これは前回の事件についての話を受ける形で補完的に話してみようと思う。
特に「いじめる側」の心理だ、
実行行為に及ぶ者と、傍観者にわかれるが、前回の話で傍観者につていは随分と話したので、今回は実行行為に及ぶ者について話していきたい。
いじめのトリガーとなるのは、「いじめられる側のユニーク」になるのだが、これは「それ自体、原因となる理由などと、まったく関係無い」。
つまりストレスのかかった社会の側から見て初めて「異質」に感じるのであって、極端に言えば「いじめられる側の人物と、街ですれちがっても何とも思わない」と言える。
ここを補完すると、いじめる側に時折起きる犯罪として以下の例がある、
「オタク風人物への恐喝」や「公園の浮浪者狩り」
前回の話と続くのだけれれど、いじめる側の心理は社会的に異端とされている人物(ジャーナリズムが「弱者」とこれを呼ぶのは間違い:後述)に対して行われる。
特に例にあげた人物は「ぱっと見わかりやすい」から選ばれているのであり、これもいじめなるものが「わかりやすい異分子」をトリガーに起きる事と動機は同じ。
@「重要な事は「事実関係として嫌な奴」に対して行われる事はない。これは挑戦や決闘であり、利害関係者同士の個人の問題になるからだ。
「個人の問題ではない」=「いじめの側面」=「社会性の問題」
という構図になる。
そこで、いじめる側の動機が鮮明になる。
いじめで実行行為に及ぶ側の人物は、「何らかの理由で、社会からドロップアウト寸前の人物」が大半で、彼らは「社会の落伍者となるのか?」というストレス下にある、
つまり、いじめられる側の人物とは「明日の我が身の投影」であり、そのくせ「彼らが破綻する事なく社会に存在している事」は、彼らにとって(落伍することにビビッている自分にとって)脅威となる。
間接的にだが、自分達が落伍するストレスにビビッているのに、方やそんな事お構いなしに堂々としている(いじめる側の彼らにはそう見える)のは、「お前は弱いな」と宣告されているようなもので(これが前回の話の「比較強者論」)、「くやしい」とか「イライラする」とか「憎い」とか「自分の落伍の可能性から逃げるためにも異分子を消し去りたい」とか彼らは考える。
特に浮浪者への暴力は、「俺達の方が強い(俺達はそうならない)」事を確認するために行われていて、深層心理は「お前ららんか怖くない」だと考えていい。
つまり、いじめる側こそ最も「社会」とか「普通」とかの社会性の脅迫(強迫)下にあって、(感じる必要も無い)強い劣等感にも似た感情(ストレス)を持っている事を表している。
@社会に適応できないと「悪く言われる」=「面白くない」
学校などを卒業して社会に出ると、そういった動機の大半が消えるのは(暴力的傾向に依存して、その流れを受けて悪質化するのは、二次的な現象で、動機そのものは変質している)背景の社会の濃度が下がるからだ。
しかし、このタイプの人物の「虚勢を張る(怖そうな格好やブランド志向)」と言ってもいい言動がその後も続く事は、なんとなく想像してもらえるだろう。
そして重要な事はこの「自分は落伍するかもしれない」という心理は主観的なもので「現実その社会での評価はどのくらい?」に全く関係ないところだ。
当該者にとって「よくできなきゃ、ちゃんとできなきゃ」が背景にあると心理的には(反動がつくので)「一番でなければ落伍」であり、現実の成績が“中の上”なんて事には全く意味が無い。
先日の事件で言うなら、いじめられる側の爆発は、上記のいじめる側といじめられる側の逆転現象で、その動機は同一線上になる。『感じているストレスは同じ』だからだ
家族の因果関係が深いのは「社会性の原型」であるところで、社会全体が緩やかな社会(農耕以前の原始的自給自足世界)であれば、相対的にその(家族)影響力も後退する。
ここが難しい、
いいも悪いも、共同幻想なるものは「常識」や「秩序」の源泉で、これ無しに社会を平和的に運営するのは猛烈にコストもかかりリスクも伴う(警察国家)。
続きを読む
2005年06月22日
2005年06月16日
爆発事件を精神分析する
事件の背景は「無口を原因とするイジメ」となっている。
そこでそもそもイジメなるものを精神分析すると
イジメってぐらいだから、背景には母集団となる群れが無くちゃならないのであって、クラスや会社組織等の複数の人間の社会が存在しない事にはこれは発生しない(差別も同じ構造)。
で、イジメの動機だが、母集団の側から言えば「これまでが“そうであったような”予想の範囲内の構成員への排他性」であって、人体における免疫系の動きにも似ている。
つまり「異分子」の排除が目的になる、
しかし同じクラスだの会社だので、主体的に「いちぬけた」と言えない状況だと(なので、ドロップアウトしフリースクールって手段は最も有効)構造的にそれから逃れられない。
この「異分子」として排除される雰囲気って何か?
