そもそもレトリックとは何ぞやから入ってしまうと修辞学がなんたらとかめんどっちい話になるので、まーここでは平たく言うところの「美辞麗句的なインチキ(実は中身が無い)」の方の意味です(ソフィストの意味合いであるとかポピュリズムの意味合いなんかと似て厳密にやっちゃうと意味が違ってきちゃう)。
この技法の典型はプロフェッショナルな店頭販売営業トークなんかに見られます。
現代で言えば「ジャパネットたかた」
(えーとたかたを批判しているワケでは無いので誤解の無いように。むしろ称賛されるべきエンタメ性があるから事例としてわかりやすいってだけです。)
「さー皆さんどうですか、なんと○○しながら○○できると言う?、この○○。どうですか見てくださ?い、○○機能もこんな^に簡単なんですよ。今私がお見せしますけど、ほら○○を○○するだけでこーんな簡単に○○できると言う?○○なんです。この○○今回ジャパネット頑張りました、なんと○○できると言う?○○が、特別価格で○○↑○^○円^↑、これに今なら皆さんお持ちのどーんな○○でも下取りします。いいですか?どーんな機種でも構いません。みなさんご自宅に○○だとかありませんか?下取り価格が1万円↑引きで、どうなりますかみなさん。○^○^↑○○円(♪ジャ^ン♪)↑↑で○○が手に入るんですよ^お安いですよね?、去年なら○○円でも大好評だった○○、新機種の○○モデルが今なら下取り価格で○○○○円。是非検討ください。↓」
凄くいいものに思えます。
又、それこそ『レトリック(演技的演説話法でもある)』
単純にロジカルな認知では無くって、わかりやすく言えばエモーショナルなですね、それでいてなんだかとっても根拠ありげな事例の展開による意味付け(フラグですね)。
こういう条件さえあれば、人はまったくそれまでそんな事を思ってもいなかった事まで「凄く○○で無ければならないのかも」みたいに感情的固着を派生させます。
注)それが感情的固着か否かってのは、それを断念せざるを得ない時に強く感情的に乱れるか否かってところですわね。
注2)人はそれが心底本当に欲しい何かでも、仮に当面それを断念せざるを得ない場合←その断念のプロセスに諦めるに至る根拠がプルーフされているのですから→残念だ、あるいは今度こそとかのフェーズはあるにしろ、実は殊更感情的に乱れるみたいなことにはなりません。なんていいますか「あーあーあーあーあー?えー?、、」の間に残念処理も終わります。
この感情的固着、実は根拠がいい加減なものだから(本当は必要無かったり)、断念する場合の説得的な根拠も提示できないという論理矛盾を抱えます。
「と に か く 欲しい」みたいな。(理由は「とにかく」)
こういう概念の方が心理的には処置に困る事になります。
(残念処理ができない→それだけでなく興奮そのものが残念処理みたいなプロセスの天敵ですし)
■うんで、強迫心理的思考というようなものは「全部レトリック的なもの」でありまして、
事の始まりは「子供トーク」です。
『親子関係社会を前提とする共同幻想文明社会下』における子供の自我は概ねi依存性の快感固着状況が頻繁で(ぐずりや癇癪)子供の自我がロジカルにテイクオフするのは『第一次反抗期(幼年)・第二次反抗期(小学校中年次)』を経てからで、これは好き勝手に自立的な活動可能性に応じて拡大するワケですが(実態は自らの依存性に反抗しているようなもの)、ここに『わかり難い関係』や『権威性が強すぎて反抗が難しい環境』などがあると、このテイクオフは阻害されます。
で、上記あるとおり阻害要因は「難解」だとか「無理筋」とかなので、有無を言わさずというか「具体的根拠を自分に説明できないワケです(その状況を自己紹介することも不可)」、てかこれが説明できれば反抗期が阻害される事ありません(立ち上がった自身の自我のロジカルでなんらかの形で反抗可能ですから)。説明できないがなんか「と に か く ダメ」みたいな根拠と同時に強い感情的固着(反発)を伴うものになります(対象への快感依存が解消していないから)。
なんていいますか、強迫心理下における心理というようなものは、ジャパネットを見て「スゲー欲しい」状態で盛り上がっている人に、「そんなんはかくかくしかじかの理由でいらいないでしょ」な説明しても、まったく聞く耳持たず状態が派生している様、のようなものです。
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