掲示板の書き込みだという
各紙の論評を読んで違和感を憶える。
掲示板のやりとりで、直接の人間関係の無さが、「関係性の希薄さ」の視点から論じられている事が多く見られるが、これは全く違うと思う。
おそらく殺害された少女は「友達らしい事」を言ったに違いない。犯行に及んだ少女は一緒にバスケ部に入部し、一緒に辞めたぐらいで、直接の人間関係もあったわけだ、
むしろ掲示板やチャットが醸し出す、より「濃厚な世界が、現実と象徴化された楽園のイメージの判断を狂わせた」というのが、正直なところだろう。つまり、理想化された意心地のいい雰囲気とは(ここは推測になるが)新聞記者の娘という境遇から、殺害された少女に特有のこころに根付いている「優しさ」で、これは殺害された少女のアイデェンティティーに違いないが、「ほんとに仲良し」になった時には、この少女も何処の小6と変わらない少女に過ぎない「友達同士だよね」へと関係を昇華させるのは、ごく自然な事だったろう。
つまり、その書き込みは「まだまだ他人、という関係の人に見せる彼女らしい『優しさ』から『友達らしさ』へと関係が親密な方向へと、変化した書き込みだったのではないか」つまり「夢の楽園から、生生しい友人同士の絆の世界」は犯行に及んだ少女にとって、「自分だけの居場所の崩壊」と認識される。おそらく殺害された少女の文章の前後を含む解釈は、全く書き込んだ本人の意思とは違う意味に解釈されていると思う。
その子は自己主張の苦手な子、と『親』に称されている。
親が自分の娘を『自己主張の苦手な子』と平気で話せる感覚そのものが理解できない、自己主張の出来ない閉塞的な家庭は、少女にとって『全世界』を意味する。
あまりにもいたましい事件で、殺害された少女にかける言葉もないが、彼女の書き込みは、殺害に及んだ少女を中傷するものでなかっただろう事を、俺は確信している。