人は不思議な生き物で、感情的になっているときにやたらと「本人」を実感します。しかし「それは本当?」と考えるとそうも言えません。
誰しも体験があると思うけれど「・・・!」「。。。!!」「○○=!!」な後、数時間で「あれ、何むきになってたんだろ。あーあ言わなきゃよかった」なんて事があります。
よっぽど冷静な時が本人っぽいです。
自我(エゴ)が「占有される」、乃至「代替される」ものは何でしょう。つまりモザイクです。
エゴが統一的な概念であるとは限らないのです。
TPOじゃないですが、あの時にはこんなスタイル、このときにはこんなスタイル、てな具合です。問題はその関連性で、ここの矛盾が大きいと(少々矛盾があるぐらいOKでしょう)「エゴのテーマ」が不安定になります、いつも揺らいでるわけですから。ここを統一的にするために超自我があるように見えますが、「超」ってぐらいですから、これ離れすぎです(だいたい道徳マターがそんなに頻繁だったら大変です)。
「哲学、信念、座右の銘、好きな言葉、好きな色、星座、干支、出身、恩師、」このアイデェンティティーとも呼ばれる「基礎的過去や概念」が自我をまとめる事になりますが、この部分(フロイドは特に名前つけてないんじゃないかな)の形成が阻害されると、人は悩んでしまったり、「自分自身の中の、複数のスタイルの境界」に軋轢が起きます。時には「ポケーっと傘」にもなるってワケです(これ完全に関心が無くて自我停止なかんじっスから)。「共同幻想」は比較的超自我より、こっち(自我のテーマ)に傾いた概念です。(俺は超自我を「共同幻想」の一部門と考えるのが「当たり」と考えています)
題して「この部分」の形成はなんで阻害されちゃうんでしょう。
※重要な事になりますが、「この部分」の不足感が危機感と認知されると「新興宗教」「カルトセミナー」「悪徳マルチ商法」「流行への妄信」「普通というイメージの捏造」が入り込む隙間が生まれ、違った意味で大変な事になる事が多いです。
全体を見通す感覚(これ自分の客観像かな〜)が、規制されてるからでしょう、(これフロイドの発見した「タブー」つまりエディプスコンプレックスがその代表でしょう。)この規制が、「反発」です、うまく表現できませんね、言葉でなんと伝えればいいものか、、。うーん、、嫌な過去があるって簡単なものではないでしょう、その「嫌な理由」は『それ以前にある』のですから。
こう考えてみましょう、「こうあって欲しい、何故なら私はこ〜んな人間だから」はい、これもある種のアイデェンティティーですね。「こ〜んな人間だから」が含まれてますから。
?
ちょっと待って下さい。
だとすると、「こうじゃない時、こ〜んな人間としての私は否定された」になりませんか?
「こうあって欲しい」のは他人です。
これは危険です、他人の動向で、自分の成り立ちが「肯定されたり否定されたり」激しく乱高下していまいます。
そして悩む
「どうしてこうならないのか、俺はこ〜んな俺なのに」
「ん、こ〜んな俺なのか、ほんとに、こんなじゃダメじゃないのか?」
これは大変な事です、「こうあって欲しい」は願望で、「こ〜んな人間」とか直接関わりません。何故なら「こうあって欲しい。あの人は『あんな人』なのだし、きっとそうするだろう」が正直なとこで、自分の前に「あの人そんな人?」が重要な筈だからです。「あの人はどんな人」を無視して「自分はダメじゃないのか」なんて事になると、出口はありません。「あの人にこうさせる」力を自分の在り様で保証するなんて不可能です、なんせ他人なんですから。
「あなたはこんな人じゃないですか?」と何故最初に確かめられなかったのか。(これ少々判断間違えていても問題ないんです、何故って「他人事」で「自分がこうだから」との関連性の有無が問題だからです。)
そして「あなたはこんな人じゃないですか?」と尋ねるのは誰か?(本人論としてです)
俺は「トラウマ否定論者」です。否定ってほどじゃないんですが、わかりやすく言えばそうです、代表的な不快な記憶以前に、その話(それが不快な理由)は始まっているからです。
こんな風に考えています。
極端に(実は脅迫や、不安から)「自分」が埋没してる人間関係の中にいると、人は「集団内の役割」である人格を強制される。
「エゴが代替される萌芽」はこんなとこにあるのではないのでしょうか?『根拠の希薄なアイデェンティティーの強制』の結果です。
この人物には「そもそもお前はどんな人間?」と尋ねる『主体』がありません。それは既に集団の中で定義されているからです。