ナンチャラ療法だとかロールプレイングだとか彼らサイドの話を時折耳にしますが、前々から思っていたことなんだが欧州や米国ってところには日本的な『世間様型共同幻想』がありません。彼らのところの『共同幻想』は『一神教系共同幻想』であり時に個人主義と誤解されてますが、この両者は随分と違ってます。
(※欧米だと日本のように突出した個性は叩かれないとかそれも違うでしょう、)
言えば日本は「八百万マルチ教」なので『共同幻想』のコアとなる権威象徴は曖昧なままであり、目先権威が全て中間管理職っぽい形態になるため最上位でも現世では中間管理職止まりな風情がありそのイメージがリアリティーを形成するため(世間様)、権威はひとつの概念(や想念のようなもの)であってこれという主体がありません。
結果この権威への適応は「雰囲気に合わせる」「空気を読む」といった日本特有の『共同幻想』の構造を示す事になる。
(といっても『共同幻想の掟』なる拘束性が弱いワケでは無い←任意性が高く欧米系の戒律型の周囲に対する強制力が劣るだけ。)
欧米の場合には権威主体がキリスト教として明快であるため(或いはその反動の共産主義や兄弟関係であるイスラム教や元祖のユダヤ教も同系統で)、権威主体も神とするかイエスとするかなど細かいとこはともかく明快で(共産主義なら労働者であるとか同志の概念)、事実上『教会主義共同幻想』への闘争だったフランス革命の中心であるフランス(世俗主義)以外は多かれ少なかれその影響下にありつつ、フロイド心理学を歩留り理解の心理学(信仰や教会権威に及ばないように)にもっていくように微妙に中途半端な偽装性のある文明化の延長にあります。
この点日本の明治維新におけるデッチ上げ性とも似ていると言えば似ているかも。
(ちなみに共産主義はフランス革命における世俗主義への迂回型反動みたいなものでしょう。→キリスト教には戻らずそのドグマを学問的に解釈して隣人愛が転じて労働者革命になったみたいな、)
結果なんだかんだと(事実上フランス革命は完全勝利したというより大幅に勝利したが最後は和平交渉にて停戦で終わったというか)一神教的なドグマは権威性概念として残留していて「突出した個人主義」にも見える彼らの自我の特徴は、対象となる権威も単一の主体であるからって部分に応じたもので『エディプス二重構造』みたいな形にならざるを得ない。
(血縁エディプス+信仰権威”主は”)
勿論欧米でもよっぽど前衛的な家庭はあるので、各個人がどうこうって話をしているのではなくて、彼らの『共同幻想』の特徴って話だから。
そんなこんなで、想定として欧米における『共同幻想』と自我との間におけるメンタル問題の発生は強い孤立感を伴うもので(厳密に言えば母数となる集団の定義が無い『単独者』には孤立も孤独も無い)、その原因は”デッチ上げ的個人主義”の特性だと言っていいでしょ。
欧米なんかでよくあるアルコール中毒患者のなんとやらに見られるように、仮想社会性みたいなルートを使って何かしようとしたがります。
又、彼らはツイッターやらフェースブックから次々とSNSも立ち上げますが、
なんですがーそれって日本では昔っからある『世間様型共同幻想モデル』そのまんまでありまして(笑
(日本社会には昔っからある”緩い代わりに集合性の高い社会”)
この辺を理解する上でなかなか参考になる記事があります。
↓
海外のゲームファン「俺達は何で『ペルソナ4』が好きなんだろう?」海外の反応
http://asnyaro.blog129.fc2.com/blog-entry-712.html
掲示板の中で象徴的に引用されている一文が以下
>ゲームをプレイするたびに自分自身の事を考えるようになって、幸せを感じたのは初めての事だった。
これってモロ『日本型共同幻想』の中普段日本人が体感してる帰属性アイデェンティファイであり(依存性になれば”認められる妄想”)、しかしこれって日本社会においては「場合によっては大変なストレス」だったりするんだが(嫌々参加する部活の感覚)、強い孤立感を感じる西欧型自我にとっては体験した事の無い幸福と体感されているのではなかろうかと感じるワケです。
ゲームで体感されるのは「ひょっとすると依存性の快感」で、彼らはそこにナルチスズム的な『一時避難場所感』を感じているのかもしれません。
(※ちなみに俺はペルソナとかやった事無いのでスンマセンけど、内容に関しては軽く動画やらwikiやらでチェックした程度であります。)
この現象には正反対のケースもあるかもで、
→続きを読む
2013年01月31日
2013年01月23日
『幼児期の第一次反抗期』の認識とかの話(3)
印象ですが、おおよそ誰もがガキは嫌いでしょう。
(インナーサークル的団体行動中に電車でキーッとなる奴→インナーサークルにおける問題行動は果ては中高生から暴走族から官僚組織まで連なっていると言えば連なってますが←これ必ずしも『共同幻想』だからではない。むしろ『共同幻想』はその常識論でこういう行動戒めてますから)
↑
案外この出だしが今回の話の鍵になっているのかもしんない、
てか個人的には子供全般が苦手でありまして(そりゃ大人同士のような会話が素で出来る相手であれば年齢などどうでもいいことだけれども)、所謂街で見かけるインナーサークル団体行動中のガキには閉口する。
