2004年10月17日

「決定的な体験」にまつわる複数の可能性(4)

自我と無意識のアンバランスな抑圧を維持するため、山のような錯誤行為による擬似トラウマは『必要とされている』。

再び自己嫌悪の成り立ちを考えたい。
わかりやすくするためにあえて乱暴に話をすすめる。
超自我は、親のイメージの化身で、他人(客観)
自我は人格全体を意味するともいえるが、自意識を中心とするいつでも覚醒可能(思い出したり、考えたりできる全体)なロジック(主観)
無意識は『主観登場以前からの、知的な非言語意識(乃至記憶)』。

■自我から見ると無意識は自分を取り巻く環境に錯覚され、超自我は自分を拘束する他人(客観)に錯覚される。しかしそれは全て『自分』である。

そして、この錯覚は投影にそのままの形で影響する。投影ってのは簡単に言えばシュミレーション。「こうじゃないのかな〜」「お店がこうだったらどうしよっかな〜」などとする想像、実際こいつが映画なんかを面白くさせる感情移入のプロセスでもあるのだけれど、超自我・自意識・無意識の関連に強い矛盾があると
『自分自身とか思えないほど他人っぽい=投影されてる自覚が起きない=自分の鏡像を他者の実存と完全に取り違えたりする(妙に心象風景や、動機まで詳しい部分まで「聞いてきたかのように」他人の印象を決め付けてしまっている)』

上司の言葉に、極端な反応をしたり
友人に脅迫的に迫られている気がしたり
周りの雰囲気がとてもストレスだったり
権威者に認めてもらうために、自分の道徳心を容易に超えたり
友人関係などの小世界が、まるで家族関係のように役割性をもったり
無意識が自意識を刺激し続けている不快感を大衆から感じてしまったり
道徳的な過激集団が救いに見えたり

この投影される「自我構造」に基づいて擬似トラウマが起きる。言い換えると錯誤行為は無意識のロジックの投影現象で、『自意識との親和性が少なければ少ないほど外に投影されやすい』。

「いじめに悩む少年が、ついうっかり、繁華街を歩いてしまう」「満員電車が苦手なのに『ついうっかりいつも遅刻して』極満員電車で通勤している」「食事の時に緊張するのに、ついうっかり友達を自分から外食に誘ってしまう」「友人達が話しているたわいもない話が、最悪の悪口に聞こえる」「家族の買い物動向が、意味ありげに見える」
これらは、少なからず誰にでもあることだが、擬似トラウマの特徴は、『総じて不快だ』というとこに特徴があって、「俺ってバカだな〜」で済むレべルを超えると、その結果や体験から『決定的な体験をした』と誤解をされる。些細な事が『決定的な不快記憶』にすりかわってしまう原因は、抑圧構造(超自我、自意識、無意識の区分け)が不安定にならないように戒める代表例(まるで宗教の教義専門用語)に利用するためで、意識的では無く(強い超自我に自意識が拘束されている気分「被る」によって)「酷い目にあっている」と認定される。

多かれ少なかれ社会と関わる時に「いやぁ俺が出すぎた事をしたかな」という自分の関与を疑う気持ちが残るものだが、擬似トラウマは「100%自分は関係無い=誰かの意図的な不快体験だ」と認知されている。複数の人間が関わっているのに、こういう認識(「100%自分は関係無い」)はあり得ないのであって、実際にこういった被害がマジに合ったときには戦いが選択される、「不快記憶ではなく大喧嘩の記憶になっいるの筈なのに、擬似トラウマは「被る」による認定なので、もっぱらその話は受身の構造になっていて、話のオチが喧嘩にならない。」

結果、そのエピソードを聞いた友人の反応は「なんで〜」になる。
その状況を回避する行動を「なんで」とれなかったのか?(辞める、逃げる、戦う)
この話が続くと二次的ストレスとなり、「相手の肩を持つのか、お前もあいつらの仲間か」ととんでもない事実誤認となり、擬似トラウマが選択的(擬似トラウマ話を何故か必死に守る)である事を証明しているのだが、ここでも本人はそれ(錯誤行為で選択してしまっていること)に気が付かない。

事件に巻き込まれてしまったり、ほんとうに被害にあってしまう「不注意」が「不注意ではなく錯誤行為である」としたら、選択される次の体験は不快である事が既に予定されていることになり、厭世感に包まれてしまう。

