左翼的には既に死語の「プロレタリアート革命」じゃないが物理的にも結果としての平等が求められ、人権派的視点だと「守られるべき尊厳を保障する乃至保護する公平性」って事になる(だいだい回復すべき権利を発見すると訴訟となる)。新自由主義的には「機会の平等」が重要なので、規制や既得権益の保護を前提とする法律の緩和が求められる。
しかし全てに共通しているのは『平等は損なわれ得る』という前提条件だ。
精神分析的にはそこに矛盾を感じる。
彼らの求めているのは果たして「平等」なのだろうか?
各論者が考えているのは、現在考ええる彼らの「不平等感の改善」がきっかけになっている。
言い換えると「不平等である現況を認定」しているって意味、
それでは「平等の普遍性を認めていない」事になる。
果たしてそうだろうか?
現況が普遍的ではない不平等だとすると、これを改善すると普遍的に平等になるワケがない。何故なら現実によって不平等や平等にコロコロ変るのだから、意識的に持続的に維持しなくていけない『ある状態』が、それぞれの論者の「気に入る平等だ」って意味になる。これは「平和の概念」に似ていて、ほとんど政策であって平等という概念じゃないだろう。
そのまんま言うなら、彼らは皮肉にも「不平等を肯定しちゃっているからだ」。
「不平等である現在を認定している」のだから、平等というのは容易に壊れるもので、むしろ不平等になり易いと考えている事になる。
「世界はむしろ不平等である事が多い」
こりゃ、「そもそも人間は普遍的に平等である」と言っているのではなく「そもそも人間は普遍的に不平等になりがち(平等は政策的努力目標)」→人間の平等とは不安定だと言っているのと同じだ。
話を元に戻す、
果たしてそうだろうか?
精神分析的には人間は普遍的に平等だ。
「だって同じ人間だから」
ここは“動物行動学の観察”を想像してもらうとわかりやすい。
「サバンナで自然な状態のチーターを観察した」
この観察記録によるレポートに「おいおい個体差があるんだし、そもそもそれはそこのチータだろ!」という抗議があるんだろうか?
そりゃ何々地方のチーターにはこういう特徴が例外としてあるとかって事はあんだろうけれど、自然な状態のチーターはチーターだ。
何故って「チーターはチーター」ってチーターである事の普遍性は種として実存しているんであって、「貧乏なチーターと富裕なチーターの所得の分配をチーター権の回復だと論議になることは無い」。
一体人間の言っている平等ってのはどういう事なのか?
精神分析的には「人間は同じ人間で普遍的に平等だ」終わり。
になる、
結果として人のする事は様々だけれど、社会性のために形態まで変化するアリや蜂の群れと同じではない。
アメリカ大統領には「大統領になりたいという個体特有の動機」があるのであり、その動機を「よりによって何故なのか?」と考えるのが精神分析で、そこには『普遍的な平等性』を前提としないと「彼は大統領になる人間(終わり)」になってしまう。
これじゃ動機の分析の意味も、深層心理はなんだの論じている意味が無い。
極端に言えば「そうする人やあーする人」がいて「理由もへったくれもなくそういう人だから(終わり)」であって、結果は『人間の平等とは不安定だこれの回復が政策的な目標である』と同じになってしまう。
自らの思想として理想とされる社会性と平等は同じじゃないでしょう。
精神分析的マターの多くは「コンプレックスや葛藤要因を発端にした社会的ストレス」であり、そこに登場する表層的不満は「現況の不快感」である。逆さまに言うと「こうあるべき」という理想像が無意識にあり、その理想像が現実世界に実現されていない事への不満がストレスなんだが、精神分析が取り扱うのは「その意識下に沈んでいて自意識に捕捉出来ないイメージは、コンプレックスや葛藤が原因であり最初から無理がある(自意識が最初からわかっていたら自分でもそう思わないだろう)」と分析するところにあるので、非常に重要な事は「常在平等」の普遍性だ。
「そのままでいい」って事。
自意識が個別に持つ目標は、強迫ではない。
つまり「自分がこう思う」を発端とするなら、それは自分固有の信念であったり、努力目標と認知される筈で、強迫的発想とは「それが当たり前の筈だ」と思ってしまう事になる。
話を元に戻してみよう。
「それが当たり前の筈だ(というストレス)」
これって、最初の「巷が考える平等」と全く同じだ。
つまり「巷の平等論」ってのは「共同幻想のドグマ」であり、普通と言う名の強迫性(その社会のアイデンティティー)となる。
精神分析が、ある意味普通である事すら「一種の強迫」と考えるのはそれが理由で、そもそも精神分析が登場するのは「自意識が不快に感じる強迫」であり、不快感を感じなければ登場の必要が無い。
なんとなくわかってもらえるとおもうんだけれど、理論的に精神分析の存在は「社会にとっても疎ましいもの」で、フロイドがEUでパージされちゃったりする。
文(学)系だったり芸術系だったり哲学系はアブノーマルが横行する学問だから(笑、、『アリ』
だけれど常識的な世界である医療や、政治的には『ナシ』って事、
アメリカ映画なんかでは(特にウッデイアレンなんかとか)頻繁に登場する精神科医は、決して医療の世界のメジャーになることは構造的にあり得ない。
これ精神分析的にそういう結論になる。
むしろ精神分析が政治的に肯定されるのは(精神分析としてはオカルト系の傍流「ユング心理学」がナチに曲解されて信奉されてしまった歴史的経緯がある、同じマンダラじゃないがチベットの僧侶を政策ブレインに入れていたりナチのオカルト贔屓は有名。なのでEUなんかで「ユング・ユング」なんていうと白い目で見られまっせ、ちなみに俺は当然アンチユングです。)歪で、アングラに流れているので丁度いい。
こればっかりはどうにもならないことで、精神分析だけが自我構造にアプローチできる手法だと信じて疑わないが、これが医療サイドから重要視されることは構造的にあり得ない。
それが可能になるには「共同幻想に依らない実存的社会の到来」が前提になるだろうけれど、共同幻想に依らなければ、そこの群体は「果たして社会か?」ってな哲学的なテーマになっちまう。
「コンプレックス」「内向化」「深層心理」「そもそも心理学」「脅迫(強迫)」「抑圧」それぞれの言葉はつまみ食い的に一般用語になっていくが(「共同幻想」もそろそろ一般用語になりつつある)、理論的背景は受け入れられる事は無い。
求められるフェーズは犯罪心理学とか、現実の鬱症状とかやっぱ白兵の現場から求められる。
予防的って言ったらおかしいが、一定の社会的認知も難しい面があり(そもそも世間の人が当たり前に常識を懐疑的に見出したら大変だ)、現在は人文系の『心理学』の座に位置付けられる。
そんな精神分析の在り方を不平等とかは感じないね〜、
『精神分析』だけに
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