記憶に登場する人物のなかで最も延べ登場回数が多いのは「自分」、なんたってこの「自分」が体験したものや感じた事が記憶なのだから。その関わりが薄い話でも「自分」が見え隠れしない記憶は無い。アイデェンティティーは、結果としての自我の形を表すことだと言えるが、記憶はその『根拠』として関わる事になる。
「僕はこんな人間さ」
「嘘付けよお前、一度だってそんなだった事はないぜ」
ま、よくある会話だが、このギャップは記憶の解釈差だと考えてもいい。
○友人が仕事のトラブルで行き詰まっていたので僕は「こうしたほうがいんじゃない?」とアドヴァイスした。
○俺は仕事の壁にあたり、ひとり打開策を考えていた。お調子者のアイツがのこのこやってきて「こうしたほうがいんじゃない?」と、考えの邪魔なんだよ、「ああ、そうかもな」と言った。
上記の両者の記憶は随分と違う。
事実関係は『友人同士が、仕事上の会話をした』に過ぎないが、その記憶の重要な部分はそれぞれの“印象”によっている。
一体どちらが正しいのか?
記憶に正しいも正しくないいも無い、違いがあるだけだ。
この違いを決定付けるのは事実関係の背景事情の解釈(仕事に行き詰まっているのか?越えなければならない仕事の壁を自力で越えようとしているのか?)になるので、大事な事は『情報』になる。
『記憶と情報』
ドグマ(教義)のように、そう簡単に解釈の変更が難しい(たいがいこの記憶の解釈論争になると、言い合いになる)記憶に対して、情報に抵抗のある人はいない。
そもそも情報って何か?
これ「資料」のようなもので、特徴は「自分の関わりが無い」事で、『妙に客観的な話』とでも言えばいいか、、
そしてこの情報次第で記憶の解釈は逆転する
「バカ言ってんじゃねーよ、あの話で営業サイドからもOK出てんの!課長がなんか物足りないからもう一度やんなおせって言ってんだよ」
楽観論と悲観論が同じ事にあり得る訳だから、如何に『解釈』で話のストーリーが変わってしまうのか、実は大概の人が経験で知ってるのであって、この両者の違いを分けるのは『解釈のアイデア』であり、これは情報と同じで『自分とかかわりの薄い妙に客観的な話』に違いが無い。
アイデンティテイーと『妙に客観的な話』
これが同時に存在していないと、自我は不安定になる。
皮肉な事に『自分の意見』という言葉を良く考えてみると、あえて「自分の」と付け加えていないといけない事に気がつくだろうか?
意味ワカランかな・・・
『意見』は必ずしも自分のものではない場合もある言葉だから、「自分の意見」として、「自分の」をくっつけなければならない。そしてそれは単独で『意見』でなければならない。
『気持ち』にも同じ事が言える、「自分の気持ち」
◆客観性が後退するって事は、自意識が過剰であるを意味し、この時「意見」や「気持ち」と認識されているものは「自分の」では無くなる。
余計に意味ワカランかな・・・
もうちょい考えて、次回わかりやすい話にならんか書き直してみようと思う。
2005年02月26日
2005年02月19日
『記憶』(3)既にわかっている事への障壁
何回か触れた事のある話を『記憶』という切り口で考えてみる。
よく「あーなんだっけなーあれだよあれ」と、思い出せないことがある、しかも思い出せないのにそれが「どういうことか知っている」、
これ忘れているのではない。
思い出せない理由は何か?
確かについうっかり「“たいした事ではないレッテル”を貼った(意外とこれには自覚がある)」等という誤算もあるが、実際には「なんかが邪魔をして思い出せない感じ」を感じる事も多い。
記憶は記憶そのものだけの存在ではない。
『記憶』というのは、その記憶のファイルの仕分けや階層構造のロジック込みの存在で(だから記憶は大幅に変わる可能性を常に持っている)、『意識されないロジック』或いは『パッシヴな意識=被る』つまり、無意識の総体。
これに対してフラッシュメモリーや自前のマジのメモ帳よろしく『今を司る自我』。
対立するものではないけれど、常に合理的に融和している筈も無い。時おり既にわかっている事への障壁として記憶構造が干渉するように、自我と無意識には多数の矛盾(或いは対立概念)が混在している。『不快じゃなけりゃ多面性』『不快な時には、葛藤構造(矛盾の幅が広すぎる。注:これはもっぱら記憶サイドの事実関係が“印象の強さ”が原因で、解釈として事実から乖離しているため。)』であり、記憶にはそんな指向性がある。
よく「あーなんだっけなーあれだよあれ」と、思い出せないことがある、しかも思い出せないのにそれが「どういうことか知っている」、
これ忘れているのではない。
思い出せない理由は何か?
