悩みがあるって事は、単純化すると、悩んでいない状態が視野にある事を意味します。何故なら悩んでいる事がごく自然なら、自分が今悩んでいる事を認識できないからです。悩んでいない事になりますから。
この悩んでいる自覚と、悩んでいない状態が意識下に間違い無くあることをどう考えたらいいのでしょう。「悩む前があったから」でしょうね。この「悩む前」をどう考えるのかが重要なです。心理学的にはこの「悩む前」に、「既に悩みの原因である葛藤が抑圧されている」と考えます。つまり潜在的に悩みを持つ構造は、悩む前からあるって意味です。
悩みを解消したい、と考えた時、そのイメージが「悩む前」であっては悩みの構造がグルグルと一周する事になってしまうからです。リバウンドに近いものですね。
「何故悩む事になったのだろう」を悩み始めた時点ではなく、悩み以前から見つけなければならないって事です。一見違和感があるかもしれませんが、悩んだのは結果であって、その悩みのテーマは外界からの刺激(ストレス)ですが、これだけでは「同じ外界からの刺激を受けた人は同様に悩む」事になり、話が矛盾するんです。「私は何故悩んだのか」だとするとテーマは「私は」になります。
内的欲求も実はストレスで、外界との関係は、この「ストレス発の動機化された意識が、如何に行動に(欲望化され)繋がって代謝されたのか」が、メンタル面のバランスを決定付けます。
つまり、悩みの元になる外界からの刺激は、内的ストレスの代謝活動を妨げる一因に過ぎず、「何々が出来ないと、もう内的ストレスを欲望化する手段が他に無い」という前提が前からないと、悩みには繋がらないんです。
さて自我=エゴの仕事は何でしょう?
他の選択肢(オプション)乃至一気に切り替えて方針転換(オルタナティヴ)の発見と、その実行です。このエゴの仕事が元々阻害される要因が無い限り人は悩まないって事です。
もう一度振り返ってみましょう。
「他の選択が選べない実感」は「他の選択がある事を知っていないと実感できない」
つまり、自分が悩む理由を『知っている』のです。
どうして、自分が悩む理由を知っているのに、真っ先に「対処法」を考えるのでは無く『悩む』のでしょう。
自分が知っている筈の事「選択肢の喪失」が、意識下にのぼってこない理由。
次回はそんなとこから話してみようと思います。