ある時、生まれて初めて屋外で気持ちのいい太陽の日差しを浴びたとする。
「ああ、あれは気持ちよかった」
記憶の機能のもっぱらのとこは、ここだろう。
(その反対が、不快だったり、危険だったりする事がおきない様に忘れない。)
その時の「想い」も同時に再現される。だからこそ、その想いが現実から乖離すると、不快な事なのに追体験を期待するように離れない記憶もある。
この「想い」の部分が解釈になる。
「自分がこうしていれば」
と想えば、現実の解釈は「そうじゃなければ幸せな記憶」なのだから幸せな記憶の追体験を求めるように記憶は離れなくなる。
ノスタルジーと呼ぶのが正しいのかわからないが、
『現実はどうだったのか』というドキュメンタリーな視点を持つことは、「想いの行き過ぎ」を、あるべきところへ落ち着かせるのであって、ドキュメンタリー作品が、第三者的であるとこから、当事者である「自分だけ」で、この解釈を進めるのは難しくなる。
それがいい、という意味ではなく「単独者」の定義からわかる事は、自分の第三者化的な可能性で、
記憶の当事者でなくなる時「こうなのかもしれない」と発見する事も多く、それは想う事というより考える事であり、ノスタルジーではなく「現実の今の」としての還元で、記憶は常に形を変える。