍵となる。又、仮に当事者が巷で言うところの「どんくさい特性」なんてものの持主であっても、想像するのは誰しも自由なのであり(ここ言うならば「アウシュビッツでも人の夢を縛れない現象」のように)仮に独房に投獄される人生であっても標準的に起こりうる現象になる。←これを潰す方法は強迫心理なりのレトリックの中で結果”自分から過去の世界”に引きこもった場合、或いは強迫心理的”設定”を強行に保守する場合。)
■さてここの説明で、心理学的解説つけると、
幼児期の誇大性が(何の演出効果なのかは個別に違うので類型化できない)何かの拍子だとか、幼児の創造性だとか、難解な親の言動で「ちょっと収拾がつかないほどの規模」である場合(まーいわゆる強迫心理元ネタ化)、経済原則として「(誇大性部分が相対デカ過ぎて)交換価値が派生せず」『反抗期』の幻滅が起きない或いは中途半端になってしまう。
(ここがメンタル問題のネタバレ)
このブログを始めた頃の社会情勢ってのは『共同幻想崩壊指標』的にですな、総務省辺りの調査が6分4分か5分5分だったので、『共同幻想』は崩壊過程であり(それが自明なのはわかっているのだが)今後えらいことになる的なコメントに寸止めされていたんだが、07年民主党への政権交代が起きたあたりから更に状況は進み、最近は遠慮なく『単独者化への時代へ転換している』と説明している。
かといって、
メンタル問題の出口が100%『単独者選択』となるのではない。
前回の『共同幻想の現状論』で書いたとおりで「確信犯的『共同幻想』保守選択」というジャンルも消える事は無い(文明の連続性が何らかのSFチックな現象で断絶すれば別かもだが)、理由は簡単で「権威性価値体系」なるものを成立させることができる”限り無く普遍的ファンダメンタル”は事実上(当時国家が後期先進国を続けているのであればを条件に)”不滅”だからだ。=「伝統文化」。
現行母数の集団多数決による『共同幻想』では無くって、自己選択される『様式的共同幻想』の方ね。
これまで「確信犯的(再選択型)『共同幻想』保守系」なるモデルもそのまんま『共同幻想』で説明してきたんだが、これ本当は別の言語表現にした方がわかりやすいのかもしんない。
(まーそれはともかくどうでもいいっちゃどうでもいいことなのでなんだか特殊な呼称を考えようってつもりは全くないんだが。)
■『単独者』そのものは説明できない件
『共同幻想』はなにげに社会学みたいな流れでつらつら説明できるんだが、『単独者』ってものの”各論”をあーだこーだと論じることは構造的にできない。
(説明できるのは「そんなわけで『共同幻想』に対してアンチテーゼになっている」てな後日談みたいなところに限られる。)
「個性とは何?」の問いみたいなもんだわね、
「誰の」が特定されないと答えは「バラバラの状態」みたいな事になるから、各論に関しては説明になんネーっつか説明する事自体に意味が無い(「いろんな人がそりゃいるでしょう」で終わり)。
ギリギリ説明するならば「好き勝手にしている様」とかになる。
なものだから、実存主義哲学なんぞにおいての説明が「反抗する様」までになるんだな、
(※ここ毛沢東の『造反有理』と全然違うのでトンデモの勘違いしないように、←アンチテーゼを語る手法的には被っているのかもだが、)
そして心理学的に言えば、この実存主義哲学の「反抗」ってのが『反抗期の様』から考えれば、
「”幻滅”が発生する自我の経済状況」って話になり、
確かに『反抗期』ってでっかい現実アップデートの時には荒れもしたり激しいものだったりするんだが(なんての経済で言えばデフォルトとか)、この姿は「既視感的現実に対する個人的発見の認知」局面で永遠に継続するワケよ、
↑
生きているんだからさ、生存証明じゃないが、今見ているつーか認知されている”何”は誰とも互換性の無い”新ナントカ”なんだわ(言語化の過程でそれを「自分なりにこうだ」みたいな思考だとか考察になるんだけれど←おひれはひれと説明しないといけない熟語とでも言えばいいか)、
えーこれが『リアリズム』っちゅうワケだ。
(体感されている状況が”リアリティー”)
■だから既視感的世界観で語られるなんとやらに対しての認知は「なんか(『共同幻想』的な)話聞いてもリアリティーが無いな〜」とかの返しになる。
或いは「どこの世界の何の話をしているのかピンとこない」だとか、
(この時既に当事者は『単独者系自我』の様相になっていることになる。)
つまり『単独者』は配役のハマリ度でリアリティーを感じているのではなく(=アイデンティティー感でもいいかな)、行動原理が『リアリズム』なので共同幻想などの権威性認知でそれをプルーフする必要性が無い自我構造になる。
