2004年06月21日

いつか書きます言語論

これが又最大のテーマのひとつで、どうやって書けばいいのかまとまっていないのですが、いつか書かないと自分的にも整理がつきそうにありません。『言語論』

言葉が言霊と呼ばれた所以なんだと思うのですが(陰陽師でいうとこの呪「シュ」も同じ事でしょう)、話し言葉で頭の中の現実認識ってこれ随分変わるワケで、、主語を「私は」と「俺は」を使い分けるだけでも『自分の印象』すら変わってしまいます。

精神分析には象徴化ってアイデアがあって連想の分類なんて(あんまし意味無いと個人的には思います)したりしますが、これも同じアイデアです、「知らない間にキャッチコピー」な感じとても言えばいいのか、、
昔の人が言葉使いをうるさく言った根拠は、言葉と人格の関係を伝統として知っていたからで、人格が不注意におかしな流れに引き込まれないようにする自己防衛でもありました。

これは逆さに捉えると、言葉を選ぶと気分も変わるって事で、なんて言えばいんですかねー、「言葉探しへの期待」は予定しているより大きいと思っています。
posted by kagewari at 23:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

社会現象とコトバの関連性、例えば流行語

「3高」「アッシー君」「ダッコちゃん」「三種の神器(白物家電)」「ノンポリ」「ゲバゲバ」「アプレゲール」「新人類」「受験戦争」「内地(まだ使われてるかも)」「竹の子族(まだいるかも)」「モボ・モガ」「カフェバー」「いつかはクラウン」「一国一城の主」「純喫茶」「歌声喫茶」「七人の○○」「赤い○○」いろんなコトバが社会の一時代を現すので『流行語大賞』なんてのがあるぐらいです。
社会のムードに合わせて人が交わす会話の内容は変質します。『共同幻想』が実存してる証のひとつなんですが、ともかく個人がこのコトバ達の影響を受けないワケはありません。
「アメリカンドリーム」は国是でもあり、形を変えた「富国強兵」とも言えます。
この世間の雰囲気を「洒落のひとつ」として受け流すのか、「聞いたまま」真面目に受け取ってしまうのかで、人の思考は180度変わってしまいます。

ということは
社会で交わされる言葉の雰囲気に「敏感か否か」という違いが有り得るのかって問題ですが、「自分がどう思われているのか」に敏感な状態の時に、この雰囲気に敏感でいられない筈は無いでしょう。
つまり、(それこそ逆説なんですか)「個人的に悩んでいる時ほど、社会的な雰囲気に感情が左右されやすい」のであって、感情を振り回す『ネタ』は、社会的なコトバであって『個人的な理由』ではありません。
皮肉としか言いようが無いのですが、これは事実です。
「みんなこうしているのに僕は」の「みんなこうしてる具体的推定」は流行語程度のムードや雰囲気であり、肝心の『みんな』はこれを面白がって「洒落で使っているだけ」なのにです。

構造が見えてきます、「僕を苦しめる嫌なキーワードで、彼らは楽しそうにしている」
デ・コードします
「僕が実現できなくて苦しんでる事を、みんなは余裕でできるので笑いながら話してるんだ」
完全な事実誤認ですね。
これが連鎖すると『みんな』はなんでもできてるように仮想されるので、自分の自分自身への評価は急降下します。

完全に前と後ろがさかさまな話が始ってしまいます。(実は「ほとんどの人は流行を真面目に実現していない」からです)自分自身の
望とはまったくかけ離れた流行に追いつこうと邁進しているのは、悩んでいる人そのもので、、、「流行の先端を目指してる事の挫折を勝手に感じている」と同じです。
そこで、
「こんなバックじゃバカにされる」
と思うのですが、
そのバックより著しくチープなバックを持っている人が山ほどいても、もう眼中には入りません。(知性の抑圧)知らない間に差別的な人格へと流れは傾斜し、「これで十分でしょ」な投げかけに「こんなじゃダメなんだ!」と激高するに至ります。

