心理学のそれが同じであるように、共同幻想の崩壊時にそのカウンターとなる進歩的発想は対象となる共同幻想のコア(保守的原理)が表現されないし哲学的論証も曖昧であるため(だから保守なので→継続保守することで維持されるロジックであるため”説明を省略できる合理性”が集団化のインセンティブになっているワケで)、これを批判する形の進歩的発想は常にカウンターとしてアンバランスで(対象が曖昧な分表面的には”相当インチキ臭くても”批判するだけは有効だったりする)、内容もグズグズである場合が多くてこれが保守派の反動意欲に火に油を注ぐ結果となるケースも多い。
個人心理学においては、事実関係の確認を精神分析で行い(無意識化されている原理を証明する)、実際テーマが論理矛盾を抱えるケースとなるため(なので強迫なのだし)、カウンターの設置における自我バランスを確保することにおいて、偏向が発生することは論理的に発生しない(分析がトンチンカンだとアレだけれど)、
これは対象の明解化と、実証(カウンター)の意図に利害関係が無いため(第三者性の担保)で、社会心理における「共同幻想の賞味期限切れ」の方がよっぽど不安定になったり一時的な悪循環(火に油)が発生するのは予測の範囲内と言ってもいい。
それぐらい社会心理はやっかいなもので、
批判勢力もインサイダーとして(自らの利害関係から批判を構築するので、利害に関係ない側から見れば単なる利己的ポピュリズムに見えやすい)発言していくためその反動も目にみえて敵対的になったり、昭和の時代であればナチスに代表される『ファシズムの台頭』を招いてしまうなど大失敗を幾度も経験してきた。
フランス革命であるとか日本の戦国時代であるとか、暗黒時代とも呼ばれる混沌は近代以前であれば100年オーダーの時間的猶予もあったけれど、情報化社会の現代においてはこの現象が10年オーダーで起きる。
うっかりしていると知らない間に論議がエスカレートすることもある、
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