(だから『単独者』の場合『自意識』を”外から”拘束するような権威的認知こそがリアリズムにとって邪魔なものになるので(心理学的に言えば刷り込みで導入される超自我)、スタンスは『アンチ共同幻想』であり勿論『アンチ強迫心理』となる。=『抗(あらがう)者』。)
岸田教授の時代の解説だと、
「それを説明しても共同化図れない概念は、無意識化しがちで自我統合上なんつーか」みたいな説明あるんだけれど、これは当時の社会情勢の話であって、
共同化云々と関係無く、表現の場というかだね「表す場所」があれば”現在進行形”でそれは実存”しちゃう”のだよ。
(言いっぱなしの話では無く、組織や社会という概念っつーより”外的に既存するインフラとしてのネットワークのいずれか”のような場でそれは”双方向性”を持ったまま実存するワケよ。←だからコメント欄を削除したブログには既にリテラシー性が無いとかのアレになんのさ。)
で、場所論的に「それは後期先進国の日常的インフラだ」というオチだわね。
(インターネット社会しかり、NPOやNGOだとかボランティア含む”非権威営利性ネットワーク”は後期先進国の十八番なんだから。)
↑
つまりメンタル問題的状況を継続するためには「なんらかの引きこもり状況」を作らないといけない。
強迫心理なりのレトリックの中で結果”自分から過去の世界”に引きこもった場合、或いは強迫心理的”設定”を強行に保守する場合。
(※「だーかーらー精○病○における閉鎖なんとかがナンセンスだと欧州辺りで結論鉄板化したワケよ、開放云々じゃないと意味が無いと。」)
或いは「孤立状態の自作自演的認知」とかね、
(※ここがいかにも強迫心理なのは「孤立」の概念が母集団をデフォルトとする『共同幻想』だけの話だから。)
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2013年04月22日
2013年04月19日
リアリティーだとかバーチャルリアリティーだとか
この辺の言葉の使い方がまた難しい、
難しいっていうか「こう使えば当たり」というものが”無い”。
実存的意味あいの”リアル”というのは(それこそ唯幻論的に)あり得ない状態で(哲学で言えばイデーだとか云々でしょう)、観測すべき対象だが自らそれで在ることができるのでこの場合実存とかって感じのくくりになるんだが、少なくとも人間は周囲における現実というものをリアルなまま認知することは不可能だし、リアルをそのまま観測する事も不可能だ。
(それは所詮脳内処理された限定的な光学情報に過ぎないとか性能的に何の指標をデフォルトとするのかなんて定義は自然界に無いのだから。)
これを人の脳は『イメージ化』のようなプロセスで認知していて(これは複製なワケだから)、映画やドラマがリアリズムを伴って認識される現象の説明と同義となっている。
巷ではオタク論的な時にやれ「二次元」だとか言うのだけれど、人の脳が現実なり事象をどう理解しているのかと考えた時、「絵画で遠近法がうまく表現できない人」っているワケでして(笑、言うならばその人は『2次元イメージで認識』しているのだから、2次元なんてものは何もオタクに限った話なんかでは無い。
ちょっと話は逸れるのだけれど、
(なかなか面白い情報が集まるので’俺は頻繁に「海外の反応系ブログ」をよく閲覧しているんだけれど、)
日本のほのぼの系日常アニメを見ると『鬱になる』という現象があるそうです(自分の現実とのギャップから)。
逆にカタルシス効果的に(ウロブッチャーものみたいな)主人公含めて全員があまりにも酷い的なバッドエンディングものを見ると「スッキリする」という事になるそうです。
(※事実欧米では3Dで一躍有名になった『映画アバター』を見て(現実との乖離に)鬱になるという現象も各地で語られているらしい。)
これはある意味創作物であるイメージがそのまま脳なり自我なりに影響を与える様を表していて、即ち「本物の現実」も似たようなというか「その程度の」というか、脳内では「どっちにしても」イメージ化された認知として成立している証明になる。
(現実と映画の違いは「終わりの有無」ぐらいのものか、)
■唯幻論のキモだけれど「どうでもよくない事などこの世に無い」の真意は(こいつはオーディオ評論の長岡氏の「いい加減にします」とほぼ同じような見方なんだが)、どうでもいい事だから適当にって事では無くって(長岡氏的には「その適当では無くてピッタリという意味の”適当”だろう」とかにもなるんだけどさ)、心理学的な意図は『こうに決まっている認知の否定』であり、強迫心理のバックグラウンドを説明するまで無く(こうに決まっている認知として現れる)、自我に認識されているその動的特性が「こうに決まっている時点でアウツじゃん」というところにある。