俺は、この現象を、「結果的に『みんな』を見下している」ところから「無意識の特権階級主義」と考え「自己中心的発想に繋がる構造モデルそのもの」だと思うんです。
それこそ一般の「自己中心的(「ジコチュウ」って呼ばれた時代もありましたが、、)」という言葉の解釈は意図的で偏ったものに思います。物事を判断する上で「比較を用いない」なんて有りえません(「アリエナーイ」ってコトバもありましたねぇ、、)から、自己中心的に考えるためには哲学者や悟りでも会得しない限り(これらの人物は「ジコチュウ」と呼ばれません)判断する元が無いんです。判断材料が自分自身だけであることが前提になっているのでしょうが、もし判断材料が自分自身なら、同じ人間の『みんな(実はきけんなキーワードです)』は、自分と同じ事になり、周辺に極端な行動を取る筈無いのであって(これが俺の「エゴたいして悪くないぞ論」の根拠です)この人物がこれまた「自己中心的」と呼ばれる事は無いのです。
つまり、「自己中心的」と呼ばれるためには「みんなはこうにきまってるの推定が完全に間違っていないと成り立たない」という事です。
『無意識に特権階級になってしまい、周辺から特権階級気取りと評判が立つ現象』=『自己中心的』
なのです。

社会が提示する流行語は、ほとんど皮肉で(「違う違う」って意味が大半で)その意味合いは、考えなくても「社会の風」を掴めるためのキャッチコピーなのであって、本気でそうするつもりなど無いのです。
「アメリカンドリーム」これ米国人全員が達成すると「アメリカンドリーム」とは呼ばれません。「突出した成功」を意味しているからです。つまり「アメリカンドリーム」の正体は「成功できたらいいね=めったに成功しないよね」なんですから。

社会的に感じると癒し、個人的に感じると危険、危険なコトバとはそんなものかも知れません。流行してる時点で(他者とコトバの意味が通じる時点で)コトバは(コミュニケーションツールですから)社会的(共同幻想的)なもので、個人的なものでは無いからでしょう。
posted by kagewari at 13:26 | Comment(2) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月20日

危険なコトバについて、

パラドックス(逆説、背理)の意味をご存知ですか、まるで矛盾していたり違った話しなのに妙に意味が通じて、裏の意味が本物、というか、そんな感じの言葉です。一種の言葉の特殊性の呼び名とでも受け取ってください。

「無意識が背理を形成して、話(表面上の)は直接背理に触れない。」
このような状態になると、精神的にはその背理に支配されるのに、表面上は「言って無い」事になるので、自分の感じる事と(意味)現実に認識してる事がズレてしまいます。
パラドックスってのは、結果何かの実態を別の話から伝えたり、とかにも使えるので、背理を自覚していたり、背理を見つけたりすると有用なものですが、この逆だととても危険なのです。

よく考えると辻褄が合わないのに、会話してるとなんとなく違和感が無い言葉があります。
・「みんなに嫌われているので、僕はひとりぼっちだ」
こんな事は絶対にに有り得ないんです。何故なら「○○は僕を嫌っている」のを証明するには、その人物と極親しいか(既にひとりぼっちではありません)、読心術の持ち主か(超能力者になってしまいます)、社交的なのでみんなに聞いて廻ったのか(嫌われていたら、こんな活動はできません)、無理がありすぎます。
これをデ・コードします
・「僕は『こんな人間』なので、みんなは嫌いに『決まっている』、仲良くする気にもなれないので、いつも僕はひとりでいる」
つまり、他人が判断すべき自分の評判を自分で決めつけ、次に聞きもしないで他人がどう思うのか決めつけています。特に後者は問題です、自分がどれほどの人間でも「人が人を嫌う」のはそんなに当たり前の事では無いからです。知らず知らずのうちに「嫌な奴ばかりで、僕は災難だ」に気持ちが引っ張られてしまいます。これは完全なガセネタです、独りゴシップです。つまり正確に言うなら「嫌な奴が多いので、可哀想な僕はいつもひとりだ」と言ってるのと同じだと、最初の言葉の表現で気がつく人はめったにいないでしょう。

