2005年02月26日

『記憶』(4)そして「自分の」

記憶に登場する人物のなかで最も延べ登場回数が多いのは「自分」、なんたってこの「自分」が体験したものや感じた事が記憶なのだから。その関わりが薄い話でも「自分」が見え隠れしない記憶は無い。アイデェンティティーは、結果としての自我の形を表すことだと言えるが、記憶はその『根拠』として関わる事になる。

「僕はこんな人間さ」
「嘘付けよお前、一度だってそんなだった事はないぜ」

ま、よくある会話だが、このギャップは記憶の解釈差だと考えてもいい。

○友人が仕事のトラブルで行き詰まっていたので僕は「こうしたほうがいんじゃない?」とアドヴァイスした。

○俺は仕事の壁にあたり、ひとり打開策を考えていた。お調子者のアイツがのこのこやってきて「こうしたほうがいんじゃない?」と、考えの邪魔なんだよ、「ああ、そうかもな」と言った。

上記の両者の記憶は随分と違う。
事実関係は『友人同士が、仕事上の会話をした』に過ぎないが、その記憶の重要な部分はそれぞれの“印象”によっている。
一体どちらが正しいのか?
記憶に正しいも正しくないいも無い、違いがあるだけだ。
この違いを決定付けるのは事実関係の背景事情の解釈(仕事に行き詰まっているのか?越えなければならない仕事の壁を自力で越えようとしているのか?)になるので、大事な事は『情報』になる。

『記憶と情報』
ドグマ(教義)のように、そう簡単に解釈の変更が難しい(たいがいこの記憶の解釈論争になると、言い合いになる)記憶に対して、情報に抵抗のある人はいない。
そもそも情報って何か?
これ「資料」のようなもので、特徴は「自分の関わりが無い」事で、『妙に客観的な話』とでも言えばいいか、、
そしてこの情報次第で記憶の解釈は逆転する


「バカ言ってんじゃねーよ、あの話で営業サイドからもOK出てんの!課長がなんか物足りないからもう一度やんなおせって言ってんだよ」

楽観論と悲観論が同じ事にあり得る訳だから、如何に『解釈』で話のストーリーが変わってしまうのか、実は大概の人が経験で知ってるのであって、この両者の違いを分けるのは『解釈のアイデア』であり、これは情報と同じで『自分とかかわりの薄い妙に客観的な話』に違いが無い。

アイデンティテイーと『妙に客観的な話』
これが同時に存在していないと、自我は不安定になる。
皮肉な事に『自分の意見』という言葉を良く考えてみると、あえて「自分の」と付け加えていないといけない事に気がつくだろうか?

意味ワカランかな・・・

『意見』は必ずしも自分のものではない場合もある言葉だから、「自分の意見」として、「自分の」をくっつけなければならない。そしてそれは単独で『意見』でなければならない。
『気持ち』にも同じ事が言える、「自分の気持ち」

◆客観性が後退するって事は、自意識が過剰であるを意味し、この時「意見」や「気持ち」と認識されているものは「自分の」では無くなる。

余計に意味ワカランかな・・・
もうちょい考えて、次回わかりやすい話にならんか書き直してみようと思う。
タグ:メンタル
posted by kagewari at 00:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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所謂臨床系の言うところの行動療法ってほど堅い話ではありませんが期待感あるアプローチだと思います
自我と時間』参照




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