いかにも「現実と現実的」との関連で誤解もありそうなので、
ここも軽く触れておこう。
現実と現実的の”的”がらみの違いの話は以前もしているしHPのテキストにも関連する記載あるんだけれども、
http://kagewari.seesaa.net/article/4091298.html
http://kagewari.seesaa.net/article/47394675.html
(他にも多数あると思われ)
フェイクとしての”的”なる抽象概念としての「現実的」なる言葉は使い方によっては「そのまんま強迫性の連想キーワードにもなり得る代物」で、『推定される妥当性』のように厳密な用途で使わないと「現実(REAL)そのもの」と混同されるので困る。
ここで言う『現実適応』ってのは”自我の時制の一致”を現すもので、
簡単に言い換えれば
「自我の内部時計は当事者として常に”今”ですか?」って話ですよ。
これでもわかり難いと思うのでさらに解体すると
「主体認知として過去の葛藤や象徴的記憶や象徴ともなる不快等、その複合的固着(コンプレックス)に始まる興奮が、現実を認知する世界や視野ってものを偏向させたり、余談や与件化のような”きまっている口調の”固定観念で強迫する前から構造がまんま強迫的になってやせんか」という話です。
現実を認知する尺度として『自我の時制としての現実適応』をテーマにしているのであって、「あなたの発想は”非現実的だねぇ〜”」のようなトンチンカンなアホ話に登場する「現実的」なる言葉の世界と、これ完全に違うんだと(笑
こういう事です。
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