これ出所は”パスカル(Blaise Pascal)の賭け”らしいけれど(哲学者にして数学者:三角形と気圧の人)、これ引用するとですね
http://www.nagasaki-gaigo.ac.jp/toguchi/tog_essai/uzushio/pari.htm
「神は存在するか、しないか。きみはどちらに賭ける?」
「いや、どちらかを選べということがまちがっている。正しいのは賭けないことだ。」 「そう。だが、賭けなければならない。君は船に乗り込んでいるのだから。」
すでにこの世に生きている以上、この勝負を降りることはできない。賭けないということ自体が、結果的に一つの選択となるからだ。
賭け金は自分の人生である。神が存在するという方に賭けたとしよう。勝てば君は永遠の生命と無限に続く喜びを得ることになる。しかも、君の人生は意味あるものとなるだろう。賭けに負けたとしても、失うのものは何もない。
反対に、神は存在しないという方に賭けたとしよう。その場合、たとえ賭けに勝っても、君の儲けは現世の幸福だけである。死後は虚無とみなすわけだから、そこで得るものは何もない。逆に負けたとき、損失はあまりに大きい。来世の幸福をすべて失うことになるからである。
引用『パンセ』(1670年)
なんだかこれがっすね、すっかり数学者であるパスカルが気でも触れたか宗教に傾倒している困った話みたいな理解もあるにはあるんだけれども、これって『夢(幻想)』との対比で考えるとえらく違った意味の哲学的テーマになる。(これを宗教系の話で引用している人もいるけれどもそれは違うくないかと思う)
心理学的に言うなら
「賭けとはリアリティ(現実”的”という非現実)という幻想に自我が非理性的に関わる事で、ここで言うところの非理性とはリアリティの定義する”的”なる幻想性に対する理性的回答である」って意味になる。
つまるところ、人が思考した次なるイメージは決して現実でも真実でも無いのだけれども、これに賭ける(所詮バクチ程度の実存でしかない)からこそ、その未来の曖昧さは自我の関与によって実存(現実)する」
※賭けた瞬間イメージの時制が現実化する。
(自我の立ち位置は現実化の中心に当事者として実存)
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