前述のように『共同幻想』固有の問題では無くって、内向性依存の関係で自己愛発現トリガーがインナーサークル行動中だったりするケースが集団心理として起こるため。←これが起動するためには(集団心理=集団ってぐらいだから個々人の自意識は抑圧傾向→無意識的自己愛傾向(集団心理ハイ)となり、この自己愛状態に依存性フラグがあれば「自意識起動して自力で戻ってくるのが難しくなる」わけで、この状況で=妄想状態(精神耗弱でもいいけど)を意味するので=「現実を喪失するほど乖離が激しくなっている」ことになる。
(※酔っ払いの団体様の奇行も同様の現象←帰宅でひとりになると案外大人しくなる)
昔の人は躾がなってないなんてザックリとアバウトに切り捨てましたが(前述のとおり上記興奮は『共同幻想』マナー違反な上実に恰好の悪い恥ずかしい状態であるため)、昭和の時代にそんな事が言えたのは『共同幻想』の「正しさらしさ演出」がまだまだ有効であったためです。
(実際のところは躾も何も”明治維新〜戦後日本”の『共同幻想』は歴史や伝統とかいう演出上の『枷』(正当制リアリティー)の構造的設定がおおよそ褒められた内容では無かったので(ほとんどデッチあげ)平成にかけて余裕で瓦解するワケですが、)
↑
正しさらしさ(権威性認知)の有効性は勿論限りなく「頭ごなしの恫喝の効果性」なのであり、叱る側も叱られる側の双方があたかも信心深く神を恐れているかのごとき心理状態なので、余裕で暴力も振るいますが双方には信心的にそこに合理性の共有もあるって事です。
つまり社会的にそういうファンダメンタルだから効果的できたことであって当時の人は立派だったとかそういう事じゃありません。
■ついこないだまでは現代社会の「キーっとなるガキ」や「モンスターペアレンツ」(世代的には流行語にもなった「アダルトチルドレン」が親世代に移行)、この辺の話は『共同幻想』崩壊過程のグズグズ状態だけで見られてもきたし、社会的にもそれ系の論評多かったと思います。
なので保守派はどこの世界でも「昔の『共同幻想』を取り戻せ」とばかり復古調右翼的政治思想を叫んだりですね、これまたトンチンカンな方向いきますが(さしずめ反動保守・保守反動)、その気持ちはよくわかります。←彼らの政治思想的に見れば状況判断として普通の理解でしょう。
→続きを読む
(インナーサークル的団体行動中に電車でキーッとなる奴→インナーサークルにおける問題行動は果ては中高生から暴走族から官僚組織まで連なっていると言えば連なってますが←これ必ずしも『共同幻想』だからではない。むしろ『共同幻想』はその常識論でこういう行動戒めてますから)
↑
案外この出だしが今回の話の鍵になっているのかもしんない、
てか個人的には子供全般が苦手でありまして(そりゃ大人同士のような会話が素で出来る相手であれば年齢などどうでもいいことだけれども)、所謂街で見かけるインナーサークル団体行動中のガキには閉口する。
前述のように『共同幻想』固有の問題では無くって、内向性依存の関係で自己愛発現トリガーがインナーサークル行動中だったりするケースが集団心理として起こるため。←これが起動するためには(集団心理=集団ってぐらいだから個々人の自意識は抑圧傾向→無意識的自己愛傾向(集団心理ハイ)となり、この自己愛状態に依存性フラグがあれば「自意識起動して自力で戻ってくるのが難しくなる」わけで、この状況で=妄想状態(精神耗弱でもいいけど)を意味するので=「現実を喪失するほど乖離が激しくなっている」ことになる。
(※酔っ払いの団体様の奇行も同様の現象←帰宅でひとりになると案外大人しくなる)
昔の人は躾がなってないなんてザックリとアバウトに切り捨てましたが(前述のとおり上記興奮は『共同幻想』マナー違反な上実に恰好の悪い恥ずかしい状態であるため)、昭和の時代にそんな事が言えたのは『共同幻想』の「正しさらしさ演出」がまだまだ有効であったためです。
(実際のところは躾も何も”明治維新〜戦後日本”の『共同幻想』は歴史や伝統とかいう演出上の『枷』(正当制リアリティー)の構造的設定がおおよそ褒められた内容では無かったので(ほとんどデッチあげ)平成にかけて余裕で瓦解するワケですが、)
↑
正しさらしさ(権威性認知)の有効性は勿論限りなく「頭ごなしの恫喝の効果性」なのであり、叱る側も叱られる側の双方があたかも信心深く神を恐れているかのごとき心理状態なので、余裕で暴力も振るいますが双方には信心的にそこに合理性の共有もあるって事です。
つまり社会的にそういうファンダメンタルだから効果的できたことであって当時の人は立派だったとかそういう事じゃありません。
■ついこないだまでは現代社会の「キーっとなるガキ」や「モンスターペアレンツ」(世代的には流行語にもなった「アダルトチルドレン」が親世代に移行)、この辺の話は『共同幻想』崩壊過程のグズグズ状態だけで見られてもきたし、社会的にもそれ系の論評多かったと思います。
なので保守派はどこの世界でも「昔の『共同幻想』を取り戻せ」とばかり復古調右翼的政治思想を叫んだりですね、これまたトンチンカンな方向いきますが(さしずめ反動保守・保守反動)、その気持ちはよくわかります。←彼らの政治思想的に見れば状況判断として普通の理解でしょう。
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2013年01月16日