当然「異分子」でも尊敬を集め歓迎されるケースもある
「オリンピックに行った」「登山家だ」「芸能人だ」「プロの棋士だ」「プログラムの開発をしている」「イラストレイターだ」等々
これを「社会的に成功している人」と、捕らえるのは大間違いで、「異分子が社会的に認知されると、その人は普通じゃないのだから(異分子なので)、これを肯定するために社会の側は、自分達がそうではない立場から考えると、成功者と認定して、自分達がそうではない事から身を守るために、この人物を別格(この人は違う)と棚上げするしかなく、結果構造的にこの人物を尊敬せざるおえなくなる」って事。
この背景に「素の状態で尊敬しているのではない」という本音があるので、ホリエモンやノムラ、小沢のような引き倒し的転換は常にあり、有名人のゴシップが人気があるのは不思議な事では無い。
有名人が引き倒されるのはイジメとは呼ばれない、何故なら彼らが比較強者だからだ。
しかし、構造はイジメと全く同じ。
実はこれ簡単な話で、集団や社会を形成する事を肯定的に取るなら、必然的に個人主義的異質性は(母集団への批判性として影響力を持つので)その脅威である。
爆発物を投げた彼は、無口だった。
無口であることをからかい笑いものにしたいという動機は、何処にあるのか?それは集団を形成することは個々人全員にとってストレスであり、なんらかの「持ち出し」や「それなりの無理」をして、場を盛り上げたり、面白くない話に笑ったりなんて事が裏にあるんであって、それができるのは「そうするもんじゃない?」(これ秩序ではない)というなんとなくの合意(共同幻想)があるからで、集団の個々人はこの「そうするもんじゃない?」という雰囲気の脅迫(強迫)下にある。
そこから覗くと「個人的事情で、それを無視する言動」は、特権階級的振る舞いになる。
つまり、イジメられている側とは『比較強者』である、
で「なんで?」から始まり
それに誠意ある答え(=自己紹介「なんでかって言うと」の明快な答え)が無いと、この問いかけを愚弄されたと感じるので、それがからかいにエスカレートしても、母集団はむしろこのからかいに共感する。
大問題なのは「イジメ」の対象者が「なんでかって言うと」がわからず悩んでいる事で、かと言って彼の人生や、彼の家庭環境を知る由も無い母集団ににとって、それは理解しがたい謎でしかない。継続する謎は母集団のストレスを増大させ、母集団の中でもストレス限界の低い(この人物もかなり「無理をしている」から、そうなるのであってこの人物にも悩みがある証明)から、過激なイジメに発展する。
母集団としては、無意識にこの攻撃に共感しているので「いき過ぎだな?」を止めることは出来ない。
(今回の事件では「僕のせいだ」と、当時の彼への「からかい」を臨床心理士に泣きながら話をしている生徒がいるのは事実)
何故なら薄々母集団の合意はイジメへの共感である事を感づいているからで、当然「これはいき過ぎだ」との行動は、意識的にも「全員を敵に回す恐怖」として感じられる。
@母集団の過半数が「いき過ぎだ」と思っていてもだ、
そして重要な事は、彼が爆発物によって内在するマグマのような(無口が原因で表現できない“自分”って奴を)爆発させた事で、自己紹介が出来ない事は「彼にとっての悩み」に違いなかったワケだ。
集団なるものを無理に形成しない事は、既に規定路線で、社会の構成員を要請するための学校なる存在は、会社組織でも今日日集団の社会性等というものより個々人独自の判断を要請されているというのに乖離していて、
学校なる組織はどちらかといえば、左翼が多く大企業等に反旗を翻す立場だろうに一向にこの集団を組織する事を批判しない。(日の丸君が代なんぞが争点じゃないだろうに時代錯誤も甚だしい)左翼も社会主義とかって社会性偏重の思想があるせいかも知れない。
今日、「それはともかく俺はこうしよう」という自立性は、それこそ「イジメる側にもイジメられる側にも」重要なテーマで、社会秩序の退廃は、底の浅い共同幻想とこれへの根本的は母集団のストレス認知が原因(息抜きと称してバカ騒ぎをしたくなる)で、俺はこう思うという自分が明快なら、自分にとっても損になる社会秩序の退廃など起きない。
学校なるものは、もっとゆるやかな組織であるべきで(相対として個人の自由度は高まる)、彼にも自分を考える時間的余裕があるべきだろう(軍隊じゃないんだからさ)。彼が思春期を迎えて前以上に無口になりふさぎこむようになった事は「彼にとっても無口であること」へのストレスの増大を意味する。