「みんなに嫌われる」と「僕はひとりぼっち」、このキーワード自体が実はパラドックスなんです、『みんなに嫌われる』のは、よほど酷い事を積極的にやった酷い人に限られ、嫌われる=確信犯的犯罪者を意味しなければ辻褄が合わない言葉ですが、この言葉は、その用法がめちゃめちゃで、極普通に使える言葉になってしまっています。
『僕はひとりぼっち』になるには、正常には「僕にはいつも仲間がいる」事が一般的でなければなりませんが、友達と仲良くする事があったとしても、そんなに頻繁にいっしょにいるものじゃないでしょう。つまりこの言葉は『家族』にかかっています。自分が家族とウマが合わない場合、それより遠縁の学友や同期社員がそれより友好な関係になるとは、なかなか想像つきません。しかし本人にはその自覚がありません、ひとりではなかった場合の対象者(いっしょにいるべきだと感じた相手の実名)は「曖昧なまま」なんです。この言葉も「そんな現象は無い」と否定される事はめったにありません。

・「あなたも社会人なんだから、そろそろちゃんとしなさい」
社会人の定義がありません、社会の人だとするならこの世の人という人はみな社会人で、一々社会人なんだから、と言ってもなんの意味もありません、一般にこの会話は「20歳以上なんだから」を意味しますが、既に20歳以上ならもう立派な社会人の筈です、じゃ「ちゃんとないとしなさい」はどこにかかっているのでしょう?
『普通社会人とはこんな状態の筈だ』が背理になっています、つまり『普通はこうな筈なのに、あなたは何をしているのか』と言いたいのでしょう、しかしこれは『変すぎ』ます。何故なら「普通ならそうしないことを今している」とすると「普通じゃ無いことをする不思議な現象」が目の前にある筈ですが、上記の言葉を投げかける人物は不思議そうにしてるとは思えません。
じゃなんでしょう
「あなたは確信犯で変な事をしているの?」ならわかります。
でもそう思わないから「ちゃんとしなさい」なわけで、おそらくその根拠は「あなたは普通の人」だからです????
あまりにも変です、普通の人ならちゃんとしていないわけないんです。話の根拠は『普通はこうな筈なのに』なんですから??????
完全に倒錯しています。
デ・コードします
「ひどいじゃない、それはあてつけ?なんでワザとそんな状態なの?」
これはあんまりです、おそらくこの言葉を投げかけられた人物は、ワザとでも面白半分でもなくそんな状態なんですから。。。
『正直デ・コード』します
「あんたのことはどうでもいいの、私を困らせないでくれる?」
自分はなんか嫌な奴だ、と思われたくないので、何か不当に話し相手を巧みに悪い奴にしたてる言葉なんですね。
時折これを自分自身に言うケースがあります。
・「私はもう社会人なのに、ちゃんとできない」
こうなると矛盾は解き明かせないほど矛盾していて、ほとんど言葉として壊れているんですが、不思議と『意味が通じてる錯角=パラドックス』を起こします。
危険なキーワードは『社会人』でしょうね、この定義が曖昧なばかりに話がめちゃめちゃになるんです。
「自分の社会人宣言」という一文を書いてから上記の発言はあるべきなんです。
つ ま り 、悩んでいる理由は「社会人とは何ぞや」だったのです。

このような危険なコトバや会話は沢山あります。こんなコトバが野放しな理由は、一々理由を説明(自分では意味すら知らなくても)しなくても人をある一定の枠に強制できる便利なコトバだからです。「共同幻想」の一部なんですね、社会が均一な伝統社会の時には、効率のいい言葉ですが、現代社会ではむしろリスクが多すぎる言葉のひとつなんだと思います。

社会現象と、このコトバの関連について次回は考えてみたいと思います。
posted by kagewari at 00:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月17日

悩み始めの構造と、その後

何事もそうですが、『初動』がその後の展開を大きく変えます。
逆算してみてください、
『初動』に到達出来れば、角度の制御と同じで、最初の地点の1Mは初動部からずーっと遠くの100Mより意味が大きい。つまり「直線距離でどれだけ動くのか」より、「角度」を変えられる方が大きな力になります。