『幼児期の第一次反抗期』の認識とかの話(2)
(最初に言っときますが今回はかなり紆余曲折して話繋がってるので、)
■時々フロイドが失敗しかけた話に登場する→「力動論をやるなら経済学でやればよかったのに説」だけれど意図しているのは『均衡論』だろうって話なんだが、
(量的計測を重視しちゃうと違うと思うワケさ)
『不安→不安定→穴埋めだとか反動』
この構造はロジックで言えば「○○だ大変なことになった」=その瞬間から→「そうかこれは○○だから○○へ」を求めるような構造的均衡論で、
つまり「何かが現実から乖離することで不安定化する現実認知はこれまたそれと釣り合うような形で現実から乖離するぐらいのナントやらを希求する現象」の仕組みは特別何がどうという意味では無くって、不安定な建造物を見れば誰でも突っかい棒ぐらい必要だと感じるような(ツッコミどころ的認知)、或いは遠近法に歪みのある抽象絵画を見た時の不快感(=瞬間補正を求める希求が派生する)、セーターの表裏を間違っている人を見た時の「あちゃ〜」な感覚、交通事故において全てそうだとは言わないが「アクセルとブレーキを踏み間違える”何かの因果”」のような”対の”だとか”空白を補完するような”現象というか”初期的認知”する概念が、この構造の仕組みなんだと思う。
(※フロイドは『死の衝動』とかのところでこの辺やろうと思っていたのかもしんない)
パッと見「強迫的認知に似ている」と思われるかもなんだが、
そのとおり。そのつもりで書いてます、
自意識の意図が初動にあっての話では無く初期認知現象の方。
たとえば恐怖におののき正視できずに手で目を隠す反射だとか(これ映画じゃ無くて現実だと自殺行為だから「一拍置いた後」通常であれば「見ようとする」)、
■これは必ずしも対称性っぽい概念である必要は無く、「不安が均衡により安定さえすればよい」(不安による空白部分を埋める補完的認知でも同じ)どちらか言えば経済学に近い現象の話。→つまり『均衡論』。
本来価格は結果論である事そのものに経済学的なプルーフ(証明)の置き所があるのに関わらず「”その値段のモノ”が生前から実存すると思ってしまえばそれは一種の強迫心理となる(陰陽師的な呪(シュ)つーか幻想論が成立しているって事だわな)」。
なので前段の『均衡論的初期認知』は事実上「強迫的思考や認知」と同じ。
(不安や不安定状態に迫られて→付け焼刃でもなんでも瞬間対処しようと対称的或いは補完的な認知が自動的に起動する構造がありますよって事だから。構造は「強迫的思考や認知」とそのまま同じ。)
注)ちなみに経済学における価格均衡論と文化的名品の評価は意図が違うから←こっちは希少性に関わる価値論の原則とかの話。
■うっかり均衡論的概念が仇となって→ガチで実存している事象を見落としがちなのも事実。
(これがさっきの「その値段の品物が本当にあると思ってしまう」認知だわね←前記注釈にある希少性や名品価値認知現象が例えば「閉鎖的家庭社会内」で起きるとエディプスコンプレックス化しやすいってのもわかる話で。→「環境だけが理由の希少性フラグの誤謬」)
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■時々フロイドが失敗しかけた話に登場する→「力動論をやるなら経済学でやればよかったのに説」だけれど意図しているのは『均衡論』だろうって話なんだが、
(量的計測を重視しちゃうと違うと思うワケさ)
『不安→不安定→穴埋めだとか反動』
この構造はロジックで言えば「○○だ大変なことになった」=その瞬間から→「そうかこれは○○だから○○へ」を求めるような構造的均衡論で、
つまり「何かが現実から乖離することで不安定化する現実認知はこれまたそれと釣り合うような形で現実から乖離するぐらいのナントやらを希求する現象」の仕組みは特別何がどうという意味では無くって、不安定な建造物を見れば誰でも突っかい棒ぐらい必要だと感じるような(ツッコミどころ的認知)、或いは遠近法に歪みのある抽象絵画を見た時の不快感(=瞬間補正を求める希求が派生する)、セーターの表裏を間違っている人を見た時の「あちゃ〜」な感覚、交通事故において全てそうだとは言わないが「アクセルとブレーキを踏み間違える”何かの因果”」のような”対の”だとか”空白を補完するような”現象というか”初期的認知”する概念が、この構造の仕組みなんだと思う。
(※フロイドは『死の衝動』とかのところでこの辺やろうと思っていたのかもしんない)
パッと見「強迫的認知に似ている」と思われるかもなんだが、
そのとおり。そのつもりで書いてます、
自意識の意図が初動にあっての話では無く初期認知現象の方。
たとえば恐怖におののき正視できずに手で目を隠す反射だとか(これ映画じゃ無くて現実だと自殺行為だから「一拍置いた後」通常であれば「見ようとする」)、
■これは必ずしも対称性っぽい概念である必要は無く、「不安が均衡により安定さえすればよい」(不安による空白部分を埋める補完的認知でも同じ)どちらか言えば経済学に近い現象の話。→つまり『均衡論』。
本来価格は結果論である事そのものに経済学的なプルーフ(証明)の置き所があるのに関わらず「”その値段のモノ”が生前から実存すると思ってしまえばそれは一種の強迫心理となる(陰陽師的な呪(シュ)つーか幻想論が成立しているって事だわな)」。