何か特別に配慮して「はいかいいえで答えられるように配慮した」等というトンチンカンな対処(それじゃ「無口でいなさい」と言っているのと同じであるばかりでなく、公的にも「彼は無口な異端者なんだから」と認めたに等しい)をしているようじゃどうにもならない。
今回の事件で、死人が出なかった事は不幸中の幸いで、
この“幸い”を教育関係者は重く見るべきだろう。
彼が怖くなり、二発目のグレネードを投げなかった事は不幸な話の中で、幸いだったのだと思う。
彼には殺意など無かったのだ。
そして彼が比較強者であった証明でもあった。
そこでそもそもイジメなるものを精神分析すると
イジメってぐらいだから、背景には母集団となる群れが無くちゃならないのであって、クラスや会社組織等の複数の人間の社会が存在しない事にはこれは発生しない(差別も同じ構造)。
で、イジメの動機だが、母集団の側から言えば「これまでが“そうであったような”予想の範囲内の構成員への排他性」であって、人体における免疫系の動きにも似ている。
つまり「異分子」の排除が目的になる、
しかし同じクラスだの会社だので、主体的に「いちぬけた」と言えない状況だと(なので、ドロップアウトしフリースクールって手段は最も有効)構造的にそれから逃れられない。
この「異分子」として排除される雰囲気って何か?
当然「異分子」でも尊敬を集め歓迎されるケースもある
「オリンピックに行った」「登山家だ」「芸能人だ」「プロの棋士だ」「プログラムの開発をしている」「イラストレイターだ」等々
これを「社会的に成功している人」と、捕らえるのは大間違いで、「異分子が社会的に認知されると、その人は普通じゃないのだから(異分子なので)、これを肯定するために社会の側は、自分達がそうではない立場から考えると、成功者と認定して、自分達がそうではない事から身を守るために、この人物を別格(この人は違う)と棚上げするしかなく、結果構造的にこの人物を尊敬せざるおえなくなる」って事。
この背景に「素の状態で尊敬しているのではない」という本音があるので、ホリエモンやノムラ、小沢のような引き倒し的転換は常にあり、有名人のゴシップが人気があるのは不思議な事では無い。
有名人が引き倒されるのはイジメとは呼ばれない、何故なら彼らが比較強者だからだ。
しかし、構造はイジメと全く同じ。
実はこれ簡単な話で、集団や社会を形成する事を肯定的に取るなら、必然的に個人主義的異質性は(母集団への批判性として影響力を持つので)その脅威である。
爆発物を投げた彼は、無口だった。
無口であることをからかい笑いものにしたいという動機は、何処にあるのか?それは集団を形成することは個々人全員にとってストレスであり、なんらかの「持ち出し」や「それなりの無理」をして、場を盛り上げたり、面白くない話に笑ったりなんて事が裏にあるんであって、それができるのは「そうするもんじゃない?」(これ秩序ではない)というなんとなくの合意(共同幻想)があるからで、集団の個々人はこの「そうするもんじゃない?」という雰囲気の脅迫(強迫)下にある。
そこから覗くと「個人的事情で、それを無視する言動」は、特権階級的振る舞いになる。
つまり、イジメられている側とは『比較強者』である、
で「なんで?」から始まり
それに誠意ある答え(=自己紹介「なんでかって言うと」の明快な答え)が無いと、この問いかけを愚弄されたと感じるので、それがからかいにエスカレートしても、母集団はむしろこのからかいに共感する。
大問題なのは「イジメ」の対象者が「なんでかって言うと」がわからず悩んでいる事で、かと言って彼の人生や、彼の家庭環境を知る由も無い母集団ににとって、それは理解しがたい謎でしかない。継続する謎は母集団のストレスを増大させ、母集団の中でもストレス限界の低い(この人物もかなり「無理をしている」から、そうなるのであってこの人物にも悩みがある証明)から、過激なイジメに発展する。
母集団としては、無意識にこの攻撃に共感しているので「いき過ぎだな?」を止めることは出来ない。
(今回の事件では「僕のせいだ」と、当時の彼への「からかい」を臨床心理士に泣きながら話をしている生徒がいるのは事実)
何故なら薄々母集団の合意はイジメへの共感である事を感づいているからで、当然「これはいき過ぎだ」との行動は、意識的にも「全員を敵に回す恐怖」として感じられる。
@母集団の過半数が「いき過ぎだ」と思っていてもだ、