俺は、これが鬱の正体ではないかと思っている。

「世の中何があるのかわからない、いいことも悪い事もあるだろさ」「人の考えは様々でいろんな事情があるんだろう」「不快な事からは、とっとと逃げた方がいい」「『嫌な予感』は避けたほうがいい」あまりにも一般的だが、非常に重要な事で、気楽になるきっかけは、一時的には錯誤行為を自由にさせない事で、積極的に楽に楽〜にを選択する事が重要で、
何せ脅迫性(超自我と自意識、無意識が不安定)が強いのだから「自分から進んで厳しく辛い事(或いは努力)」というキーワードの連想で「勘違いで不快選択」を錯覚してしまう事を予測する事もできる。
「怠け者になろう」ぐらいでちょうどいい。
posted by kagewari at 13:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月15日

「決定的な体験」にまつわる複数の可能性の補足というとこから先日の集団自殺を考える。

報道は徐々に「カルトか?」な雰囲気になっている。
つまり、自殺をするにあたって参加者を募り「本気の人(首謀者の主婦の言葉)」と語る事は既に「時限で共同幻想を完成させようとしている」のであって、唯の一人も自殺する『意志』の無い証明だと言える。
首謀者の主婦は、17歳の家出少年と関係し彼もまた他の集団自殺についていき、主婦が「帰ってきなさい」と諭したのだが、集団自殺で死に至っている。(首謀者の主婦は、この少年の葬儀に出席)

大問題だが、「本気の人だよね」の認定は、集団による共同幻想で補完されていて、個人の意志では無い。
自分には自殺というトラウマが相応しいと、前提が出来あがってしまい、これに(まるで錯誤行為が続くように)追随する現実を後から完遂しようとしている。
「自分は本気の人だ」
本来自我とは、自分の意思の結果を記憶として積み上げ、「自分」と認定する。これが脅迫によると強い不快感を伴い、又擬似トラウマの時には「自分の嫌な所」として認定されたり「嫌な記憶」として自分を語る上で外せなくなる。ところが擬似トラウマの特徴は、無意識に求められているところであり、抑圧が限界に来て適当な不快行動(擬似トラウマ)を呼び出せなくなると、無意識のロジックは自意識に近くなるので(抑圧が壊れかける)「〜たい」として欲望と同じ部分に自我に認識される。この時自意識と無意識は基本的に矛盾しているので、反動形成(無意識の思惑と違ったエキセントリックな想像を認識させる事でバランスをとる事)によって欲望化が行われる。
(今後話す予定だが、この無意識と自意識のやりとりには「反動形成」「オプション(次の選択)」「オルタナ(同じ意味だろう的選択)」があって、後者に近づくほど「アイデア」と呼ばれる)

抑圧を安定させる擬似トラウマを、結果的に自意識に選択させてしまう。
この部分は非常に誤解されやすいので、説明もとても難しい。
「自分は自殺者だ」という前提で、首謀者の主婦は「何もいいことがないのに」と語っているのであり、
「何もいいことがない」として、世界を批判している事に気が付いていない。
人生の不確定要素は、他人や自然時代社会、、、様々で、「決まっている」のだとしたら、それは自分がそう選択しているのと同義で、これは「擬似トラウマ禍」の原因を外(社会)に振り向けるための理由に他ならない。
『擬似トラウマは必要とされている』
社会を否定する理由として、

この理由がちゃんとある人が「本気の人」となる。完全に主客が逆転している。
「何もいいことが無い」を決まっていると予見する事は不可能で、そう無意識に脅迫されているのであって、「いい事がない」のでは無い。「いい事がない」になってしまっているのであって、これは自らの無意識の問題になる。「擬似トラウマ」が、世界の自分への仕打ちと誤解されている。

非常にセンシティブな事なのだが、不快な記憶には同じ事実でも考え方や解釈で事実関係は変わる要素があり、不快な記憶が無意識の錯誤行為で選ばれてるとしたら、自意識の経験には「微細な過失が非常に多く含まれていて(本人にはそれに全く気が付かない)」と言えて、その一部は「道徳的な批判として他者に振り向けられる」、構造は「自己嫌悪」であり、「自己嫌悪」と「被る(自己嫌悪に不可欠のロジック)」の関係が一体化し「世界に嫌悪される自分=当然自分を自意識では嫌悪できないので=いい事などなく酷い目にあう(嫌悪されているから)」この要素が、社会を巻き込んで空想されてしまう。
(「被る」という要素が自意識の主客を容易に転倒させる)