(遠い目で言えば「あんたはリアルを認知できる神なのか?」という趣旨、)
■更にここで言う『抗(あらがう)』という現象(元ネタは実存主義の”反抗”であり心理学的な『反抗期』の分析から)、
これは「幻想のアンチテーゼ」だから”動的リアル”ってば言いのかね、
(決っしてリアルを獲得する事は100%あり得ないが、幻想の中現実へ抗い続ける事が=「リアルへ」という自我の「自我そのものがリアリズムを体現するので実存だわな的な」有様(在様)ってことになる。)
ある意味それは「負けるとわかっている勝負への賭け」のような普遍的なナンセンスを織り込むのであり、そこんところが余計に『唯幻論』であるとかだね、一期一会であるとか諸行無常というか、そこに噛んでくるんだな。
平たく言えば、わかりやすいリアリティーに乏しいんだわ。
(結構アクセル踏んでリアリティーを頼りにするのでなく、リアルと化すって方向の話だから。)
『共同幻想』なるものを考えるのであれば、
迷える子羊シンドロームにならぬように、基本的なところ(特に社会性において)『デフォルトのリアリティーを定義しちゃう』仕様なんであって、
(※ドラマの配役や枷が予め決まっている。『共同幻想な人生』とは言い替えると学芸会の配役を決められたまんま「ひとまずそこから生きる」みたいな「生涯その1役一筋」のような人生である。)
営業トーク的に言えば「『共同幻想』すっごくわかりやすいリアリティーがあるので安心ですよね、でよね〜」みたいな感じになる。
(※ちなみに新興宗教とかもそのドグマを利用して似たような「そうに決まっているんです。ほらね、あなたもそう感じるでしょう」的に人の強迫心理を『リアリティー化』し強固に取り込む営業方針で運営されてます。)
一見『共同幻想』の見る現(うつつ)ってものは現実なのだと錯覚されたりするんだけれども、
それは幻想っていうか限りなく「夢物語」に近い脆く儚いもので「余命○年の幻想」のようなものだと言っていい。
保守的『共同幻想』適応人格における幸福論の典型事例に「笑顔の絶えない家庭」なんてーな代表事例がありますが、彼らが言わんとしているのは「喜怒哀楽のある世界(のなかでも笑いのがいいだろうという趣旨)」の事です。
勘のいい人はもうわかったと思いますが、
これって、、
面白い映画のシナリオそのものなんですよ。
(注:『共同幻想』が大変盛んだった時代では”お祭り”であるとか”お正月”であるとか酒池肉林のエンタメが地域文化に予め用意され、民衆はその「興奮のグルーブ感」みたいなものの中で「幻想のリアリティー」を感じ続ける枠組みのようなものがあった。)
起承転結じゃないけれど、一定以上の興奮の連続で息つく間も無く2時間終わったみたいなですね、
逆に言うと観衆を退屈させると映画の最中に素に戻るというか醒めちゃって面白く映画が観られませんよみたいな。仮に難解な映画でもエキセントリックな演出であるとかカメラアングルであるとかですね、いろいろ考えるわけです。それは「醒めちゃいけないから」。
『共同幻想』は現実というスクリーンに映した映画のようなものであり、極度に幻想性の強い代物です。だからこそ現代社会の『共同幻想』は確信犯的な伝統芸能のような体現無くして保守や維持は難しくなっており(これはこれで『単独者』選択同等の自己選択であり)、素の状態で『単独者』へテイクオフするモデルよか(確実にコレというのは無いが以前テキスト化した「トラウマ論を回避する育児」にヒントがあると思う)、難易度は上つーかめんどくさいルートになると思う。
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難しいっていうか「こう使えば当たり」というものが”無い”。
実存的意味あいの”リアル”というのは(それこそ唯幻論的に)あり得ない状態で(哲学で言えばイデーだとか云々でしょう)、観測すべき対象だが自らそれで在ることができるのでこの場合実存とかって感じのくくりになるんだが、少なくとも人間は周囲における現実というものをリアルなまま認知することは不可能だし、リアルをそのまま観測する事も不可能だ。
(それは所詮脳内処理された限定的な光学情報に過ぎないとか性能的に何の指標をデフォルトとするのかなんて定義は自然界に無いのだから。)
これを人の脳は『イメージ化』のようなプロセスで認知していて(これは複製なワケだから)、映画やドラマがリアリズムを伴って認識される現象の説明と同義となっている。