精神分析が「過去と記憶」に拘る理由です。
過去に問題の発端がある事を疑う人はいないでしょう。時々問題の中心に近づく事を危険視する論議があります。これは精神分析の世界観の説明不足なのだと思うんです。
「トラウマ論」いつか書きますが、一番不快だった記憶がいかにも悩みの『原型』として捉えてしまっている学派があるので、話が逸れてしまったのです。

PTSDが典型例で、同じ体験をした人が、同じ悩みを抱えるのでは決してありません。
つまり、トラウマと呼ばれる記憶を『どう解釈するのか』で、こころが受ける傷は180度方位を変えます。

おわかりでしょうか
俺が、元体験的な話を(具体的な記憶を)あまりここで話していないのは、トラウマ以前の人間関係と、それを受けて自我が何を「判断」したのか、このロジックこそ問題の中心だからです。

つまり、最も不快だった体験のもっと前に「そう解釈する自我が既にあった」のであり、不快な体験で傷つくこころとは、象徴的な体験で『ダメ』を押されたのであって(証明、のような意味合いです)、『それ以前のささいなやり取りのなかに、葛藤の中心がある』、と俺は考えています。

つまり、最も不快だった記憶を、「嫌な過去に還元する」プロセスが、精神分析にはあります。フロイドの発見であるエディプスコンプレックスは普遍的なアイデアで、何か得意な体験が引き起こす拘り(コンプレックス)では無い事を、忘れてはなりません。
『コトバ』は非常に重いもので、「どんな単語」を「どんな慣用句を」「どんな代名詞を」「何人称で」「時制」発想はこれらの連想に拘束されているのです。この中心となる記憶を辿る事が危険であるとは、いえないでしょう。

少しずつ、危険なキーワード(心理学テキスト「やりたいこと」参照)について考えてみようかなって思います。
posted by kagewari at 21:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「受動的」と「能動的」動機形成について。

『被る』というのは、「〜される」という発想です。
一見ここでそれを受動的というのは誤りです、実際言葉の意味としての「受動的」というのは、何か外からのアクションを実際に受けてから行動する様子だからです。
『被る』と「受動的」の関連はむしろ「文法」です。
動機形成の時の理由「なぜかっていうと」の部分の主語が、「誰かに何か言われたから」とかの受動か、「私はこう思うから」の能動か、この差です。

発想が「受動的」なのか「能動的」なのか、なんです。(なんとかシンキングは、この辺の解釈がおかしいと思う)「何か言われたから」「何かされたから」「何か言われるに決まってるから」こういう受動を出発点に動機形成(実は『能動』)をすると、いいことあまりないんです。なんでかっていうと、そもそも動機形成は、内的な欲求を行動に変えるときの根拠選びなので、『能動』であって、これの発想を受動にすると、もう自我の中の文法は、言葉としての形が壊れてしまって、時折支離滅裂にさえなります。
こんな状態の時に「たいして何も悩んでいないのに、落ち込む」という現象がおきます。

「誰かに何か言われるので、僕は積極的にこうしたい」
このロジックで、動機形成によって、衝動を欲望に変える事は難しいっていうか、、なんか文章がおかしなことに誰しもが気が付くと思います。
デ・コードします。
「僕は積極的にこうしたいのに、誰も何も言ってくれない」
これでなかなか行動に移れないのはもっともです。
僕が行動する事は勝手であって、誰かが何かを言う必要が無いからです。

おそらく、これは悩みの発端と相関関係にあるのだと思います。
つまり、なんだか「理由不明の不快感」を、独自の発想で解決できたのかも知れないんです、みなさんは幼児を幼く知性も大人に劣る、と考えているのかも知れませんが、俺はそう思いません。「きっとこうかもしれない」という内容があいまいであったり、具体的でない事はあるのですが、幼児も非常に深い洞察力で考えている事は事実なんです。
悩みの発端の話のとこで(「理由不明の不快感」をどう解決するのかって話です)「幼児の力ではとても解決不可能」と話しましたが、それは問題に対する実行制圧力の問題で、考える自由は残されているのです。俺は『自己嫌悪』というアイデアの怖い所を、むしろここに感じているのです。

