現実論を語れば一番話が早いのが経済ってことになる。
(事実経済学と心理学には深い関連性がある)
ここで量子力学における不確定性原理みたいな話をしようってのじゃなくて、実体経済と呼ばれるぐらいこの流動し循環する現象は人に纏わる現実の一部なのであって、現実を必ずしも「人の手の及ばない普遍的環境」と考えるのが乱暴に過ぎる論証でもある。
民主主義論も同じ、
自分ひとりの経済行動だけでも観測不能なレベルであっても経済は変化しているのであって、しかもそんな瑣末な現象の積み上げがGNPでもあるのだから(ここも間違いなく)その単体の行為を現実と関連性が無いと考えれば=民主主義における「一票ぐらい金で買って何が悪い」並のナンセンスであるのも事実、
労務環境にあっても、誰かが「フレックスタイムにしませんか」と言い出さない限りこの世にはフレックスタイムなど存在しないのであって、
『現実普遍論』とは人類が直立猿人であった時代のオマージュに過ぎない
文明なる共同幻想を獲得して以来人類は”現実そのものに干渉し続けてきた”のであり、その幅は「草食動物が増えすぎて植物が・・・後に・・・」的なシンプルな経済モデルをあたかも手品のように拡大し(流動性や弾性値を拡大することで”余地”が拡大して直接民主制的なダイレクトな消費と生産のモデルを”爆発的に取引選択の余地”を拡大することで「投資・成長」の概念を発明→文明化に至る)、現在に至るのだけれど、
この経済モデルが人類普遍の習性かと聞かれればそれは違う、
時折発見される未開民族に見られるように、自然環境に恵まれていて”シンプルでダイレクトな経済モデル”でなんら生活上困らない場合(同時に発見されにくい立地等安全保障上にも有利でである場合)原始時代的な文明レベルとそれほど変化しないのも事実であって、現在の文明化を標榜している各国家群に起きた現象は、安全保障(戦争)や通商等のコミュニケーションによって拡大された「強烈に競争力や正当性、インセンティブが担保された共同幻想の雛形」が”経済”と考えてもいい。
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