巷ではオタク論的な時にやれ「二次元」だとか言うのだけれど、人の脳が現実なり事象をどう理解しているのかと考えた時、「絵画で遠近法がうまく表現できない人」っているワケでして(笑、言うならばその人は『2次元イメージで認識』しているのだから、2次元なんてものは何もオタクに限った話なんかでは無い。
ちょっと話は逸れるのだけれど、
(なかなか面白い情報が集まるので’俺は頻繁に「海外の反応系ブログ」をよく閲覧しているんだけれど、)
日本のほのぼの系日常アニメを見ると『鬱になる』という現象があるそうです(自分の現実とのギャップから)。
逆にカタルシス効果的に(ウロブッチャーものみたいな)主人公含めて全員があまりにも酷い的なバッドエンディングものを見ると「スッキリする」という事になるそうです。
(※事実欧米では3Dで一躍有名になった『映画アバター』を見て(現実との乖離に)鬱になるという現象も各地で語られているらしい。)
これはある意味創作物であるイメージがそのまま脳なり自我なりに影響を与える様を表していて、即ち「本物の現実」も似たようなというか「その程度の」というか、脳内では「どっちにしても」イメージ化された認知として成立している証明になる。
(現実と映画の違いは「終わりの有無」ぐらいのものか、)
■唯幻論のキモだけれど「どうでもよくない事などこの世に無い」の真意は(こいつはオーディオ評論の長岡氏の「いい加減にします」とほぼ同じような見方なんだが)、どうでもいい事だから適当にって事では無くって(長岡氏的には「その適当では無くてピッタリという意味の”適当”だろう」とかにもなるんだけどさ)、心理学的な意図は『こうに決まっている認知の否定』であり、強迫心理のバックグラウンドを説明するまで無く(こうに決まっている認知として現れる)、自我に認識されているその動的特性が「こうに決まっている時点でアウツじゃん」というところにある。
(遠い目で言えば「あんたはリアルを認知できる神なのか?」という趣旨、)
■更にここで言う『抗(あらがう)』という現象(元ネタは実存主義の”反抗”であり心理学的な『反抗期』の分析から)、
これは「幻想のアンチテーゼ」だから”動的リアル”ってば言いのかね、
(決っしてリアルを獲得する事は100%あり得ないが、幻想の中現実へ抗い続ける事が=「リアルへ」という自我の「自我そのものがリアリズムを体現するので実存だわな的な」有様(在様)ってことになる。)
ある意味それは「負けるとわかっている勝負への賭け」のような普遍的なナンセンスを織り込むのであり、そこんところが余計に『唯幻論』であるとかだね、一期一会であるとか諸行無常というか、そこに噛んでくるんだな。
平たく言えば、わかりやすいリアリティーに乏しいんだわ。
(結構アクセル踏んでリアリティーを頼りにするのでなく、リアルと化すって方向の話だから。)
『共同幻想』なるものを考えるのであれば、
迷える子羊シンドロームにならぬように、基本的なところ(特に社会性において)『デフォルトのリアリティーを定義しちゃう』仕様なんであって、
(※ドラマの配役や枷が予め決まっている。『共同幻想な人生』とは言い替えると学芸会の配役を決められたまんま「ひとまずそこから生きる」みたいな「生涯その1役一筋」のような人生である。)
営業トーク的に言えば「『共同幻想』すっごくわかりやすいリアリティーがあるので安心ですよね、でよね〜」みたいな感じになる。
(※ちなみに新興宗教とかもそのドグマを利用して似たような「そうに決まっているんです。ほらね、あなたもそう感じるでしょう」的に人の強迫心理を『リアリティー化』し強固に取り込む営業方針で運営されてます。)
一見『共同幻想』の見る現(うつつ)ってものは現実なのだと錯覚されたりするんだけれども、
それは幻想っていうか限りなく「夢物語」に近い脆く儚いもので「余命○年の幻想」のようなものだと言っていい。
保守的『共同幻想』適応人格における幸福論の典型事例に「笑顔の絶えない家庭」なんてーな代表事例がありますが、彼らが言わんとしているのは「喜怒哀楽のある世界(のなかでも笑いのがいいだろうという趣旨)」の事です。
勘のいい人はもうわかったと思いますが、
これって、、
面白い映画のシナリオそのものなんですよ。
(注:『共同幻想』が大変盛んだった時代では”お祭り”であるとか”お正月”であるとか酒池肉林のエンタメが地域文化に予め用意され、民衆はその「興奮のグルーブ感」みたいなものの中で「幻想のリアリティー」を感じ続ける枠組みのようなものがあった。)
起承転結じゃないけれど、一定以上の興奮の連続で息つく間も無く2時間終わったみたいなですね、
逆に言うと観衆を退屈させると映画の最中に素に戻るというか醒めちゃって面白く映画が観られませんよみたいな。仮に難解な映画でもエキセントリックな演出であるとかカメラアングルであるとかですね、いろいろ考えるわけです。それは「醒めちゃいけないから」。
