堀江氏の年齢層に顕著な傾向って実は前々から感じていて、この世代特有の雰囲気ってのがある。
「勝ち組み負け組み」ってな、一時期経済界で流行った言葉を世代として認知している層で、おそらくこれって一番働き盛りで世相に敏感だって部分から来ていると思う。
実際この世代の仕事振りは凄まじくて、高度経済成長時のサラリーマンよりハードに仕事しているのじゃないだろうか?
バブル崩壊以降、成功の夢ってのはビルゲイツを頂点にしたITってカテゴリーでは生き残り、この特徴的な構造が古い団塊の世代から見ると「勝ち組み負け組み」に見えた。ニワトリと卵の話じゃないが、この「勝ち組み負け組み」論はもっぱらこの若い世代に受け入れられ、IT系の会社の隆盛に加速度がつくことになる。
実際それは経済のあるべき姿なのだろうけれど、『勝ち組み負け組み世代』が、今時代をリードしている。そして、世代間闘争のように、プロ野球参入⇒テレビ媒体への進出(フジが狙いなのは明らかだから)、が表面化しているってワケだ、
今使っているこのSeesaaブログの機能拡張もハイスピードで、この『勝ち組み負け組み世代』の持つバイタリティーとスピードの恩恵にあずかっている人は多い。
彼らに対する一部の反発は(意外とライブドア支持に団塊世代が多いのは、「勝ち組み負け組み」ってな言葉の言い出しっぺだからじゃないか)、そのスピードと破天荒な言動に対してで、その仕事振りに対してではない。ヤフー楽天ライブドア無くして、今の日本のITが語れないのは事実で、「堀江が個人的に嫌いだ」とか「外資に日本は食い物にされている(日本の金融が力不足だって意味だもの)」とかは瑣末な事だと思う。
ライブドアがどうのとか、ヤフーがフジへの覇権を握るのかとかの話は別にして、ここ10年放送メディアにおける放送内容に2chじゃないがネットの世界からは強い反発があった、フジが買収を阻止しただけで「フジが勝った」なんて話しにはならないだろう。
「勝ち組み負け組み」なんて、デフレ下における成長産業を見た風景の事で、現実に勝ったり負けたりするのでは無いのだから、誰が勝ったとかの論議自体ナンセンスなんだけれど、
『勝ち組み負け組み世代』から見ると今回の買収劇は「勝つか負けるかの大勝負」で、堀江氏の「命がけの勝負」って言葉に嘘は無いと思う。
2005年03月27日
2005年03月12日
『記憶』(4)そして「自分の」の“再考”
自意識は、精神分析的には現実(今)の当事者で、記憶の総体である自我全体からみると、その一部でしかない。
見方を変えると自意識は、自分の肖像を見つめる客観であり、どこか他人のような存在でもある、実際「俺は何を考えているのか」なんて台詞があるのだから、「自分が何を考えているのかすらわからないのが自意識」って事になる。
そこで
「自分の気持ち」とか、
「自分の考え」とか、
その言葉を語る“私=自意識”は、自分自身の客観的な当事者であると言えて、
「我思う故に我在り」という言葉の真意は、「自分の考えとか、気持ちではなく、現実の私はこう思う」という自意識の独立的思考の事で、だからこそ「ここに我実存セリ」となる。
後者は確信犯的自意識の独立(過去からの)であり、前者は従属的な「自分の代弁者」である。つまりその「自分」が、社会的存在として実存する事(社会の一員としての自覚でもいい)が、自我にとって自然で、何らかの原因で自意識が「独立して考える主体」としての経験が長いとむしろ後者の方が自然になる。
どっちがどっちって事ではない。
政治的に見ると、前者が保守、後者がリベラル(左翼的意味ではなく)になるが、政治の世界でもこの両者のバランスで世界は現実へ適応している。
自意識の当事者としての在り方ってのが、自我の構造としては大きな「成り立ちの違い」で、精神分析的には所謂「性格」なるものは些細なキャラクターに過ぎない。
見方を変えると自意識は、自分の肖像を見つめる客観であり、どこか他人のような存在でもある、実際「俺は何を考えているのか」なんて台詞があるのだから、「自分が何を考えているのかすらわからないのが自意識」って事になる。
そこで
「自分の気持ち」とか、
「自分の考え」とか、
その言葉を語る“私=自意識”は、自分自身の客観的な当事者であると言えて、
「我思う故に我在り」という言葉の真意は、「自分の考えとか、気持ちではなく、現実の私はこう思う」という自意識の独立的思考の事で、だからこそ「ここに我実存セリ」となる。
後者は確信犯的自意識の独立(過去からの)であり、前者は従属的な「自分の代弁者」である。つまりその「自分」が、社会的存在として実存する事(社会の一員としての自覚でもいい)が、自我にとって自然で、何らかの原因で自意識が「独立して考える主体」としての経験が長いとむしろ後者の方が自然になる。
どっちがどっちって事ではない。
政治的に見ると、前者が保守、後者がリベラル(左翼的意味ではなく)になるが、政治の世界でもこの両者のバランスで世界は現実へ適応している。
自意識の当事者としての在り方ってのが、自我の構造としては大きな「成り立ちの違い」で、精神分析的には所謂「性格」なるものは些細なキャラクターに過ぎない。