なので前段の『均衡論的初期認知』は事実上「強迫的思考や認知」と同じ。
(不安や不安定状態に迫られて→付け焼刃でもなんでも瞬間対処しようと対称的或いは補完的な認知が自動的に起動する構造がありますよって事だから。構造は「強迫的思考や認知」とそのまま同じ。)
注)ちなみに経済学における価格均衡論と文化的名品の評価は意図が違うから←こっちは希少性に関わる価値論の原則とかの話。
■うっかり均衡論的概念が仇となって→ガチで実存している事象を見落としがちなのも事実。
(これがさっきの「その値段の品物が本当にあると思ってしまう」認知だわね←前記注釈にある希少性や名品価値認知現象が例えば「閉鎖的家庭社会内」で起きるとエディプスコンプレックス化しやすいってのもわかる話で。→「環境だけが理由の希少性フラグの誤謬」)
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2013年01月10日
『幼児期の第一次反抗期』の認識に重大な瑕疵があるかもしれない
ひょんな事から気が付いた。
俺はブログのプロファイル画像ご覧のとおり『猫飼い(”ひつじかい”のように発音)』なワケだが、ネコってのは犬に比べておトイレの躾が必要無いからウンウンかんぬんを考えていた時(勿論この辺の話は副業柄「ペット可フラグ」で『犬飼い』の情報も入ってくるワケでして)、
「そういえばネコにはウンチハイだとかえーっと」などと思いだしていた時だ、
「ネコだっておトイレが汚れたままだとかましてやお部屋にトイレが無かったら大パニックじゃん」
「昔の犬は散歩=おトイレだから散歩の時間がとても大事だし、、」
(なんと最近は部屋でおトイレ済ませてから散歩に行くのがハイソな『犬飼い』の常識らしい)
あ れ れ れ れ 何だ これは?
ふと思い出した。
赤ん坊の育児において「オムツの素材やら(母乳とミルクがどうやらみたいな)論議無かったか?」
第三世界にメンタル事例がほとんど無い事(この社会状況の場合メンタルは皇帝病のような支配階層だけの話になる)、先進国ってのは育児における『共同幻想』的縛りって(この場合人権保護もからんで)やたら類型化されてなかったか?
欧米と日本の育児の違いにおいても「欧米は赤ん坊の時から子供の個室を用意するからなんとやら」ってあったよな、、
赤ん坊には原始歩行も原始水泳もあるワケだが、、、
フロイドなり岸田が確認した『エディプスコンプレックス』の論議は半ば人類の性のように「普遍的コンプレックス」であるかのように語られているが、
ほんとうにそうなんだろうか?
俺は個人心理学の専門で幼児心理とか門外漢なので詳しくこの辺をプルーフできんのだけどさ、
原始歩行を利用して(二足歩行は無理でも)「ネコのトイレ」のようなものを赤ん坊に教えれば(犬だってペットシーツが狭まる事を覚えるんだから)、0歳児段階でオムツ無しで自主的にトイレが可能になるのでは?
(流石にどっかの人権団体飛んできそうなので実験を奨励とかでできんけどさ)
フロイドしかり岸田しかり、事実上『エディプスコンプレックス』なるものは非常に外傷性トラウマとこれを補完する依存性愛から構成されていて、そのトラウマ(幼児が自主性の尊厳なりを打ち砕かれる)の中でも代表的なものに「自分でトイレにいけない」っつーのがある。
夜泣き含めて(フロイドではワザワザ口唇期やら肛門期なんてややこしい分類があるぐらい)幼児の依存性における現象ってのは「食うか排泄だろーよ」。
この時に、現代文明なら「便利な自立行動器具」だとかさ「2時間おきに好き勝手に自立的に適温で”飲乳”可能な器具」だとか開発すんの児戯に等しいじゃん。
■ザックリ言えば「生後6ヶ月以内にオムツ無しで自主的にワイルドなトイレを使う赤ん坊の可能性」→人類の幼児に普遍的な外傷性トラウマを与えてしまうことこそ虐待であるという考え方だよ。
「トイレを隠して成長させて、ペット程度の認知しかない生き物にいきなりトイレに行けとかどんな虐待なんだ」ってさ、
(しかもうまくできないと親が逆切れみたいな←こんな荒唐無稽な事は『猫飼い』も『犬飼い』もやらない。「そんな酷い」って思うから、)
母親がつきっきりで世話しないとみたいななんかさーゲゲッとくるような自己陶酔的世界を離れて、
「赤ん坊がこの部屋の暮らしを気に入ってくれるか否か試される」かのような(ペット飼いってここ大変気を使うからね)、サシの勝負ってか「平等感のある関係性」はあり得るんじゃないの?
(無理なんかねこれ、)
→続きを読む
俺はブログのプロファイル画像ご覧のとおり『猫飼い(”ひつじかい”のように発音)』なワケだが、ネコってのは犬に比べておトイレの躾が必要無いからウンウンかんぬんを考えていた時(勿論この辺の話は副業柄「ペット可フラグ」で『犬飼い』の情報も入ってくるワケでして)、
「そういえばネコにはウンチハイだとかえーっと」などと思いだしていた時だ、
「ネコだっておトイレが汚れたままだとかましてやお部屋にトイレが無かったら大パニックじゃん」
「昔の犬は散歩=おトイレだから散歩の時間がとても大事だし、、」
(なんと最近は部屋でおトイレ済ませてから散歩に行くのがハイソな『犬飼い』の常識らしい)
あ れ れ れ れ 何だ これは?