「自分自身の発想(知性)すらスポイルする、現実を歪めてしまうレンズこそ自己嫌悪なのではないか」

ザザーッと、話を元に戻しましょう。

もっとばっさりとダイレクトで直線的に話を割ってしまいましょう。

悩みの解決とは、悩んでいる問題の解決などは全く関係なく、考える時の発想を能動的にするため、必ず「私は〜思うので」という風に、常に主語が「私は」ではじまる文章以外は使わないで思考する事。

これで、なぜ友達などに相談すると気持ちの整理がつくのかわかっていただけるのでは無いでしょうか。
「実はさ、俺さ」
そうです、主語が「私」なんです。
posted by kagewari at 03:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月15日

いろんな意味で、「逆転」即ち『被る』

いくら自己嫌悪で、不快感の謎を封じ込めても「不快感自体は消えません」、前回話したとおり、ここでエゴはようやく次の手段を取ります。
魚のグッピー(求愛行動で戦う魚です、、確か)でさえ、行き過ぎた攻撃衝動を『他に逸らします』

『他に逸らす』
これはわかりやすいですね、『八つ当たり』と呼びます。
アメリカ映画で御馴染みの、夫婦喧嘩でお皿を割るシーン、これも『他に逸らす』の一種です。「殴ったろか」「こりゃマズイ」「バリーン!」「もう一枚!」、この行動はエゴが自分の感情を斜めから見てて「そりゃ行き過ぎでしょう」と行う『総合的には自己防衛』な行為で、極めて有効な危険回避です。

何が言いたいのか?

つまり、『攻撃衝動は、その対象が変わっても有効』って事。

八つ当たりが問題なのではありません、この『逸らす』という動機形成の機能を『無意識に使ってしまったら』、これが問題なのです。

不快感の記憶は消えません。そしてその具体的な記憶は抑圧されています。
この状態を自覚できたと仮定すると、言葉にするとこうなります。
「なんだかしらないが、無性にひどい目にあってる気がする」
『強い被害感知』です。
そして強い攻撃衝動は代謝されていない。
そして原因不明(抑圧で)
なんとなく「自分だからか」(自己嫌悪の自覚)と思っている。

このアンバランスな状態が、いくつかの流れをうみます。
■「な に か が間違ってる、平気そうな人達にイライラする」
■「すごく酷い目にあってる。『理由は自分だから(しか思いつかない、抑圧された部分を知覚できないので)』これじゃ、どこにも逃げ場(「自分の居場所」とも良く呼ばれる)が無い」
■「ほんとに嫌な感じの人が多い、どうかしてる。何で自分ばっかりこんなにイロイロ押し付けられるのか」
■「みんな私を嫌ってる、何故ってこんなに酷い目にあっている」
■「嫌な事をされたくないので、好かれるためには無理をしないと」
■「目に見える(=ステレオタイプ=みんなにわからないと意味がない)、成功をしないと全く意味がない感じがする(酷い目にあいたくないので)。なので何もしたくない」
■「誰かに思われていないと、とても不安だ。」

その全てに流れている共通するキーワードは
『被る』です。
posted by kagewari at 01:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月13日

自分が知っている筈の事「選択肢の喪失」が、意識下にのぼってこない理由。

「抑圧」と呼びます。なんといえばいいか粘り強く話すので、、粘り強く聞いて下さい。
「理解できない不快感」があるとします、自我が取る次の行動は@その解読に勤めて、不快を回避する手段を発見する。Aとりあえず時間稼ぎにでも、その不快から避難する。Bバランスを取るために、気晴らしの快を求める。等々、、
しかし、この不快感が幼児期である場合、多くの手段は自立的に行う事が難しいですし、誰かの助けや援助を求めるとしても、それを友達に求める事もとても難しいです(同じ幼児だからです)。