そして重要な事は、彼が爆発物によって内在するマグマのような(無口が原因で表現できない“自分”って奴を)爆発させた事で、自己紹介が出来ない事は「彼にとっての悩み」に違いなかったワケだ。
集団なるものを無理に形成しない事は、既に規定路線で、社会の構成員を要請するための学校なる存在は、会社組織でも今日日集団の社会性等というものより個々人独自の判断を要請されているというのに乖離していて、
学校なる組織はどちらかといえば、左翼が多く大企業等に反旗を翻す立場だろうに一向にこの集団を組織する事を批判しない。(日の丸君が代なんぞが争点じゃないだろうに時代錯誤も甚だしい)左翼も社会主義とかって社会性偏重の思想があるせいかも知れない。
今日、「それはともかく俺はこうしよう」という自立性は、それこそ「イジメる側にもイジメられる側にも」重要なテーマで、社会秩序の退廃は、底の浅い共同幻想とこれへの根本的は母集団のストレス認知が原因(息抜きと称してバカ騒ぎをしたくなる)で、俺はこう思うという自分が明快なら、自分にとっても損になる社会秩序の退廃など起きない。
学校なるものは、もっとゆるやかな組織であるべきで(相対として個人の自由度は高まる)、彼にも自分を考える時間的余裕があるべきだろう(軍隊じゃないんだからさ)。彼が思春期を迎えて前以上に無口になりふさぎこむようになった事は「彼にとっても無口であること」へのストレスの増大を意味する。
何か特別に配慮して「はいかいいえで答えられるように配慮した」等というトンチンカンな対処(それじゃ「無口でいなさい」と言っているのと同じであるばかりでなく、公的にも「彼は無口な異端者なんだから」と認めたに等しい)をしているようじゃどうにもならない。
今回の事件で、死人が出なかった事は不幸中の幸いで、
この“幸い”を教育関係者は重く見るべきだろう。
彼が怖くなり、二発目のグレネードを投げなかった事は不幸な話の中で、幸いだったのだと思う。
彼には殺意など無かったのだ。
そして彼が比較強者であった証明でもあった。
2005年06月08日
精神分析的視点(2)家族を考える
これも誤解されやすい。
「家族」ってのは社会が定義する雛型に倣うもので、左翼の活動家の家庭が「夫婦別姓」や「子供の人権(日の丸・君が代)」等で特徴的な行動や判断をする事で、その方向性には異論は無いだろう、根底は“保守”になる。(アメリカ大統領戦なんかでもよくポイントになるが「家族」なる言葉自体が「保守」を意図している)
つまり「家族的」=「保守的」を意味するので、本来背景となる伝統や名誉、地域社会などとの関係の延長として普遍的なイメージが付随してこないと、家族は「最小単位の孤立したバンド(band:群れ)」に過ぎず「常識なるもから乖離する」。
常識っていうのは、多数に支持されている「超自我の裏付け」なのだから(たとえそれが方便に過ぎなくても)こいつが後退すると精神的な不安(ストレス)は相対的に増大する。
別段自分が保守派だとか、そういう話をしているのではない。
常識であるとか普通であるとかに連なるには、それを担保する背景が無い事には「しょうがない」んであって、どうにもこうにも“常識(リアリティー)”というより「何が良くて何が悪い」みたいな紋切り型の表面的道徳になりがちになる。
まさか「俺(性別はどちらでもいい)について来い」ぐらいの勢いの人物が「この家はこの信念の元に!」と号令を挙げれば別になるが、そうだとしてもそれは「何か信念のあるベンチャーな家」であって“常識的な家では無い”だろう。
つまり、文明化で「家族」なるものが漂流し孤立するということは、常識の母数が衰退することで(この辺が「最近の社会はマナーが悪くなった」とかの原因になる)、家族に所属する個々人にとっても「そうそう居心地のいいものではない」
「育児不安」「家庭内暴力」「家庭崩壊(学級崩壊の前段)」「精神的葛藤の発生要因」「地域の問題家族」、、、、。
現実どうなのかって、このカウンターとして「個性化」等の旗を公は振ったワケだが(西洋はEUなどの新手の「保守化実験」を試みている)、絵に描いたような個性なんてものが忽然と生まれる筈も無い。
元来動物の群れとして、かなり有力なコアは「母子関係」ぐらいなもので、後は環境が変わればどうにでも変化可能なんであって、文明化による家族の孤立化は避けられない状況下にある。
