岸田的な『唯幻論』のイメージは、人の自我が確からしいロジックとして事象の認定をしているって一種の間接性を表しているんだけれども、心理学的に言えばもうちょっと深い意味もある。一種のベクトルというか判断する”計りの概念”が自身の自我に内包されている上”何を計って事実とするか”すら無意識領域の連想性のロジックに負っているためそこに置かれる自我の受動的脆弱さを意図しているとも言える。
ここをもう少し広げて考えてみると、
人の数倍も嗅覚の鋭い犬や、超音波ソナーで物体認知を行うコウモリがその現実認知の脆弱さに「困っているか?」と言えば否だ。
それはこの一時情報は情報に過ぎずない、以降何らかの判断する集合になった瞬間それは現実となるのだから、現実定義における主導性はむしろ自我にあるのであって(コウモリには信号の色はほとんど無価値な現実)自らの実存にとって関わる情報が現実なのであってこれが揺らぐのじゃ無い。
では、何故人間の自我には脆弱性があるのか?
ここには、人間の動機形成と存在との連想性が”酷く曖昧”だって部分、つまり「本能の代替としての自我の曖昧さ」に発端があるのであって、動機形成のプロセスとアイデェンティティーとの連想性の在り方が即ち実存なのだと言える。
「実存の前の現実は明快である」と、言い換えていい。
心理的な不安は=アイディンティティーの不安であって、これは構造的に自意識と無意識のバランスによる自我矛盾=アンヴィバレントな葛藤の要因でもある。つまり情報を現実足らしめる存在が幻のように揺らいでいるのが以降の悩みの原因で、フロイドが失敗した力動的解釈を失敗する事を前提にたいした意味もないレベルで考えてみると「自意識がどれだけ総花的無意識からパーソナルな自意識に現実認知の基準を代替したか」と言い換えてもいい。特に現実認知の時制が問題になるかと言えば無意識退行がノスタルジーを発端とするように、無意識的判例主義の時制は過去に重きを置いているのであるから、人の自我は常に「過去か今かを問われている」ことになる。
コウモリと信号の色程度の問題であれば現実を幻とは言わないが、色(印象)のついている過去が関わってくるので幻並なんだと、
「目の前の原色が現実には違いが無いが、それがより印象の強い過去のフィルターをかけた表現に負ける」
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