2004年07月06日

最近の話なんですが、「人間関係の捉え方の相違について」

このテーマで、ちょっとした論争になりました。
俺は人と人の関わりを実存だと思っています。話しているのは自我同士ですから、その関わりの曖昧性は実はとても深く、そこをはっきりさせるために、現代社会は属性優先(役名)なワケです。

確かに属性での関わりは効率もよく、語り口調もおのずから決まってくる(上司には敬語)ので自我にも楽と言えば楽なんでしょう。その代わりにその関わりが「属性関係の流れ」に支配されて(この反対が「無礼行」)話が回りくどくなりがちです。

最近「ぶっちゃけ」という表現が広く使われている背景も、そこいら辺へのストレスと思われます。ここには危険性も含まれます、オフレコじゃーないですが、「ぶっちゃけ」として無防備になる準備が出来ていないと、「ちょっと待ってくれ」となるからです。
俺は思うんですが「俺だけ俺だけ」という公開性が自分にだけある的な、雰囲気があれば、この危険性も表に出る事が無いので、いんじゃねーか、、と個人的には考えています。
ともあれ、礼節とフォーマルな取り決めは、文化全体の表現力が問われている部分でもあるので、「ぶっちゃけ」が広まっている背景は、表現へのストレスなのでしょう。

ここが難しいとこです、全く無防備って事は単独の自我にもあまりありえない事なので、一定の基準を自分自身で考えなくちゃならんのですが、雛形になる個人がいるワケでもなしで、コミュニケーションとして言葉はどこまでいけんのかって言うと、難しい面が様々あるように感じます。
実際俳句や詩には、「基準と制約があるからこそ、より豊かだ」という逆説が成立しているからです。
「ぶっちゃけ」が所謂「ためぐち」で終わってしまうと、ストレスの開放は自分の側にだけあって、会話はよりギクシャクするでしょう。

目の前の人物を「役名の人」と勘違いする事だけは、「こりゃどうか」と思いますが、自分がどこまで「俺だけ俺だけ」で話していいものか、、

俺自身まだ決まった話し方を持っていないのです。
posted by kagewari at 00:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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所謂臨床系の言うところの行動療法ってほど堅い話ではありませんが期待感あるアプローチだと思います
自我と時間』参照




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