確かについうっかり「“たいした事ではないレッテル”を貼った(意外とこれには自覚がある)」等という誤算もあるが、実際には「なんかが邪魔をして思い出せない感じ」を感じる事も多い。
記憶は記憶そのものだけの存在ではない。
『記憶』というのは、その記憶のファイルの仕分けや階層構造のロジック込みの存在で(だから記憶は大幅に変わる可能性を常に持っている)、『意識されないロジック』或いは『パッシヴな意識=被る』つまり、無意識の総体。
これに対してフラッシュメモリーや自前のマジのメモ帳よろしく『今を司る自我』。
対立するものではないけれど、常に合理的に融和している筈も無い。時おり既にわかっている事への障壁として記憶構造が干渉するように、自我と無意識には多数の矛盾(或いは対立概念)が混在している。『不快じゃなけりゃ多面性』『不快な時には、葛藤構造(矛盾の幅が広すぎる。注:これはもっぱら記憶サイドの事実関係が“印象の強さ”が原因で、解釈として事実から乖離しているため。)』であり、記憶にはそんな指向性がある。
タグ:メンタル
2005年02月12日
『記憶』(2)ノスタルジー
ある時、生まれて初めて屋外で気持ちのいい太陽の日差しを浴びたとする。
「ああ、あれは気持ちよかった」
記憶の機能のもっぱらのとこは、ここだろう。
(その反対が、不快だったり、危険だったりする事がおきない様に忘れない。)
その時の「想い」も同時に再現される。だからこそ、その想いが現実から乖離すると、不快な事なのに追体験を期待するように離れない記憶もある。
この「想い」の部分が解釈になる。
「自分がこうしていれば」
と想えば、現実の解釈は「そうじゃなければ幸せな記憶」なのだから幸せな記憶の追体験を求めるように記憶は離れなくなる。
ノスタルジーと呼ぶのが正しいのかわからないが、
『現実はどうだったのか』というドキュメンタリーな視点を持つことは、「想いの行き過ぎ」を、あるべきところへ落ち着かせるのであって、ドキュメンタリー作品が、第三者的であるとこから、当事者である「自分だけ」で、この解釈を進めるのは難しくなる。
それがいい、という意味ではなく「単独者」の定義からわかる事は、自分の第三者化的な可能性で、
記憶の当事者でなくなる時「こうなのかもしれない」と発見する事も多く、それは想う事というより考える事であり、ノスタルジーではなく「現実の今の」としての還元で、記憶は常に形を変える。
「ああ、あれは気持ちよかった」
記憶の機能のもっぱらのとこは、ここだろう。
(その反対が、不快だったり、危険だったりする事がおきない様に忘れない。)
その時の「想い」も同時に再現される。だからこそ、その想いが現実から乖離すると、不快な事なのに追体験を期待するように離れない記憶もある。
この「想い」の部分が解釈になる。
「自分がこうしていれば」
と想えば、現実の解釈は「そうじゃなければ幸せな記憶」なのだから幸せな記憶の追体験を求めるように記憶は離れなくなる。
ノスタルジーと呼ぶのが正しいのかわからないが、
『現実はどうだったのか』というドキュメンタリーな視点を持つことは、「想いの行き過ぎ」を、あるべきところへ落ち着かせるのであって、ドキュメンタリー作品が、第三者的であるとこから、当事者である「自分だけ」で、この解釈を進めるのは難しくなる。
それがいい、という意味ではなく「単独者」の定義からわかる事は、自分の第三者化的な可能性で、
記憶の当事者でなくなる時「こうなのかもしれない」と発見する事も多く、それは想う事というより考える事であり、ノスタルジーではなく「現実の今の」としての還元で、記憶は常に形を変える。
2005年02月09日
写真について
実際仕事で写真を撮る事が多い。子供の頃から写真を撮るのは好きだったが、俺の育った環境はお金持ちとはおおよそ言えないものだったので、「カメラはオヤジのもの」だった。
中学の修学旅行の時だっただろうか、当時出だしの自動焦点のコンパクトカメラを貰ったのだが、「現像屋に出す」ってとこが引っかかった、子供の頃から単独行動が主体の俺にはそういうことが妙に気になって、カメラは押入れの置くとか、物入れの置くに置きっぱなしになっていき、モバイルPCを買ってHPをキックオフする段になってデジカメを買うわけだ。
こいつが性に合っていた、
その場で絵を確かめられる上に、現像の必要が無い。少々ドジ分でも画像ソフトで修正できるって技は、カメラの扱いに関してド素人の俺にも都合がいい、それからというもの仕事でバシバシ写真を撮る毎日なのだが、自分を撮ったり写ってしまう事が今でも苦手だ(物心ついてからというもの、自分の写っている写真はほとんど無い)。