精神分析的には「共同幻想の担い手としての家族が、弱体化することは自明」って事で(共和党じゃないが「再建しよう」とかの意味では無く)、これにいかに対処するのかって話は深刻なテーマのひとつになっている。続きを読む
「家族」ってのは社会が定義する雛型に倣うもので、左翼の活動家の家庭が「夫婦別姓」や「子供の人権(日の丸・君が代)」等で特徴的な行動や判断をする事で、その方向性には異論は無いだろう、根底は“保守”になる。(アメリカ大統領戦なんかでもよくポイントになるが「家族」なる言葉自体が「保守」を意図している)
つまり「家族的」=「保守的」を意味するので、本来背景となる伝統や名誉、地域社会などとの関係の延長として普遍的なイメージが付随してこないと、家族は「最小単位の孤立したバンド(band:群れ)」に過ぎず「常識なるもから乖離する」。
常識っていうのは、多数に支持されている「超自我の裏付け」なのだから(たとえそれが方便に過ぎなくても)こいつが後退すると精神的な不安(ストレス)は相対的に増大する。
別段自分が保守派だとか、そういう話をしているのではない。
常識であるとか普通であるとかに連なるには、それを担保する背景が無い事には「しょうがない」んであって、どうにもこうにも“常識(リアリティー)”というより「何が良くて何が悪い」みたいな紋切り型の表面的道徳になりがちになる。
まさか「俺(性別はどちらでもいい)について来い」ぐらいの勢いの人物が「この家はこの信念の元に!」と号令を挙げれば別になるが、そうだとしてもそれは「何か信念のあるベンチャーな家」であって“常識的な家では無い”だろう。
つまり、文明化で「家族」なるものが漂流し孤立するということは、常識の母数が衰退することで(この辺が「最近の社会はマナーが悪くなった」とかの原因になる)、家族に所属する個々人にとっても「そうそう居心地のいいものではない」
「育児不安」「家庭内暴力」「家庭崩壊(学級崩壊の前段)」「精神的葛藤の発生要因」「地域の問題家族」、、、、。
現実どうなのかって、このカウンターとして「個性化」等の旗を公は振ったワケだが(西洋はEUなどの新手の「保守化実験」を試みている)、絵に描いたような個性なんてものが忽然と生まれる筈も無い。
元来動物の群れとして、かなり有力なコアは「母子関係」ぐらいなもので、後は環境が変わればどうにでも変化可能なんであって、文明化による家族の孤立化は避けられない状況下にある。
精神分析的には「共同幻想の担い手としての家族が、弱体化することは自明」って事で(共和党じゃないが「再建しよう」とかの意味では無く)、これにいかに対処するのかって話は深刻なテーマのひとつになっている。続きを読む
2005年06月03日
精神分析的視点(1)社会を考える。
平場の論議で有名なところに「国が違うと常識が変わる」ってのがある。もっぱら精神分析的には常識なるものは“共同幻想”として認識されるのだが、若干誤解が発生しやすいのでそこのところを補完したい。
“共同幻想”等と言うといかにも「いいかげんな妄想」のように解釈されがちなので、ここから説明したい。
先ず幻想ってな、どういう事かというと、生き物は各々それぞれの生存に必要な情報をそれぞれの方法で認知するのだけれど、その情報なるものも個々に実存しているのであって、情報として(食べるものとか、食べられないものとか)の認識されたもの主観的イメージでしかないので、これを実存(real)との対比関係から幻想(vision、fantasyでは無い)と呼んでいるのであって、妄想(delusion)との違いは現実との接点になる。
つまり、「そのvisionは合理的か」=現実的(reality )
だから『的』なんであって=実存(real)ではない。
ので
「幻想」なワケだ、
この現実的なるものは「そりゃそうだねー」な認定か説得力がないといかんわけで、そ れ を 多数の認識で担保するから“共同幻想”と呼ぶ、ふんでそんな話から連想されるのは「常識」の事なので、常識=共同幻想と考える。
当然国や地域が変われば、社会の合意形成が違うのだから常識も違うってな事になる。
原始(伝統)宗教が持つ役割というのは、普遍(絶対とはならないので「的」)的雰囲気であって、「キリスト教圏」のような半端な数ではない「常識の共有」をもたらした。
そこの意味は、つまり「適当に地域の賢人や風習で決まってしまっていいの?」という話で「より詰めた論議があるのだから、この常識で統合した方が良くない?(誤解による戦争などが無くなる)」とか「学ぶという贅沢が行われる、貴族階級だけが常識を持つのはアレじゃない?」という改革から来ている。