なんと言えばいのだろうか、「こころの構造を、現実に(他者を使い)展開している」に近い、実力行使で抑圧を守るために。
重要なポイントは(感情を伴う事実認知は)錯誤行為によって「思わされている」のであって、「素の状態の人」は特に何を思うでなし、のんびりしているという事だと思う。
「完全に被害だこりゃ」な時には戦いが選択されるからだ、

とにかく、集団自殺をめぐる報道は変化するだろう、これにヒューマニスト役(視聴率目当ての、いい人ジャンルのコメンテーター)が「辛い事が、、」等とコメントするとむしろそのムーブメントを煽ってしまう。
posted by kagewari at 23:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月10日

「決定的な体験」にまつわる複数の可能性(3)

歓迎できない自分の特徴(あえて性格と呼ばない)がある。
これ、意味不明のなんとかセミナーが大流行したり、女性誌のコスメ特集で「〜〜な感じにっ」等として、「どうにかなんないか」と自我は悪戦苦闘する。

そして、結局自分はこんな人間だ、等と思い知らされる記憶は山とある、
「事実だもんな〜」とこの『現実』は、自我にダメを押そうとするのだが、この「無自覚な記憶の山」が「擬似トラウマ」と言える。
本物のトラウマは偶然によるのだから「薄々自分の無意識的傾向」を感じられないため、ショック症状を伴う事になるのだが、構造は同じだ。

カウンセリングの場では「テスティング」という表現が使われる事がある。これはカウンセラーや親など、至近の権威にダメを押させる仕掛け(企み)の事で、「○○してみてよ」「ほらやっぱり」を成功させるための難題などを指す、このテスティングの狙いも「擬似トラウマ」を積み上げて、抑圧構造を強固にしようとする意志なのだが、ここである結論が導き出される。

何度も反復しながら、『実績』が必要なぐらい、抑圧は不完全だ。

ある意味、無意識と自意識が分かれているぐらいなので、抑圧(表現は違うが、あえてわかりやすくしたい)はむしろ自然であり、抑圧して無意識にあるべきものは無意識にあった方が効率がいいのであり、毎度自意識登場だと疲れてしまう。

つまり、矛盾を抱えているロジックが無理に抑圧されると、二次的なストレスが生まれ、抑圧が壊れないようにとの新たな「お題」が自我に突きつけられるようなストレスを発現する、これの対処に負われるように自我は歓迎できない自分の特徴を事実としていく。
大事なポイントだが、自我と無意識のアンバランスな抑圧を維持するため、山のような錯誤行為による擬似トラウマは『必要とされている』。

つづく
posted by kagewari at 17:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月08日

経済学と心理学ってよく似ている

今の経済問題の中心テーマは、実は福祉『年金問題』
ところがこれ経済産業省の所轄じゃない、そっちの方が大問題なのかも知れないが、ともかく将来の所得見積もりが現在の貯蓄性向だの投資の内容を決めてしまうので、エライ大事な経済政策なのだが、年金問題は厚生労働省。
心理学も「現在の心象風景」を論議するのか、「動的な(予測込みの)心象風景」を論議するのかで随分違ってくる。
ミクロとマクロの話と同じように、各論に過ぎると話がなんだかワケわからなくなる。
俺が心理学で何度も「流れ」を重視しているのは、そんなとこで、カウンセリングの有り方とか、精神分析のスタンスは随分違ってくる。
喩えは悪いけれど、監査法人が半期の決算を分析するのか、100年の決算を分析するのかで、そりゃ報告書の内容は「どえらく違う」ので(違っちゃうのも問題だけど)、その辺を「こういうことか」ってまとめるには流れ重視って結論になる。

星占いじゃないが、空の配置がその時には止まって見えるんだが、地球も惑星も回っちゃってるので、実はグルグル位置が動いているのと同じ。見る人の時間の感覚が違っていたら見える景色も変わってくる。
止まった物を見て「こうだ」という人が間違っているとか言う意味では無い。星占いが「現在の配置は」とか「次にはこう移動するので」とか言うとこが面白いのであって、経済学でも(なにせ画期的な政策って実はあんまりない)ケインズが面白がられたのは、儲け狙いの投資ではなく、流れを良くする為に国が経済政策として作為的に投資をするってとこに尽きる。

心理学で言うなら、「今こうだから」を突き詰めてもあまり意味は無い。ここをこう考えると全体の構造はどっち向きに不安定(無理な形が元なら「復元性」)になり、次の構造が予見できるのかって話だから、、なんていうか俺の分析のポイントは、間違え探しでもないし、その原因となる投影や象徴化の事実関係をゴリゴリとやる事でも無い、それはかえって現在の対応当事者自我に「それはこうでしょ」と話を継続する事が多くなるって事でもある。

言い換えると、「コンサルタント的側面が無いカウンセリングには意味が無いって」俺は思う。
posted by kagewari at 22:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月07日

「決定的な体験」にまつわる複数の可能性(2)、(何故か編集再構築で上書きされてしまって書き直しですっ!)