『共同幻想』は現実というスクリーンに映した映画のようなものであり、極度に幻想性の強い代物です。だからこそ現代社会の『共同幻想』は確信犯的な伝統芸能のような体現無くして保守や維持は難しくなっており(これはこれで『単独者』選択同等の自己選択であり)、素の状態で『単独者』へテイクオフするモデルよか(確実にコレというのは無いが以前テキスト化した「トラウマ論を回避する育児」にヒントがあると思う)、難易度は上つーかめんどくさいルートになると思う。
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2013年04月13日
『共同幻想』的に言えば『単独者社会』は個性化の時代という表現になる。
ややこやしい話なのだが、厳密に言えば『単独者』と「個性化」は意味が違う。
なんだけれども、『共同幻想認知の枠』で考えれば『単独者』は個性化なる表現に留まるので、巷間伝わるところの表現の「個性化の時代」が→事実上(本当のところは)『単独者社会』への変遷の事を指す。
唯幻論時代の岸田教授の云々などで『共同幻想』と個人の自我の関係性なんとかかんとかいう話があるんだけれども、時代の変遷で「男女雇用機会均等法施行」あたりを境に社会における『共同幻想』の支配率は過半数を割り込もうかという勢いにあって(現在のところ推定で約4割〜辺りで選挙をすればまだまだ過半数が取れるが投票総数では過半数いかないかもぐらいの水準だろう)、おかしな表現だけれども現代社会の『共同幻想』オルタナティブが『単独者』のような関係性にある。
↑
これも話をわかりやすくしただけで厳密に言うと違うんだけれど(『共同幻想』時代にも共存する形で『単独者』はいたのだから)、ザックリ心理学の見方をまとめちゃうと前段イメージのがわかりやすい。
この辺はだね、政治的に言うところの「後期先進国社会と高福祉水準社会」の関係と同じようなもんと言えば同じようなもんですわ。
通常高度に発達した先進国は=高福祉水準社会になるんだけれども(てか暮らしの水準が高度にならないのであれば先進国では無い事になるから)、保守派曰く「市場経済」なる論法で「後期先進国は高福祉社会とは限らない」みたいなトンチンカンな話も出てくるんだが(それはグローバリズムの話→先進国がグローバリズムの中で第三世界と状況を共有しているだけなんだが)、
単純な話「高度じゃなきゃ先進じゃなかろうよ(笑」というようにだね、その時の政治判断はともかく言語の意味レベルでその方向・そっちへ変遷って図式は変わらない。
(低福祉でも先進って概念が成立するならば、所得倍増論的な底上げ的概念を並立しないとどこのどの数字が高度になるのかわからないんだが、民主主義社会においてそれが多数を形成可能になる事はあり得ない。仮に所得格差を拡大することで高所得の機会重視目的で社会福祉を切ったとしても、その中で高所得を獲得可能なのは数学的に一部階層となるから「そんな荒唐無稽な民主主義の数学的確率」はあり得ないからだ。)
時々政治経済の分析で「赤字財政」なり予算のバランスシート論的に「高福祉社会の継続があり得ない」みたいな論法もあるんだけど、これは根本的な間違いで「投資(=借入)」をベースにする経済学は生産性によりその借入を返済してもまだそれ以上にGNPが拡大云々の裏付けが無ければ「100%借金が増える仕組み」であって(これ小学生でもわかる話)、設備投資の拡大が可能な背景事情には「需要」ってものが必要なのであり人口増が見込めない先進国が借金体質になるのは、少子化や高寿命化などを背景にする社会構造が原因で、高福祉政策が固有に問題なのでは無い。
(保守的解決策は「少子化対策」だろうし、医療的解決策は「高寿命実現した医療界は70代の人間が能力外見ともに50代と同じにしなさい」ってことだろうし、根本的には「経済の需要がサービス産業シフト」するのだから「労働人口のロボット化公共投資と労働のフリー化」が究極の解決策になる。)
話は戻って、
そんなワケで「反動的現象」は発生する事あっても、大きな方向性には違いが無い。
個性化=違い=同質社会帰属性アイデンティファイ(共同幻想)と矛盾してしまう=個対個ベースがネットワーク化する形の自意識確立型のアイデンティファイ(アクテイブ型と言えばいいか)への切り替え無しに成立しない(ここ「自己顕示型」とは意味違うので間違えないように)。
(えーとたとえば「自分が建築好きでネットなり自由時間なりに建築関係の興味へ行動することで、自ら自分が建築マニアであることを知ってしまうというか、行動とアイデンティティーが同義になるような関係性」)
