この辺の話を最近頻繁に取り上げているのだけれど、これは母屋の心理学テキストでも取り上げてる「共同幻想の崩壊」が背景にある。
http://kagewari.cside.com/kage_tex41.htm
http://kagewari.cside.com/kage_tex71.htm
ここでの論旨は、「文明化と共同幻想が反比例の傾向」にあることで、文明化で共同幻想はマスメディアがリードするキャッチコピーへとすり替わって行くと考えている。
正味ドグマ(言い切りの教義)である共同幻想の正当性はどうしても軽薄になるし、実際100年単位でプルーフされてきた共同幻想とは比較にならないので、マスネディアのキャッチコピーは共同幻想とは言えない。
結果、精神的な悩みと、自立的自我の登場は全く同じ環境から生み出される。
言いかえるなら「精神的な悩みと、自立的自我は似た構造をもっている」。
「考える葦である。」
我思う故に我在りというより「悩むが故に」、、
中世でも江戸でもいいんだけれど、当時から「そのケのあるタイプ」の社会不適応話は随分あって、それが小説や詩、絵画等の芸術の根底にあった。これらのモチベーションは「共同幻想に適応しない、自由な自我のストレス」であって、その表現の方法が封建社会下において、芸術系に偏った(その道が叶わない人は酒に溺れるか、「ヤクザ者やカブキ者」の名を受けて、アウトローやアウトサイダーの元祖となった)昔は共同幻想自体の組織率は高く、又普及率も高い上にその拘束力も強かったので、不適応者自体の数がレアであって、その希少性から彼らの芸術的な成功の確率も高かったのだが、現代はその代わりに芸術や芸能言論の市場は急拡大していて職業としてもそれが成立する余地すらある。
「人の自我は全体として均衡する」とも言えるのだが、経済と同じでそこにはタイムラグがあり、又共同幻想の崩壊は家族問題として表面化するの事が多いので、自立的な自我の成立や共同幻想への復帰のプロセスは「精神的な悩み」の過程を踏む事がどうしても多くなる。(当然ナチュボーンの単独者もいるワケで、共同幻想の崩壊がいつも『問題』として表に出るのワケでは無い)
実際実存主義哲学における『単独者』の定義は、この自立的自我とほとんど同じで(俺は精神分析的解釈としては全く同じだと思っている)その全てが非共同幻想とは言えない。なんやかんや共存共栄していくのだし、共同幻想による超自我を前提にした『普通』の選択もマスメディアのキャッチコピーをカウンターカルチャーの出所として多様化するので、世界全体は無秩序にクロースする。
あくまで相対的な均衡がありえるんで、いいとか悪いではない。
しかし、個人の意識がそこまで混沌とすると、フロイドの定義した「エス」そのものになってしまい自我が成立出来なくなる。共同幻想は『正しさらしさ』をリアリティーとして担保する事で成立しているワケだが、自立的自我はその生存意義をリアルで担保する事になる、これが『実存主義』の背景と一致する。
従って、正当性ではなく、自分が生きている現実が自我成立の根拠であり、共同幻想と個人の関係は「個人が『共同幻想における客観的現実』となることで、相互補完の関係となる」。