現代社会がその共同幻想の崩壊過程にある事はご存じのとおりで、文明化→先進国の流れの中で特別社会学や哲学的構造論的な解釈の必要も無く、それは自明の事になる。
心理学的に言えば”社会帰属的概念”のよりしろとなる共同幻想の正当性は文化や伝統により担保されるもので、ここが自由主義的であったり各個人の人権の尊厳を重んじる方向にシフトするのは経済成長とのからみで必然になる。
これは、発展途上段階の社会や近代保守であったり、極論未開の孤立民族における習俗といったものが「私有財産」を確認する領域が著しく狭いため、個人の人権であるとか各個人の自由なんてーな論議をするにしても”それは何の事ですか”と、守るべき対象が実存していないために論議としてそもそも成立しないためで、
反対に言えば、この守るべき私有財産(各個人の肖像や自由を含む実存権のようなものと考えた方が自然)の登場により、近代社会の各個人の心理面においてもここを安定させる共同幻想はその正当性から瓦解するため、文明化社会においてその過渡期に個人のメンタルが不安定化するのは「構造的に必然」となる。
なーわけで、現在日本社会はこの過渡期にあるんだが、
当然その間予定外の共同幻想の崩壊により「あたかもイエス時代の迷える羊の話じゃないが」自立的自我の確保を”ルール無用のスポーツ”のような状況下で、各人の自意識は行わなければならないんであって「ちょっとした開拓時代のサヴァイヴァル」みたいな様相を呈する事になる。
むしろワケのわからん話が頻発するのが”むしろ自然だ”と、
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