2004年08月06日

悩みに繋がる難題を意識させる無意識

記憶は統合的ではありません。
よく「カオス」に喩えられるけれど、「食えないもの(ピーマン)」と「お腹が空いた」避ける事はできますが、クロースする部分ではこの無意識は矛盾しています。

こんな散文的な状況はいつもあって、その「出来ない事」なんかが人物のキャラクター(シナリオでいう「枷(カセ)」)だったりします。「乱暴者だが子供には優しい」「インテリだが服装はだらしない」「街で評判の奥様だが料理が苦手」「陸上選手で金メダル候補だが泳げない」「職業軍人だが人を殺さないと誓った」「組織の殺し屋だがカエルが苦手だ」「茶道の先生だが、餡子が嫌いだ」、、、

この散文的な記憶の流れに「事実だけではなく仮説的判断」が深く入りすぎると、この記憶の感情への拘束力はとても強くなり、頻繁に意識されます。

「あの人物に酷い目にあった、それは人種が違うからだ」
後半は憶測です
「○○を食べた、不味かった。私にとってあれは食べ物とはいえない」
後半は仮説であり且つ「私にとって」なので、○○が食べ物であることは疑っていませんから、この判断はドグマ(言い切り)で、意識していないといつも事実(本来食べ物である、いつか食べるだろう)にその判断は覆される可能性があります。

自我とは、「自分自身を守護する覚醒中の意志」ですから、その根本的な立場は「私は」等の一人称で語られる自分の代表者(或いは委任を受けた代理人)となります。この人物「自分」が、「自分が悪いんじゃないか?」という無意識を抱えると困った事になるんです。
「私は」と思う度に、「自分が悪いんじゃないかというドグマ」は、事実(自分は良いも悪いも無く「自分」だ)に覆される可能性(危険性)があります。頻繁に自我に意識させ『悩んでもらわないと、自分が悪いってドグマは実存できない』のです。

自己嫌悪とは、根本的に矛盾するロジックなんです。
posted by kagewari at 23:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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所謂臨床系の言うところの行動療法ってほど堅い話ではありませんが期待感あるアプローチだと思います
自我と時間』参照




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