地域社会が、「大人の関与」「他人の関与」として助け舟の可能性を用意していれば、「解読する事例も多く」「実際誰かが助けてくれるかも知れず」等の可能性が高いですから、「理解できない不快感」を感じた時の切迫感は強くないでしょう。
しかし、問題が『家庭内』にあり(問題のある家庭は一般に地域社会と断交していますから)地域から孤立していた場合、「理解できない不快感」の解決は完全に個人の自我マターになってしまいます。

これは困った事です。
幼児にとって「今手持ちのカード」には、不快の原因となる「理解不能」な部分を「理解するアプローチが無い」ことになります。

「わけのわからんものが原因の、不快からどう逃げるか?」
こんな難題そう簡単に解決できません、ただひたすら息が詰まるだけです。そこで「不快に感じるのが間違えているのか」とか「不快な理由は自分にあるのではないか」へ、気持ちが流れます。つまり「理解不能の不快感がある」⇒「自分は不快の多い人間だ」「自分のせいでこの世は不快だ」と話が逆転します。
すくなくともこの方が、エゴ的に次の手段へと行動選択が可能になります(息がつけるって事です)。

 この逆転のアイデアを『自己嫌悪』と呼び、
 事実関係が『自己嫌悪によって隠蔽される事』を『抑圧』と呼びます。
 つまり
 「理解不能」部分が抜け落ち、『それは無かった事』になり「不快な記憶」にのみ意思が集中するワケです。

うーん、わかりにくいですね。
次回、もう一度、このわかりにくさをもう一度説明してみます。ここで重要なキー『被る』が登場する事になります。
posted by kagewari at 01:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月10日

精神的に悩む事自体をどう解釈するのか

悩みがあるって事は、単純化すると、悩んでいない状態が視野にある事を意味します。何故なら悩んでいる事がごく自然なら、自分が今悩んでいる事を認識できないからです。悩んでいない事になりますから。

この悩んでいる自覚と、悩んでいない状態が意識下に間違い無くあることをどう考えたらいいのでしょう。「悩む前があったから」でしょうね。この「悩む前」をどう考えるのかが重要なです。心理学的にはこの「悩む前」に、「既に悩みの原因である葛藤が抑圧されている」と考えます。つまり潜在的に悩みを持つ構造は、悩む前からあるって意味です。
悩みを解消したい、と考えた時、そのイメージが「悩む前」であっては悩みの構造がグルグルと一周する事になってしまうからです。リバウンドに近いものですね。

「何故悩む事になったのだろう」を悩み始めた時点ではなく、悩み以前から見つけなければならないって事です。一見違和感があるかもしれませんが、悩んだのは結果であって、その悩みのテーマは外界からの刺激(ストレス)ですが、これだけでは「同じ外界からの刺激を受けた人は同様に悩む」事になり、話が矛盾するんです。「私は何故悩んだのか」だとするとテーマは「私は」になります。

内的欲求も実はストレスで、外界との関係は、この「ストレス発の動機化された意識が、如何に行動に(欲望化され)繋がって代謝されたのか」が、メンタル面のバランスを決定付けます。
つまり、悩みの元になる外界からの刺激は、内的ストレスの代謝活動を妨げる一因に過ぎず、「何々が出来ないと、もう内的ストレスを欲望化する手段が他に無い」という前提が前からないと、悩みには繋がらないんです。

さて自我=エゴの仕事は何でしょう?
他の選択肢(オプション)乃至一気に切り替えて方針転換(オルタナティヴ)の発見と、その実行です。このエゴの仕事が元々阻害される要因が無い限り人は悩まないって事です。

もう一度振り返ってみましょう。
「他の選択が選べない実感」は「他の選択がある事を知っていないと実感できない」

つまり、自分が悩む理由を『知っている』のです。
どうして、自分が悩む理由を知っているのに、真っ先に「対処法」を考えるのでは無く『悩む』のでしょう。

自分が知っている筈の事「選択肢の喪失」が、意識下にのぼってこない理由。
次回はそんなとこから話してみようと思います。
posted by kagewari at 20:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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所謂臨床系の言うところの行動療法ってほど堅い話ではありませんが期待感あるアプローチだと思います
自我と時間』参照




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