心理学との関係で言えば、精神分析は「理由の心理学」とも言える。
理由の意味は「ワケ」でもいいし、「動機形成」でもいいし、つまり「何故そう思うのか」の仕組みを無意識(本人には全く自覚が無いか、違う感情で別の認識に変質してる意識)から逆算するのが、精神分析の精神分析足る所以で、
それが個人的な事情に折れてるって事が無いので、(同じ人間だから)「普遍的に心理学の基礎になりうる」と俺は考えている。
特に注意が必要なのは、事の事情よりも「こういった感情は、こういう状況認識の前提条件が無いとあり得ない」という原則的な入り方から『何故そういった無理な感情に繋がるのか』の原因の謎を分析するのが、精神分析の始まりと言える。ここいら辺が、臨床心理系のカウンセリングとの違いだと思ってもらっていい。
『悩みにも動機がある(言葉として矛盾しているけれど)』
何故この矛盾した定義が「アリ」なのかと言えば、受動である悩みの発端を、まるで自覚の無い「無意識」から考えるからで(「何でもかんでも無意識かよ」という批判に答えるには無意識について書かなきゃならんのだけれど、これは改めて書きます。そのさわりだけ話すなら、悩んでいるのは当事者である本人であり、悩む事は本人の利益に反するからそれを自分で望んでするとはあり得ない。何故なら、自分から望んで悩むとすると、それはナルチシズムであったとしても「悩み」と表現される事はあり得ない。本人自身が何故悩むのか不思議だから「悩み」なのであって、このコアは「自覚できない=無意識」という構図になるからで、特に無意識なるものを過大評価しているのでは無く、見たまま考えているだけで、理論と言うより「道徳や倫理による先入観の無い自然な見方に過ぎない」って事。俺が精神分析はツールでそれ自体はたいしたものでは無く、精神分析によって悩みをどう解釈していくのかが「分析としての勝負」だと思っている。)、そのアイデアは、第三者から見ると『悩みは能動的だ』ってとこが発端になっていいる。
何故かって、人の感情はともかくその人物の自我の中で引き起こされていて、外部からその人物の感情を自由に左右する事は不可能だから、
この話は「自分が悪いのか」という反発にほぼ100%直面するのだけれど、改めてそれが「無意識の心理学」である点を理解して欲しい。
てなワケで、次回は無意識と抑圧について考えてみようと思う。