(結局その名の元で随分戦争もあるのだが、そこはこの話の趣旨と違うから脇へ置く)。
で、その共同幻想というのは保守的思想から言えば、伝統として既に死んでいる先祖を含む延べ人数によって担保されるので、どえらい多数決で決まっていて、この話で想像つくと思うのだけれど「現世で生きている人数では、多数決を覆せない」から、構造的に保守としての体系になる。
あまりにも硬性のvisionなので、「幻じゃネーでしょ」と感じられるかも知れないけれど(それこそ「常識」なんですから、違和感があったら大変)、ともかく「それは実存そのもの」の事では無いので、精神分析的には“共同幻想”となる、
これに対して「実存そのものは何ぞや」とアプローチするが、絵画や写真、舞踊や映画、文学になる。「=現実的ではない」
「的であっちゃいけない」→「常に実存としての現実を求める」なワケ、ある意味「なんじゃこれ?なプログレッシブな作品がrealであり、常識が幻想」なんていう話が見かけ上矛盾して見えるので、精神分析なるもは常に誤解されやすい。
精神分析的には社会なるものは「“共同幻想”の合理性を担保する母数」に過ぎなく、何か取り立てて意味のあるものでは無い。(伝統や文化、思想としての視点は違いますよそりゃ)
“共同幻想”等と言うといかにも「いいかげんな妄想」のように解釈されがちなので、ここから説明したい。
先ず幻想ってな、どういう事かというと、生き物は各々それぞれの生存に必要な情報をそれぞれの方法で認知するのだけれど、その情報なるものも個々に実存しているのであって、情報として(食べるものとか、食べられないものとか)の認識されたもの主観的イメージでしかないので、これを実存(real)との対比関係から幻想(vision、fantasyでは無い)と呼んでいるのであって、妄想(delusion)との違いは現実との接点になる。
つまり、「そのvisionは合理的か」=現実的(reality )
だから『的』なんであって=実存(real)ではない。
ので
「幻想」なワケだ、
この現実的なるものは「そりゃそうだねー」な認定か説得力がないといかんわけで、そ れ を 多数の認識で担保するから“共同幻想”と呼ぶ、ふんでそんな話から連想されるのは「常識」の事なので、常識=共同幻想と考える。
当然国や地域が変われば、社会の合意形成が違うのだから常識も違うってな事になる。
原始(伝統)宗教が持つ役割というのは、普遍(絶対とはならないので「的」)的雰囲気であって、「キリスト教圏」のような半端な数ではない「常識の共有」をもたらした。
そこの意味は、つまり「適当に地域の賢人や風習で決まってしまっていいの?」という話で「より詰めた論議があるのだから、この常識で統合した方が良くない?(誤解による戦争などが無くなる)」とか「学ぶという贅沢が行われる、貴族階級だけが常識を持つのはアレじゃない?」という改革から来ている。
(結局その名の元で随分戦争もあるのだが、そこはこの話の趣旨と違うから脇へ置く)。
で、その共同幻想というのは保守的思想から言えば、伝統として既に死んでいる先祖を含む延べ人数によって担保されるので、どえらい多数決で決まっていて、この話で想像つくと思うのだけれど「現世で生きている人数では、多数決を覆せない」から、構造的に保守としての体系になる。
あまりにも硬性のvisionなので、「幻じゃネーでしょ」と感じられるかも知れないけれど(それこそ「常識」なんですから、違和感があったら大変)、ともかく「それは実存そのもの」の事では無いので、精神分析的には“共同幻想”となる、
これに対して「実存そのものは何ぞや」とアプローチするが、絵画や写真、舞踊や映画、文学になる。「=現実的ではない」
「的であっちゃいけない」→「常に実存としての現実を求める」なワケ、ある意味「なんじゃこれ?なプログレッシブな作品がrealであり、常識が幻想」なんていう話が見かけ上矛盾して見えるので、精神分析なるもは常に誤解されやすい。
精神分析的には社会なるものは「“共同幻想”の合理性を担保する母数」に過ぎなく、何か取り立てて意味のあるものでは無い。(伝統や文化、思想としての視点は違いますよそりゃ)
タグ:メンタル
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