造語があるんです。「エゴセルフ」
随分前から頭にある造語で、「自我=エゴ」を客観的なものだからこそ(自分とか考える自分って案外、自分なんかなーって思うじゃないですか)このエゴを正式に「自分なのだ」と定義付けるイメージの言葉です。
エゴイズムがあんまりイメージの良くない言葉として、知れ渡ってしまったので使いにくいってのが、本音です。
ユニークもそうです、これ「独自」とか、見ようによっては「才能」なんですが(素晴らしいとか、驚くべきとかって意味でもあるから)日本語では「なんか面白おかしい」とかの属性がくっつきます。これは日本では人と違う事の意味が「問題のある」とされる雰囲気に連想される幻想があるからでしょう。俺はこれを逆説で(「逆手に取って」かなぁ)「変わり者」って言葉を最上級の褒め言葉だと勝手に思うようになりました。
これは完全に人格に定着してて、「変わってるねぇ」と聞くと、ちょっと快感なぐらいです。
話を戻しますが、エゴイズムを我侭なイメージで捉えるのは間違いです。普通の人の目に「個人の意識」がはっきりと見えやすいのは『何か利害関係の軋轢や、紛争がある時』なので「あ、エゴだ!」と思うって、そんな流れからきた誤解です。
エゴの出番(自己意識による判断)は歯を磨く時にだって、通勤電車の立ち位置にだってあるんです。焼き鳥屋で何を注文するのかを決めるのもエゴです。
これ、考え方によっては、焼き鳥屋で何を注文するのか?このテーマであなたはレーゾンテートル(存在意義)を問われてるって解釈が可能です。「俺の生き様ってのはよー」なーんて劇画調である必要はありません。「カレー屋で何を頼むのか?」こっちの方が大事なのではないのか、と俺は思います。
俺がずーーっと考えている「エゴセルフ」ってのは、自分自身であることの担当者責任みたいな自覚の事です。漢字のイメージは「独」、独立の「独」単独者の「独」ですね、「毒」みたいでちょっと響きが何なので「一人」を「ひとり」とか「独り」と書く事で表している事もあります。
ユニークとエゴセルフ、実は一体で、目に見えて違う事に意味があるのでは無く「いつも違う選択があるかもしれない自由」に意味があると、俺は考えています。
ここで問題になるのは「規制」ですね、エゴにとっての強敵は「常識」時に「道徳」でしょう。(かといって不道徳って事じゃないですよ)ここの説明がこれまたややこしいんです。
自我の安定ってテーマを随分長く考えてきたけれど、極端や目立つ事では無いってのは間違い無いんです。日本的情緒で言えば「わびさび」で、「こんなのどうかなーっ」て小さいとこに「エゴセルフなアイデェンティティーは隠れている」と思います。
ここに断言します「カツカレー下さい」