錯誤行為がまるで認知されずに多発していたとした時、これに自我は気が付く事は不可能になる。こんな事(錯誤行為の多発)は在り得るのだろうか?

あり得る。
『性格』という言葉や、『神経質』という言葉は良く認知されている。
実際の話、「自我の思うままにならないが、ある傾向の行動が継続していて『性格』として認知されたり、自分自身で緊張を予測して自在にコントロールする人はいない」
完全に錯誤行為ではないが、そういった例(どちらかと言えば自立的な行動ではなく、無意識の連想リードの行動)はとても一般的で、
「ひとのこころは無意識が先行する」と言える。

これは、自然界の話を引き合いに出すとわかりやすい。
言語によるロジックを持たない動物の行動は、前例主義の『連想』によるロジックで活動しているので、知的な無意識と意識の区別はほとんど無く、日常行動は常に無意識の連想がリードする。ストレスによる反応も、本能によって現実と結びついていて、もっぱら言語的存在である自我を持つ人間と、こころの在り様に差が生まれている。
一度言語的な解釈をすることなくストレートに現実と結びついているいるといえるのだが、これは主体的な事では無く、種としての長い歴史によって完成された社会的普遍性に担保されると言っていい。
だからこそ、自立的な現実の解釈(言語化)をする人間と関わる事で、その他の種である動物の本能は容易に壊れ、ペット化が起きる(よくなつくという意味では無く)、保護された鳥獣を自然に帰すことの難しさは、ニュースやTV番組でご存知の通り。

つまり言い換えると、本能とは「共同現実」

進化の過程で古い脳が野生を司っているのは良く知られていることで、言語化あっての抑圧であり、これが無意識と自我を別けていて、人の記憶が生命誕生ではなく、自我誕生である事は共通する認識だと言える。無意識には言語以前の幼児期に形成された多数のロジックがあり、これが「三つ子の魂」とかと呼ばれる。

無意識にはいつでも、「まるで共同現実」のように意識をリードするポテンシャルがある。その無意識に強い連想性のある「行動と現実の結びつき」がある時、このロジックは意識をいつもリードする。

つまり錯誤行為における「ついうっかり」という言葉の意味は、「もっと高度に情報を自覚的に認識しないといけないのに、ボケっとして(無意識にまかせた)しまった」であり、そもそも意識分野と無意識の関係は「意識的である時には、無意識にこっちが優先だから」と情報を送らないといけない。
これまた自分自身に情報を送るとかの話なので、一見矛盾しているようだが、「なるほどそうなんだ!」なんて感じで結ばれていく自我は、そんな言葉の集合体であって、自我が表に出て意志を持つとき、これを「集中力」なんて呼ぶ。

つまり、集中していないと、自我は休眠中で無意識が経験的な連想で稼動するワケで、これが「自然な状態」って事になる。
よく考えてもらいたいのだけれど、「集中する」と「拘る」と「囚われる」は、テーマが違うだけで、外から見ると同じ精神状態になってる。皮肉な事に「悩む」も意識の集中に他ならない。「意識に対応を迫られている」と感じられるこの現象は「これは意識がやんなきゃならん事だジャンルが発生したと時に発動する」当然無意識を通過して「そっちの話」と振り向けられているのであって、ここで「集中する」となる。

つまりボケっとしてる状態は何だろう?