ザックリ言えば上記の流れなワケで、
自我の確認ちゅうか実存なるものはその主体性や自由により構造的に”成立しちゃう”というような形を指す。(なものだから先進国特有の話になる←高校授業料の無償化=全員高卒の保証←勿論拒否権付き)
反対に政治経済に話を戻すと、
反動保守(保守反動)が信奉した「市場経済主義的規制緩和」とやらも一部被っているんだよね。←なものだから一見市場経済主義が前衛にも見えたのかなと、
市場経済主義的な規制緩和は勿論『慣習法的共同幻想手続きの解除』を求めているのであって(なんつーか米国におけるリバータリアンのように)、根っこにあるのは国家主義的な概念(共同幻想)の否定なんだわね。これを保守顔した人が言うから話がややこやしくなるんですわ。
米国の場合も「リバータリアンがティーパーティーとなんとかでミリシアもついてきたよ」みたいなカオス状態なもんだから、何を言いたい人達なのかわかり難いってとこもあんだろうが、そこは『共同幻想崩壊過程の混沌』だから仕方がない。
(ここ本筋は「高福祉社会水準のセイフティーネットがあるので事業者規制的な規制は必要ない」というものでなくては実現性が無いのですよ。米国の古くから存在するリバータリアンは勿論ネイティブアメリカンであるインディアンから不当に莫大な土地を収奪した事により”仮想上”米国民には普遍的に分配される”機会”のようなものが米国市民普遍の既得権のような背景があったため。=フロンティア主義とでも言えばいいか、)
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なんだけれども、『共同幻想認知の枠』で考えれば『単独者』は個性化なる表現に留まるので、巷間伝わるところの表現の「個性化の時代」が→事実上(本当のところは)『単独者社会』への変遷の事を指す。
唯幻論時代の岸田教授の云々などで『共同幻想』と個人の自我の関係性なんとかかんとかいう話があるんだけれども、時代の変遷で「男女雇用機会均等法施行」あたりを境に社会における『共同幻想』の支配率は過半数を割り込もうかという勢いにあって(現在のところ推定で約4割〜辺りで選挙をすればまだまだ過半数が取れるが投票総数では過半数いかないかもぐらいの水準だろう)、おかしな表現だけれども現代社会の『共同幻想』オルタナティブが『単独者』のような関係性にある。
↑
これも話をわかりやすくしただけで厳密に言うと違うんだけれど(『共同幻想』時代にも共存する形で『単独者』はいたのだから)、ザックリ心理学の見方をまとめちゃうと前段イメージのがわかりやすい。
この辺はだね、政治的に言うところの「後期先進国社会と高福祉水準社会」の関係と同じようなもんと言えば同じようなもんですわ。
通常高度に発達した先進国は=高福祉水準社会になるんだけれども(てか暮らしの水準が高度にならないのであれば先進国では無い事になるから)、保守派曰く「市場経済」なる論法で「後期先進国は高福祉社会とは限らない」みたいなトンチンカンな話も出てくるんだが(それはグローバリズムの話→先進国がグローバリズムの中で第三世界と状況を共有しているだけなんだが)、
単純な話「高度じゃなきゃ先進じゃなかろうよ(笑」というようにだね、その時の政治判断はともかく言語の意味レベルでその方向・そっちへ変遷って図式は変わらない。
(低福祉でも先進って概念が成立するならば、所得倍増論的な底上げ的概念を並立しないとどこのどの数字が高度になるのかわからないんだが、民主主義社会においてそれが多数を形成可能になる事はあり得ない。仮に所得格差を拡大することで高所得の機会重視目的で社会福祉を切ったとしても、その中で高所得を獲得可能なのは数学的に一部階層となるから「そんな荒唐無稽な民主主義の数学的確率」はあり得ないからだ。)
時々政治経済の分析で「赤字財政」なり予算のバランスシート論的に「高福祉社会の継続があり得ない」みたいな論法もあるんだけど、これは根本的な間違いで「投資(=借入)」をベースにする経済学は生産性によりその借入を返済してもまだそれ以上にGNPが拡大云々の裏付けが無ければ「100%借金が増える仕組み」であって(これ小学生でもわかる話)、設備投資の拡大が可能な背景事情には「需要」ってものが必要なのであり人口増が見込めない先進国が借金体質になるのは、少子化や高寿命化などを背景にする社会構造が原因で、高福祉政策が固有に問題なのでは無い。
(保守的解決策は「少子化対策」だろうし、医療的解決策は「高寿命実現した医療界は70代の人間が能力外見ともに50代と同じにしなさい」ってことだろうし、根本的には「経済の需要がサービス産業シフト」するのだから「労働人口のロボット化公共投資と労働のフリー化」が究極の解決策になる。)