アメリカンネイティブじゃやないけれど、どうも自分の写真を撮るの事に抵抗がある。その違和感は、おそらく「本人と自我の乖離(自分の声を録音した時のあの違和感の事)」なんだと思う。自我で考える事の多い俺には、自我自体の主体性が意識の上ではどうしてもいつもの自分で、、
まあ、自分の客観象は人から見たときの自分で、殊更自分で確かめてどうするって気もするのだが、この“苦手は”生涯ついて回る事は間違いない。
中学の修学旅行の時だっただろうか、当時出だしの自動焦点のコンパクトカメラを貰ったのだが、「現像屋に出す」ってとこが引っかかった、子供の頃から単独行動が主体の俺にはそういうことが妙に気になって、カメラは押入れの置くとか、物入れの置くに置きっぱなしになっていき、モバイルPCを買ってHPをキックオフする段になってデジカメを買うわけだ。
こいつが性に合っていた、
その場で絵を確かめられる上に、現像の必要が無い。少々ドジ分でも画像ソフトで修正できるって技は、カメラの扱いに関してド素人の俺にも都合がいい、それからというもの仕事でバシバシ写真を撮る毎日なのだが、自分を撮ったり写ってしまう事が今でも苦手だ(物心ついてからというもの、自分の写っている写真はほとんど無い)。
アメリカンネイティブじゃやないけれど、どうも自分の写真を撮るの事に抵抗がある。その違和感は、おそらく「本人と自我の乖離(自分の声を録音した時のあの違和感の事)」なんだと思う。自我で考える事の多い俺には、自我自体の主体性が意識の上ではどうしてもいつもの自分で、、
まあ、自分の客観象は人から見たときの自分で、殊更自分で確かめてどうするって気もするのだが、この“苦手は”生涯ついて回る事は間違いない。
2005年02月02日
『記憶』(1)関連性について
よく記憶術なんて言葉を耳にするが、だいたいのものは連想法のようだ。実際脳の中でも、図柄なんかは象徴的な形に分類されてそれぞれにインデックスがつくように管理されているので、象徴的に分類されないものは「気にとまらない=憶えられない」。
言葉の世界から見ると「解釈(答えではない)の無い記憶は憶えられない」か、
その反対に強く象徴的に分類されていたり、その連想として関連事項に処理されているものは、「気になる=よく憶えている」ので、記憶は『ある特定の傾向で連なる』。
この特定の傾向が、人格と呼ばれたりアイデェンティティーになったりするのだが、これを証明する簡単な方法がある。
“絵を描く”事だ、
ことほどさように世の中には「絵の上手い人と、絵の下手な人」がいる(歌の上手い人ってのも同ジャンルの可能性があるけれど、、)これはものを見る時に「記号的な分解処理系」か「印象系」かの違いが、個々にある事を証明していて(下手な人の典型は絵が二次元になる。これは立体的な分解ではなく、平面図形の象徴化で脳内処理が行われているからで、本人意図的に下手に描こうとしているのではない。ピカソのキュービズムやらなんやらは「意図的にモノの認識を自意識的に変革させようとしている」と言ってもいいのかもしれない)、似た例で歴史の年号を「鳴くよウグイス、、(何故かこの記憶法に俺は子供の時から拒絶反応があった)」のような印象を連想させて憶える方法があったりする。
記憶は“そのまんま”ではない。
言葉の世界から見ると「解釈(答えではない)の無い記憶は憶えられない」か、
その反対に強く象徴的に分類されていたり、その連想として関連事項に処理されているものは、「気になる=よく憶えている」ので、記憶は『ある特定の傾向で連なる』。
この特定の傾向が、人格と呼ばれたりアイデェンティティーになったりするのだが、これを証明する簡単な方法がある。
“絵を描く”事だ、
ことほどさように世の中には「絵の上手い人と、絵の下手な人」がいる(歌の上手い人ってのも同ジャンルの可能性があるけれど、、)これはものを見る時に「記号的な分解処理系」か「印象系」かの違いが、個々にある事を証明していて(下手な人の典型は絵が二次元になる。これは立体的な分解ではなく、平面図形の象徴化で脳内処理が行われているからで、本人意図的に下手に描こうとしているのではない。ピカソのキュービズムやらなんやらは「意図的にモノの認識を自意識的に変革させようとしている」と言ってもいいのかもしれない)、似た例で歴史の年号を「鳴くよウグイス、、(何故かこの記憶法に俺は子供の時から拒絶反応があった)」のような印象を連想させて憶える方法があったりする。
記憶は“そのまんま”ではない。
タグ:メンタル
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