ふと思い出した。
赤ん坊の育児において「オムツの素材やら(母乳とミルクがどうやらみたいな)論議無かったか?」
第三世界にメンタル事例がほとんど無い事(この社会状況の場合メンタルは皇帝病のような支配階層だけの話になる)、先進国ってのは育児における『共同幻想』的縛りって(この場合人権保護もからんで)やたら類型化されてなかったか?
欧米と日本の育児の違いにおいても「欧米は赤ん坊の時から子供の個室を用意するからなんとやら」ってあったよな、、
赤ん坊には原始歩行も原始水泳もあるワケだが、、、
フロイドなり岸田が確認した『エディプスコンプレックス』の論議は半ば人類の性のように「普遍的コンプレックス」であるかのように語られているが、
ほんとうにそうなんだろうか?
俺は個人心理学の専門で幼児心理とか門外漢なので詳しくこの辺をプルーフできんのだけどさ、
原始歩行を利用して(二足歩行は無理でも)「ネコのトイレ」のようなものを赤ん坊に教えれば(犬だってペットシーツが狭まる事を覚えるんだから)、0歳児段階でオムツ無しで自主的にトイレが可能になるのでは?
(流石にどっかの人権団体飛んできそうなので実験を奨励とかでできんけどさ)
フロイドしかり岸田しかり、事実上『エディプスコンプレックス』なるものは非常に外傷性トラウマとこれを補完する依存性愛から構成されていて、そのトラウマ(幼児が自主性の尊厳なりを打ち砕かれる)の中でも代表的なものに「自分でトイレにいけない」っつーのがある。
夜泣き含めて(フロイドではワザワザ口唇期やら肛門期なんてややこしい分類があるぐらい)幼児の依存性における現象ってのは「食うか排泄だろーよ」。
この時に、現代文明なら「便利な自立行動器具」だとかさ「2時間おきに好き勝手に自立的に適温で”飲乳”可能な器具」だとか開発すんの児戯に等しいじゃん。
■ザックリ言えば「生後6ヶ月以内にオムツ無しで自主的にワイルドなトイレを使う赤ん坊の可能性」→人類の幼児に普遍的な外傷性トラウマを与えてしまうことこそ虐待であるという考え方だよ。
「トイレを隠して成長させて、ペット程度の認知しかない生き物にいきなりトイレに行けとかどんな虐待なんだ」ってさ、
(しかもうまくできないと親が逆切れみたいな←こんな荒唐無稽な事は『猫飼い』も『犬飼い』もやらない。「そんな酷い」って思うから、)
母親がつきっきりで世話しないとみたいななんかさーゲゲッとくるような自己陶酔的世界を離れて、
「赤ん坊がこの部屋の暮らしを気に入ってくれるか否か試される」かのような(ペット飼いってここ大変気を使うからね)、サシの勝負ってか「平等感のある関係性」はあり得るんじゃないの?
(無理なんかねこれ、)
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2013年01月08日
『感覚と論理(ロジック)』
感覚的認知は認知の段階としてロジックではありません。
なんとも論理思考のをすると、スタートレックのバルカン星人みたいに論理的思考は感情を排した冷血漢みたいなトンチンカンな事を想定しがちですが、バカバカしい話でありまして、車の運転にたとえれば話が早いです。
↓
「速いぞ」「リアが不安定だ」「タイヤのグリップが落ちている」
これらの感覚は情報としてフィードバックされないと意味が無いのです。
意味が無いってのはですね、
「あー美味しかった」だとか「気持ちよかった」「ひやー疲れた」みたいな『流してもいいような記憶(一過性で終わる認識)』と同レベルであるからです。
※その時どうだった→「終わり」って反復反射的な記録で記憶に残るのかすら怪しい←記憶に残るのはその反復性から過去事例用例追体験分類があった場合のみ。
↑
むしろ感覚的認知の大半は前述の過去事例用例引出しから出てくる追体験的な記号である場合が大半で(なので新規の事例には『驚愕の』のようなパニック系のフラグが付く)、普通に「いやー速かった」的な認知は「新規事例では無い=過去用例からの引用」であり、だからこそ『流せる記憶』として成立するのであり、
ここに自意識が(一拍置く過程を経て)「これはさ○○における○○であり」などの論理化のフラグを立てない限り→後からえーっと的に「自分で考える」に足る情報として残っていないとも言い換えらえる。
(事象に対する認知の軽重と判断してもいい、重要な事象ほど”論理フラグ”が付与されて「一拍置く処理過程」に分類されるといった恰好ですよ。)
<話は戻って>
「いやー速かった、流石に低回転トルクが凄いなこれは、そこをいかしてギヤ比もスポーツタイプなんだが、なんせこのエンジン1万回転までスーッと」
↑
これはロジックであり、この認識は『一拍置いて後』確認されている。
感覚発現による情報化された事実認識って事です。
(つまり「びっくりした」「不快だった」「不安である」←これだけでは脳内において事実関係にもならないって事です。←これに拘る図式がある場合ほとんどは過去用例の追体験フラグを呼び出しているからで、極端に言えば個別現象の認識ですら無い。)
その自分の感情が、どういう背景でその現象はどういう韻顔関係でバックグラウンドには何があって、且つそれ以上の可能性としてどういう事があり得るのかなど「その感情により発現される第三者的観察を含めた情報」になるから、それは「情報として論理化されもする」のであって、
こういう情報処理的認知に及ばない限り『自意識マター』にはなっていないと断言してもいいでしょう。