話は戻って、
そんなワケで「反動的現象」は発生する事あっても、大きな方向性には違いが無い。
個性化=違い=同質社会帰属性アイデンティファイ(共同幻想)と矛盾してしまう=個対個ベースがネットワーク化する形の自意識確立型のアイデンティファイ(アクテイブ型と言えばいいか)への切り替え無しに成立しない(ここ「自己顕示型」とは意味違うので間違えないように)。
(えーとたとえば「自分が建築好きでネットなり自由時間なりに建築関係の興味へ行動することで、自ら自分が建築マニアであることを知ってしまうというか、行動とアイデンティティーが同義になるような関係性」)
ザックリ言えば上記の流れなワケで、
自我の確認ちゅうか実存なるものはその主体性や自由により構造的に”成立しちゃう”というような形を指す。(なものだから先進国特有の話になる←高校授業料の無償化=全員高卒の保証←勿論拒否権付き)
反対に政治経済に話を戻すと、
反動保守(保守反動)が信奉した「市場経済主義的規制緩和」とやらも一部被っているんだよね。←なものだから一見市場経済主義が前衛にも見えたのかなと、
市場経済主義的な規制緩和は勿論『慣習法的共同幻想手続きの解除』を求めているのであって(なんつーか米国におけるリバータリアンのように)、根っこにあるのは国家主義的な概念(共同幻想)の否定なんだわね。これを保守顔した人が言うから話がややこやしくなるんですわ。
米国の場合も「リバータリアンがティーパーティーとなんとかでミリシアもついてきたよ」みたいなカオス状態なもんだから、何を言いたい人達なのかわかり難いってとこもあんだろうが、そこは『共同幻想崩壊過程の混沌』だから仕方がない。
(ここ本筋は「高福祉社会水準のセイフティーネットがあるので事業者規制的な規制は必要ない」というものでなくては実現性が無いのですよ。米国の古くから存在するリバータリアンは勿論ネイティブアメリカンであるインディアンから不当に莫大な土地を収奪した事により”仮想上”米国民には普遍的に分配される”機会”のようなものが米国市民普遍の既得権のような背景があったため。=フロンティア主義とでも言えばいいか、)
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2013年04月04日
『縁と韻』
こういう言葉だとか(ここもだが)言い回しなり表現少なく無い。
大元は”熟語”なんかと思うが、
「縄と鞭(オイオイ)」「白と黒(赤と黒だろう)」勿論「陰と陽」だとか「善と悪」などなどいろいろあんでしょう、
「『縁と韻』ではなく『縁と運』じゃねーか?」なご意見もあると思いますが、
勝手に改定します。
『縁と韻』の方が状況にあってるような気がするんですよ、
えー意味がよくわからん方は『韻』となると思いますが、
(俺のなんとなくなのでちゃんとわかっているワケじゃありませんで、)
韻:辞書的には、詩歌で、同一または類似の音を、一定の位置に繰り返し用いること。
最近のラッパーのみなさんは「韻を踏む」よく使うみたいですが、
JAZZだけでなく音楽的なひとつの進行なりの形のように理解してもいいかもです。
符号というか、調子というか。
これに対して『縁』は偶然性の高い方向のナントカとなる。
世の中『縁と運』で回っているのが幸福なことなんですが、
いかんせんなかなかそういう幸せな状態ばかりではないのが世知が無い世の中でそう理想的な環境も難しいものでしょう、結論『縁と韻』みたいになってんのが実情じゃないかと。
(個人心理学的な自我内部にもそういった論理性が成り立っているのではないかという推定です、)
悪循環だと「新規と地雷」みたいな事かな、
自然循環だと「未来と調子」なのかな、
韻を踏む、調子に乗る、
感じがよけりゃいいが、悪循環で感じ悪いと最悪ですわね。
「フラグとなって」だとか「それがトリガーとなり」だとかの現象は多分にこの『韻的世界』が関わっていて(同じ韻でも因果の因でもいいのかな)、
本来は「運」であるべき事象をそのまま「運」で認知することはそうそう多く無く、解釈論の中で「踏める韻をみつける」ような恰好でそれは認識されとんじゃないかという話です。
(書いていてもよくわかってないので、これ読んでわかる人がいるのか疑問だか、このブログにおけるテキストはかなり実験的な内容なっているので悪しからず。)
所謂陰陽師的な「呪(しゅ)」だとかの発動要因はもっぱら言葉の主たる意味の方では無く、韻の調子ってのかな、そっちじゃネーかと。
「言葉の韻を踏んでっちゃう」のだから。