とりとめのない事や、自分の得意な事(個人的にはとりとめのない事になってる)、こんな時は「ボケっとしていていい時間」であって、 自 我 は ノーストレス だ。
当然本人にはこれ「楽」と感じられる。

@てことは、自我と無意識の役割分担が矛盾していない時、人は楽なワケだ。(予告無く自我が無意識に呼び出される回数が少ないので)
(■重要な事だが、とりめのない事ばかりの人は「気まま」なので常に楽だ。これを「お気楽」と呼ぶ。)

逆さまに考えてみる、
自我と矛盾する無意識があるとき、その分野の無意識的行動は自我から見ると「常に錯誤行為」である。
そして錯誤行為と認知されない、とりとめのない事や得意分野の記憶や体験の形で、無数に(錯誤行為による)既成概念が山積みされ、自我は後追いでそれを「自分の性格」と呼ばざる負えない。通常こういうタイプの「自称自分の性格」は他人の評価と一致しない。

再び錯誤行為を考える。
錯誤行為とは、「既にうっかりしちゃダメなんだよな〜」という自我の認識ができあがっているのに「ついうっかり」(疲れなどで)ボケッとした瞬間に起きる無意識リードの行動で(自我の連想ミスである勘違いではない)、変な話だが、無意識のロジックがある事をしみじみ自我が感じる瞬間でもある。

自我と無意識の矛盾による、自覚されない錯誤行為の山は、「擬似トラウマ」になる事が多い。

つづく
posted by kagewari at 21:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月03日

「決定的な体験」にまつわる複数の可能性(1)

錯誤行為(>勘違い>癖)という行動がある。
例えば、
●明日は朝一から取引相手と会議だ、だから前日から用意周到に準備をしておかないと当日はバタバタして時間が無い。
そして当日大事な書類を忘れる。(錯誤行為に近い「物忘れ」)
●明日は朝一から取引相手と会議だ、だから前日から用意周到に準備をしておかないと当日はバタバタして時間が無い。
そしていつもは絶対に間違う筈も無い山手線の乗換えを間違えた。(錯誤行為)

前者は、逃げに近いプレッシャーをストレスに感じる回避行動辺りがいいとこだろうが、後者はまるで違う。
外回りと内回りを間違うのには「乗り換えのロジック○周り版」を(ほとんど習慣化していて意識しなくても動けるようになっている、意識のユニット)GOしなければならない。『重要』という連想が、「重要な会議」ではなく『重要な取引相手(山手線反対方向の)』を誤選択すると、上記のような錯誤行為となる。
この原因は「その時の緊張感が似ていたため(重要だったので)」等が有力になる。自我はいつも「○○だからか何」のように何から何まで(自動車教習所のように)独り言で確認しながら行動選択をしない。最適化が完了すると、オートで流れる自分の判断(経験による同じ繰り返し行動)に任せる事になるので、この間違いに自我が気が付かない事がある。

「次は新大久保、新大久保〜、開くドアは。。」「あっ!」

さして大事でない事で、どっちでも選択が自由な時に、錯誤行為がまるで認知されずに多発していたとした時、これに自我は気が付く事は不可能になる。
こんな事(錯誤行為の多発)は在り得るのだろうか?

つづく
posted by kagewari at 14:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月01日

トラウマ論の再考

共同幻想・超自我・自己嫌悪の話の流れから、改めてトラウマ論に触れたい。ここばかりは、俺の心理学的判断は所謂「いかにも心理学」と若干違う。大きく違う点は「トラウマ」と呼ばれる記憶が『第一次的ではなく、決定的記憶である』という事で、

「トラウマを原因とする障害は、ダイレクトにトラウマが原因では無い」
と、考えている。言葉としては矛盾しているのだが、流れは矛盾していない。
つまりトラウマはトリガーには違いないが、その背理に個人的体験が必ず象徴化されていて、トラウマの働きとは、「抑圧構造を破壊する事によるショックであり、無意識であるが故に誇大なイメージで抑圧されていた不安が、非常に極端な体験にキャッチの関係となってしまい、全く予定外に不安を表面化させてしまう」と考えている。まるでスケールは違うのだが、突然の人事異動を原因とする鬱症状の発症とプロセスは似ている。

そう考える事で、トラウマを原因とする症状の解消が簡単ではない背景を確認できる。何故なら「現実では無い誇大なイメージによる不安が、事故や事件、戦争などの極端な体験により『ほんとだったんだ』と現実化してしまうから」で、実際に不快な記憶として苦しめられるのは、象徴化されている無意識の不安ではなく、トラウマそのものになってしまうので、この構造的な不安を解消させるためには、「トラウマが現実では無い事を立証しなければならない」実際には「確率的に同じ体験は二度無い事」になるのだが、ここで重要なポイントがある。

この説明には「決定的な体験」にまつわる複数の可能性に触れなければならない、ここの話は非常に誤解されやすいので、慎重に話していこうと思う。
posted by kagewari at 18:29 | Comment(2) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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