(野村監督に対して長嶋茂雄的感覚が「長嶋は勘ピューター」とかの話ではありませんよ。長嶋は感覚だけで情報処理していたのではなく、言語化が苦手だっただけで”スポーツ文学”的には十分に解析的に事象を認知していたからです。その証明として長嶋は指導者としてその”スポーツ文学的論理の確認”が可能だった。←指導時に「それは違うんだな〜」などのように事象の事後的検証ができている。)
逆さに言えば、
感覚や感情的フラグ(過去用例がトラウマ論的に呼び出されている)が優先されるような認知は=『自意識抑圧構造』そのものであり、
強ければ強いほど論理構造として「強迫心理」を構成(製造)する事になる。
(それは=現実との乖離である)
時にこの現象は「冷静さを失うな」的教訓で語られるのだけれども(一拍置くのを忘れずに的に)、これは一般的な局面の話であり、既に「強迫心理」に化けちゃって以降は「まーまー冷静に」みたいな冗談ではどうにも対処できなない。
(「冷静でいられない状態は見りゃわかるだろうが」的コントになってしまう)
現象として「強迫心理」とは=『論理の破綻:現実との乖離(或いは喪失)』なワケで、
冷静になるとっかかり(現実を第三者視点で見る)まで乖離しちゃうワケだから、何かを第三者的に見ようとしても、もう見える世界は”あっちの世界”まで乖離が”いっちゃっている”ので、「登山の途中で足場を探したがどこにアンカー打ったものやら忘れた状態」に等しい。
■しかし「強迫心理だから弱点も明瞭」となる。
(基本的に「強迫心理」の所属は自意識じゃないので「認知症の高齢者のように”言うことがいつも同じ”」)
「いかにも「強迫心理」が言いそうな事」ってのは容易に想定可能なので、分析なりカウンセリングなどで一度コテンパンに論駁して用例化しておけばいいだけの話。
(精神分析過程における自己分析とは違うので、特別リスク無いからこの「その局面以外の時間を利用して強迫心理を各個撃破しておく」って部分は自分だけで独学理論武装でやっつけても全然OKなのであり、予習復習が可能だという特徴がある。→「強迫心理」は類型であるため。)
↑
行為としてもこれは特別な事では無く、思春期における『反抗期』の特有の強情さ(不良化も含めて)や聞く耳の無さってのは、論理構造として「強迫心理状態」とほぼ同じであり、それを自己解決するのも思春期だから。
何するのかって言えば→自分なりに考え知恵も付けて、「強迫心理の類型をコテンパンに」つーのが大人になるって事なのだし。
簡単に言えば「あれに弱いんだよな〜のような自分の自我特有の強迫的認知の傾向を予め日常性が織り込んでしまう」つー工程だわね。
(その判断が同時に”次に何に賭ける”というような論理の始まりになる。)
(この認知工程は「フェチシズム」の自覚とも構造的にはまー同じですわ、)
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なんとも論理思考のをすると、スタートレックのバルカン星人みたいに論理的思考は感情を排した冷血漢みたいなトンチンカンな事を想定しがちですが、バカバカしい話でありまして、車の運転にたとえれば話が早いです。
↓
「速いぞ」「リアが不安定だ」「タイヤのグリップが落ちている」
これらの感覚は情報としてフィードバックされないと意味が無いのです。
意味が無いってのはですね、
「あー美味しかった」だとか「気持ちよかった」「ひやー疲れた」みたいな『流してもいいような記憶(一過性で終わる認識)』と同レベルであるからです。
※その時どうだった→「終わり」って反復反射的な記録で記憶に残るのかすら怪しい←記憶に残るのはその反復性から過去事例用例追体験分類があった場合のみ。
↑
むしろ感覚的認知の大半は前述の過去事例用例引出しから出てくる追体験的な記号である場合が大半で(なので新規の事例には『驚愕の』のようなパニック系のフラグが付く)、普通に「いやー速かった」的な認知は「新規事例では無い=過去用例からの引用」であり、だからこそ『流せる記憶』として成立するのであり、
ここに自意識が(一拍置く過程を経て)「これはさ○○における○○であり」などの論理化のフラグを立てない限り→後からえーっと的に「自分で考える」に足る情報として残っていないとも言い換えらえる。
(事象に対する認知の軽重と判断してもいい、重要な事象ほど”論理フラグ”が付与されて「一拍置く処理過程」に分類されるといった恰好ですよ。)
<話は戻って>
「いやー速かった、流石に低回転トルクが凄いなこれは、そこをいかしてギヤ比もスポーツタイプなんだが、なんせこのエンジン1万回転までスーッと」
↑
これはロジックであり、この認識は『一拍置いて後』確認されている。
感覚発現による情報化された事実認識って事です。
(つまり「びっくりした」「不快だった」「不安である」←これだけでは脳内において事実関係にもならないって事です。←これに拘る図式がある場合ほとんどは過去用例の追体験フラグを呼び出しているからで、極端に言えば個別現象の認識ですら無い。)
その自分の感情が、どういう背景でその現象はどういう韻顔関係でバックグラウンドには何があって、且つそれ以上の可能性としてどういう事があり得るのかなど「その感情により発現される第三者的観察を含めた情報」になるから、それは「情報として論理化されもする」のであって、
こういう情報処理的認知に及ばない限り『自意識マター』にはなっていないと断言してもいいでしょう。