言語構造における流れというか調子における無意識側の干渉というのが『韻』として現れてるのじゃないかと考えてみる。
(5・7・5・7・7でも説明できんのかもしんないけど言語論までやるつもりないので、省略。)
事実人は言葉使いが固定的な場合(典型例は地方の方言:これに自我拘束的意味合いんのは論議の必要が無い)、自我はなんとなく特定の性格(これキャラクターって意味ね)を帯びる。
そっから考えるとすると、
普段の言葉使いの傾向には、それなりに「結論を導く方便」がすでに織り込まれており、
なんてーか『縁起の縁とは縁遠い』世界になるワケです。
それこそ『縁と運』じゃーありませんが、あたかも運気なるものがあたかも抵抗できない世界的に本当にあるかのような錯覚(幻想)←本来「運まかせ」のように『運(はこびだとか進行ですか)』って言葉は固定的では無いって意味の筈が内的にそうなっていない場合がある。つまり同じ運でも運命の運でそれが踏まれている。
(この運命にしたって本質的語彙は:さだめと読めば仮想的上部構造の意思による予め決まった運(はこび)?みたいなことになるのだが、そら運だからさ段取りっちゅうか、めぐり合わせ的な機会だとか”場面”であり、その場面への対処や判断がどうなるだとかその場で考える話なんで先に結論のある話では無い。)
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大元は”熟語”なんかと思うが、
「縄と鞭(オイオイ)」「白と黒(赤と黒だろう)」勿論「陰と陽」だとか「善と悪」などなどいろいろあんでしょう、
「『縁と韻』ではなく『縁と運』じゃねーか?」なご意見もあると思いますが、
勝手に改定します。
『縁と韻』の方が状況にあってるような気がするんですよ、
えー意味がよくわからん方は『韻』となると思いますが、
(俺のなんとなくなのでちゃんとわかっているワケじゃありませんで、)
韻:辞書的には、詩歌で、同一または類似の音を、一定の位置に繰り返し用いること。
最近のラッパーのみなさんは「韻を踏む」よく使うみたいですが、
JAZZだけでなく音楽的なひとつの進行なりの形のように理解してもいいかもです。
符号というか、調子というか。
これに対して『縁』は偶然性の高い方向のナントカとなる。
世の中『縁と運』で回っているのが幸福なことなんですが、
いかんせんなかなかそういう幸せな状態ばかりではないのが世知が無い世の中でそう理想的な環境も難しいものでしょう、結論『縁と韻』みたいになってんのが実情じゃないかと。
(個人心理学的な自我内部にもそういった論理性が成り立っているのではないかという推定です、)
悪循環だと「新規と地雷」みたいな事かな、
自然循環だと「未来と調子」なのかな、
韻を踏む、調子に乗る、
感じがよけりゃいいが、悪循環で感じ悪いと最悪ですわね。
「フラグとなって」だとか「それがトリガーとなり」だとかの現象は多分にこの『韻的世界』が関わっていて(同じ韻でも因果の因でもいいのかな)、
本来は「運」であるべき事象をそのまま「運」で認知することはそうそう多く無く、解釈論の中で「踏める韻をみつける」ような恰好でそれは認識されとんじゃないかという話です。
(書いていてもよくわかってないので、これ読んでわかる人がいるのか疑問だか、このブログにおけるテキストはかなり実験的な内容なっているので悪しからず。)
所謂陰陽師的な「呪(しゅ)」だとかの発動要因はもっぱら言葉の主たる意味の方では無く、韻の調子ってのかな、そっちじゃネーかと。
「言葉の韻を踏んでっちゃう」のだから。
言語構造における流れというか調子における無意識側の干渉というのが『韻』として現れてるのじゃないかと考えてみる。
(5・7・5・7・7でも説明できんのかもしんないけど言語論までやるつもりないので、省略。)
事実人は言葉使いが固定的な場合(典型例は地方の方言:これに自我拘束的意味合いんのは論議の必要が無い)、自我はなんとなく特定の性格(これキャラクターって意味ね)を帯びる。
そっから考えるとすると、
普段の言葉使いの傾向には、それなりに「結論を導く方便」がすでに織り込まれており、
なんてーか『縁起の縁とは縁遠い』世界になるワケです。
それこそ『縁と運』じゃーありませんが、あたかも運気なるものがあたかも抵抗できない世界的に本当にあるかのような錯覚(幻想)←本来「運まかせ」のように『運(はこびだとか進行ですか)』って言葉は固定的では無いって意味の筈が内的にそうなっていない場合がある。つまり同じ運でも運命の運でそれが踏まれている。
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