一人称なら「僕」「私」「私」「あたし」「ウチ」「自分は」「俺」「○○子ね」「NM」、、様々です。いったい誰なんでしょう。
この人物は友人や会社で「○○君」「山田さん」「○○○(名)」「おーい」「君」「あなたね」「ちょっと」「○〜(あだ名)」「○さん(短縮形)」ますますわかりません、いったい誰なんでしょう。
一般に分裂病や、多重人格などという診断は重大な病として受け取られがちですが、普通の生活に適応するって事は、マルチパーソナリティーを必要とするもので、このデスクトップ画面の使い分けは、日常茶飯事です。人格の統一として考えると「俺」「私」に属する部分がマスターになるのでしょうが、みなさん経験があるように「独り言」や「日記」に登場する『自分』はちょっと綺麗事で、調子良かったりします。(ここにナルチシズムの誤解が生まれます)、つまり目に見える統合なんて無いんです。それぞれが根拠があって矛盾していなければいいのであって、存外「自分」は曖昧なものだったりします。
「我思う故に我あり」この哲学の発想は「言い切ればそれが自分(笑)」という隙間狙いのブラックジョークのようなものです。
しかし、この「我思う故に我あり」は重大発見だったのです。
「意外と自分は定義されていなく曖昧だ」の発見だからです。
以前に話した「カツカレー論」ですが、自分の定義なんて大見出しだと腰が引けたり、こっぱずかしいものなので、そこを狙って「我思う故に我あり作戦」を使うわけです。自分は何者?って話をレーゾンテートルとかを持ち出して話すと、なんだかそれだけで深刻になってしまいます(シリアスは違った意味だとも思う)。
つまり「大真面目に、僕は僕であるが故に冷やし中華である」なら立派に『自分』は実存します。
だからこそ、自分の希薄な人は「私も同じ物を」と、そのチャンスから巧みに逃れます。
何を話すのか、その時にどんな心境なのか、そんな些細な所に悩みの脱出口は開かれているともいえるのでしょう。