錯誤行為がまるで認知されずに多発していたとした時、これに自我は気が付く事は不可能になる。こんな事(錯誤行為の多発)は在り得るのだろうか?
あり得る。
『性格』という言葉や、『神経質』という言葉は良く認知されている。
実際の話、「自我の思うままにならないが、ある傾向の行動が継続していて『性格』として認知されたり、自分自身で緊張を予測して自在にコントロールする人はいない」
完全に錯誤行為ではないが、そういった例(どちらかと言えば自立的な行動ではなく、無意識の連想リードの行動)はとても一般的で、
「ひとのこころは無意識が先行する」と言える。
これは、自然界の話を引き合いに出すとわかりやすい。
言語によるロジックを持たない動物の行動は、前例主義の『連想』によるロジックで活動しているので、知的な無意識と意識の区別はほとんど無く、日常行動は常に無意識の連想がリードする。ストレスによる反応も、本能によって現実と結びついていて、もっぱら言語的存在である自我を持つ人間と、こころの在り様に差が生まれている。
一度言語的な解釈をすることなくストレートに現実と結びついているいるといえるのだが、これは主体的な事では無く、種としての長い歴史によって完成された社会的普遍性に担保されると言っていい。
だからこそ、自立的な現実の解釈(言語化)をする人間と関わる事で、その他の種である動物の本能は容易に壊れ、ペット化が起きる(よくなつくという意味では無く)、保護された鳥獣を自然に帰すことの難しさは、ニュースやTV番組でご存知の通り。
つまり言い換えると、本能とは「共同現実」
進化の過程で古い脳が野生を司っているのは良く知られていることで、言語化あっての抑圧であり、これが無意識と自我を別けていて、人の記憶が生命誕生ではなく、自我誕生である事は共通する認識だと言える。無意識には言語以前の幼児期に形成された多数のロジックがあり、これが「三つ子の魂」とかと呼ばれる。
無意識にはいつでも、「まるで共同現実」のように意識をリードするポテンシャルがある。その無意識に強い連想性のある「行動と現実の結びつき」がある時、このロジックは意識をいつもリードする。
つまり錯誤行為における「ついうっかり」という言葉の意味は、「もっと高度に情報を自覚的に認識しないといけないのに、ボケっとして(無意識にまかせた)しまった」であり、そもそも意識分野と無意識の関係は「意識的である時には、無意識にこっちが優先だから」と情報を送らないといけない。
これまた自分自身に情報を送るとかの話なので、一見矛盾しているようだが、「なるほどそうなんだ!」なんて感じで結ばれていく自我は、そんな言葉の集合体であって、自我が表に出て意志を持つとき、これを「集中力」なんて呼ぶ。
つまり、集中していないと、自我は休眠中で無意識が経験的な連想で稼動するワケで、これが「自然な状態」って事になる。
よく考えてもらいたいのだけれど、「集中する」と「拘る」と「囚われる」は、テーマが違うだけで、外から見ると同じ精神状態になってる。皮肉な事に「悩む」も意識の集中に他ならない。「意識に対応を迫られている」と感じられるこの現象は「これは意識がやんなきゃならん事だジャンルが発生したと時に発動する」当然無意識を通過して「そっちの話」と振り向けられているのであって、ここで「集中する」となる。
つまりボケっとしてる状態は何だろう?
とりとめのない事や、自分の得意な事(個人的にはとりとめのない事になってる)、こんな時は「ボケっとしていていい時間」であって、 自 我 は ノーストレス だ。
当然本人にはこれ「楽」と感じられる。
@てことは、自我と無意識の役割分担が矛盾していない時、人は楽なワケだ。(予告無く自我が無意識に呼び出される回数が少ないので)
(■重要な事だが、とりめのない事ばかりの人は「気まま」なので常に楽だ。これを「お気楽」と呼ぶ。)
逆さまに考えてみる、
自我と矛盾する無意識があるとき、その分野の無意識的行動は自我から見ると「常に錯誤行為」である。
そして錯誤行為と認知されない、とりとめのない事や得意分野の記憶や体験の形で、無数に(錯誤行為による)既成概念が山積みされ、自我は後追いでそれを「自分の性格」と呼ばざる負えない。通常こういうタイプの「自称自分の性格」は他人の評価と一致しない。
再び錯誤行為を考える。
錯誤行為とは、「既にうっかりしちゃダメなんだよな〜」という自我の認識ができあがっているのに「ついうっかり」(疲れなどで)ボケッとした瞬間に起きる無意識リードの行動で(自我の連想ミスである勘違いではない)、変な話だが、無意識のロジックがある事をしみじみ自我が感じる瞬間でもある。
自我と無意識の矛盾による、自覚されない錯誤行為の山は、「擬似トラウマ」になる事が多い。
つづく