(野村監督に対して長嶋茂雄的感覚が「長嶋は勘ピューター」とかの話ではありませんよ。長嶋は感覚だけで情報処理していたのではなく、言語化が苦手だっただけで”スポーツ文学”的には十分に解析的に事象を認知していたからです。その証明として長嶋は指導者としてその”スポーツ文学的論理の確認”が可能だった。←指導時に「それは違うんだな〜」などのように事象の事後的検証ができている。)
逆さに言えば、
感覚や感情的フラグ(過去用例がトラウマ論的に呼び出されている)が優先されるような認知は=『自意識抑圧構造』そのものであり、
強ければ強いほど論理構造として「強迫心理」を構成(製造)する事になる。
(それは=現実との乖離である)
時にこの現象は「冷静さを失うな」的教訓で語られるのだけれども(一拍置くのを忘れずに的に)、これは一般的な局面の話であり、既に「強迫心理」に化けちゃって以降は「まーまー冷静に」みたいな冗談ではどうにも対処できなない。
(「冷静でいられない状態は見りゃわかるだろうが」的コントになってしまう)
現象として「強迫心理」とは=『論理の破綻:現実との乖離(或いは喪失)』なワケで、
冷静になるとっかかり(現実を第三者視点で見る)まで乖離しちゃうワケだから、何かを第三者的に見ようとしても、もう見える世界は”あっちの世界”まで乖離が”いっちゃっている”ので、「登山の途中で足場を探したがどこにアンカー打ったものやら忘れた状態」に等しい。
■しかし「強迫心理だから弱点も明瞭」となる。
(基本的に「強迫心理」の所属は自意識じゃないので「認知症の高齢者のように”言うことがいつも同じ”」)
「いかにも「強迫心理」が言いそうな事」ってのは容易に想定可能なので、分析なりカウンセリングなどで一度コテンパンに論駁して用例化しておけばいいだけの話。
(精神分析過程における自己分析とは違うので、特別リスク無いからこの「その局面以外の時間を利用して強迫心理を各個撃破しておく」って部分は自分だけで独学理論武装でやっつけても全然OKなのであり、予習復習が可能だという特徴がある。→「強迫心理」は類型であるため。)
↑
行為としてもこれは特別な事では無く、思春期における『反抗期』の特有の強情さ(不良化も含めて)や聞く耳の無さってのは、論理構造として「強迫心理状態」とほぼ同じであり、それを自己解決するのも思春期だから。
何するのかって言えば→自分なりに考え知恵も付けて、「強迫心理の類型をコテンパンに」つーのが大人になるって事なのだし。
簡単に言えば「あれに弱いんだよな〜のような自分の自我特有の強迫的認知の傾向を予め日常性が織り込んでしまう」つー工程だわね。
(その判断が同時に”次に何に賭ける”というような論理の始まりになる。)
(この認知工程は「フェチシズム」の自覚とも構造的にはまー同じですわ、)
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2013年01月01日
『外形的構造と主体性認知との誤謬』
政局は小沢派が分裂というアララな状況で一幕下りたところで、
心理学に話を戻します。
例の理系哲学における「観察者の主観により事象が変化する論」みたいなところと関わっているんだけれども、個人心理学上の自我における主観というか一人称認知は果たしてそのまま本人認定していいもんだろうかって現象がある。
誰しもが「自分は自分ですが」と体感している主体性の認識というのものは何によって確認されているかと言えば「行動なりを企画する動機形成の機関が存在するから」となるんだけれど、
例えば「二の名」的自称って世界で『復讐者○○(なにがし)』なんてのがありますが、この人物の自称はその行為における『復讐』って外形に依存していることになる。
(※ここは帰属性アイデェンティティー論と同じ)
個人という概念をすっぱり抜き出せば「森に人類自分独り(アダム設定)」で考えるべきところなんだが(ここは基本中の基本)、しかしそれは内省的思考時における”設定”だし、自我の運用・実務上(所謂自我の日常)しがらみであるとか巻き込まれ型であるとか、偶然○○事件があっただの、自分の「二の名だとか呼び名(人呼んで)だとかミドルネームでも構わないのだが」
→自称するアイデェンティティーってものは『外形的事実や構造』に起因している。
(反動ではなく主体的な自称という意味で←『抗(あらがう)』構造として。)
これは「自分と現実との関係性」と判断してもいいのだが、自分の存在も現実の一部なので、無理やり抜き出してしまうとその段階で現実から乖離してしまうのであり(言語で説明できなくなるって言えばいいかな)、逆さまに言えば自分は「認識される現実の一部として製造されている」ようなものでもあって同時に「その現実を認識しているのが又自分」という難解な構造になっている。
↓
えーとだね、
「何ら外部情報に接する事の無いコンピューターはコンピューターと呼べる代物か?」のような命題ですよ。
うーんとその機能性は内蔵されているというより、外部構造により再発見の形で実存可能になる(乱暴に言えば”使い道”が生き方みたいな形で組成されている実態(或いは主体)を証明する)。
なので「観察者の主観により事象が変化する論」みたいな話が重要になってくる。
これが観察者である主体によって変化してしまうって話。
外部との接点における表面上の認知があたかも主役気取りでコアを自称してしまう。
