自分にもアリな事の選択にも関わらず
そして自分で思いついてもよさそうな事なのに
思いつかないばかりに行われない選択
↑
この可能性をどう考えるのか?そしてその思いつかない理由は?
自我の選択は、無限には違いないが、体力や能力の限界がある。そして最も大きい限界は「快不快の限界」で、たいがいの事はOKでもこれだけはちょっと、、というものもある。
この「これだけはちょっと、、」が、思考の世界にも被っていて、昔のカソリックじゃないけれど、「想像しただけでも罪だろうか?」という世界。一件特異に見えるがそうではない。
何か失敗をしでかしたとする。実はこれは「誰にも話していない目的があって、それを狙って逆効果になった」としよう、しかし周辺は目に見える失敗の部分だけしか気がつかないのであり、、つまり、本人だけそれ以上(行為の現実スケール以上)に凹むワケだ。
自我には、現実と想像や思惑にそれほど明快な『境界が無い』。
この逆説が、人の思い付きを「そうそう、その手があったのかー!」になる。考えるときにもルートというものがあり(これも「流れ」)それ自体連想には違いが無い。
つまり「時間ぴったりに→急ぐならタクシー→そりゃ無茶だ電車→乗り継ぎは?、、」この思考には、「遅刻は許されない」が背理にあり、この時その「時間ぴったり」の意味の大きさを考える前に「約束の時間に」という言葉で想像力が拘束される事はむしろ頻繁で、ちっとも以外では無い。
(思考の階層順位のような話)
■そんな時
「いんだそんなの、たいした事じゃないんだから。今電話して無理無理って言っとけばいんじゃん?」の一言で
「そう、そうだな、そういえばそうかも知れんなぁー、ハーッハッハ」
この友人らしき人物の助言は、彼が「約束の時間」というキーワードにさして拘りがないから現実の認知や判断が自由だったので、時間に急がなければと思っていた人物がスルーできないキーワードから自由だったから思いついたのであり、
その結論だけ聞く分には「時間に急がなければと思っていた人物」の「約束の時間(強迫的連想キー)」は刺激を受けない。
(思考のルート自体すっ飛ばされるため)
↓
何故なら「時間に自由な友人が、時間に急がなければと思っていた人物の拘り(実態は無意識的連想)をバイパスしたから」であり、
「時間に急がなければと思っていた人物」も、「約束の時間に」にという思考ルートに拘束されたに過ぎず(一種の強迫モデル)、「時間ぴったりに事象(直面するストレス)と「約束の時間」という言葉には直接リンクするような関係性は無い(あくまで無意識的連想)」からだ。
↑
(自意識マターじゃないので)
なので「時間に自由な友人」の投げかけが局面をひっくり返す鍵にもなる。
これをどう考えるのか?
(自意識マターにおける論理構造と違って、強迫系の連想による結果論的認識は脆く関連性が直接リンクするような形になっていない→無意識である事そのものが固定化の鍵であって”〜には及ばない的消極的聖域化”→ここが強迫意識に対してロジカルな関与により破壊的”投げかけ”が可能であることを証明している)
或いは”本音のサルベージ”について、その可能性をどう考えるか?