仮に自分を含む現実を第三者的に俯瞰で客観視可能だとしてもだ、それじゃ主体性認知を保持できなくなり(ドラマにおけるナレーションみたいな)、主体性の認識すら壊れてしまう可能性だってある。
(※これは第三者性認知が絶対視で可能だったばやいね←あり得ネーんだけど)
つまり、好むと好まざるとに関わらず主体性というのは「現実の一部でありながら同時に観察者としてそこに干渉(乖離)する存在であり同時にその証明者である」、
故に実存をリアルに踏みとどまらせるためには、アップデートみたいな感じの認識カウンターを常備するような形で人の心理はどうにかこうにか運用されている。
(そこのカウンター効かないと「現実との乖離がノーブレーキになるので」あっちの世界までいってしまう的に「乖離ってか現実を喪失した妄想」になってしまう。)
『構造的に外部との接点が主体認知の錯誤を始めた時にこれを否定する第三者的認知(注:第三者という言語が既に主体的認知や主観のアンチテーゼの言語である事に注目)』←これ陰陽学じゃないけれど「ワンセット」で主体を構成するんだわ。
■多分ここんところの構造は『天秤と力動論』みたいにだね(或いは経済学において「総需要なのか総生産なのかの論理」)、同じものを指しているんだろうと思う。
それこそ観察者の視点により姿が→主観だったり第三者になっているだけ。
認知というのは常に「反動形成を込みで”1”になる」。
正に対して負でもいいけどさ、
表と裏みたいな図式が天秤の左右に乗っている構造がある訳だよ。
(外からデスクトップを見れば表だが中の人にはそれは背中なワケだ)
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心理学に話を戻します。
例の理系哲学における「観察者の主観により事象が変化する論」みたいなところと関わっているんだけれども、個人心理学上の自我における主観というか一人称認知は果たしてそのまま本人認定していいもんだろうかって現象がある。
誰しもが「自分は自分ですが」と体感している主体性の認識というのものは何によって確認されているかと言えば「行動なりを企画する動機形成の機関が存在するから」となるんだけれど、
例えば「二の名」的自称って世界で『復讐者○○(なにがし)』なんてのがありますが、この人物の自称はその行為における『復讐』って外形に依存していることになる。
(※ここは帰属性アイデェンティティー論と同じ)
個人という概念をすっぱり抜き出せば「森に人類自分独り(アダム設定)」で考えるべきところなんだが(ここは基本中の基本)、しかしそれは内省的思考時における”設定”だし、自我の運用・実務上(所謂自我の日常)しがらみであるとか巻き込まれ型であるとか、偶然○○事件があっただの、自分の「二の名だとか呼び名(人呼んで)だとかミドルネームでも構わないのだが」
→自称するアイデェンティティーってものは『外形的事実や構造』に起因している。
(反動ではなく主体的な自称という意味で←『抗(あらがう)』構造として。)
これは「自分と現実との関係性」と判断してもいいのだが、自分の存在も現実の一部なので、無理やり抜き出してしまうとその段階で現実から乖離してしまうのであり(言語で説明できなくなるって言えばいいかな)、逆さまに言えば自分は「認識される現実の一部として製造されている」ようなものでもあって同時に「その現実を認識しているのが又自分」という難解な構造になっている。
↓
えーとだね、
「何ら外部情報に接する事の無いコンピューターはコンピューターと呼べる代物か?」のような命題ですよ。
うーんとその機能性は内蔵されているというより、外部構造により再発見の形で実存可能になる(乱暴に言えば”使い道”が生き方みたいな形で組成されている実態(或いは主体)を証明する)。
なので「観察者の主観により事象が変化する論」みたいな話が重要になってくる。
これが観察者である主体によって変化してしまうって話。
外部との接点における表面上の認知があたかも主役気取りでコアを自称してしまう。
仮に自分を含む現実を第三者的に俯瞰で客観視可能だとしてもだ、それじゃ主体性認知を保持できなくなり(ドラマにおけるナレーションみたいな)、主体性の認識すら壊れてしまう可能性だってある。
(※これは第三者性認知が絶対視で可能だったばやいね←あり得ネーんだけど)
つまり、好むと好まざるとに関わらず主体性というのは「現実の一部でありながら同時に観察者としてそこに干渉(乖離)する存在であり同時にその証明者である」、
故に実存をリアルに踏みとどまらせるためには、アップデートみたいな感じの認識カウンターを常備するような形で人の心理はどうにかこうにか運用されている。
(そこのカウンター効かないと「現実との乖離がノーブレーキになるので」あっちの世界までいってしまう的に「乖離ってか現実を喪失した妄想」になってしまう。)
『構造的に外部との接点が主体認知の錯誤を始めた時にこれを否定する第三者的認知(注:第三者という言語が既に主体的認知や主観のアンチテーゼの言語である事に注目)』←これ陰陽学じゃないけれど「ワンセット」で主体を構成するんだわ。
■多分ここんところの構造は『天秤と力動論』みたいにだね(或いは経済学において「総需要なのか総生産なのかの論理」)、同じものを指しているんだろうと思う。
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