共同幻想的「そつない自我の仕事」はオプションであるべきで、オルタナティブの領分があるって事は、自我に自分がある証拠でもあり(必ずしもいいこととも言えない、この辺は微妙。各々の主観で判断してもらうよりない。)、同時に共同幻想崩壊の方向が避けられない現在の処方箋のひとつだとも言える。
オプションよりオルタナが上等とか、立派とか成功とかいう意味は全く無い。むしろ基本はオプションで、最初っから自我のテーブルに思いついているものから現実選択が行われるのが選択の合理性が高い事には違いない。
◎ここで論争になるのは「オプション論者」にとって「オルタナは一見、現実(的)逃避」に見える事で(オプション派には構造的に思いついていないワケだから)、この批判に疑問の余地が無い事で、オプションVSオルタナの論議は平行線になりやすい。
着地点を考えるなら、楽とか好きの関わり方で、「いかにも他者向きにやって見せる的見栄えの良さが自己満足的快である時」この批判は妥当な事が多く、「いかにも自主的にできるかわからん事を誰も満足せんだろうリアル自己(がマジに)満足的いかんともしがたい思いである時」この批判は的外れである。
「ダメだこりゃ」な時がオルタナの必要な場面とも言え、結果は「自我がそれまで思いもしなかった“まったく思念段階の○○実現”」がオルタナなので、早い話が結果の満足度は高そうなのだが『思いつくまでがながーい』とか『思いつくまで回りくど過ぎ』って事になる。(ここが不条理って奴)
なので、この発見は、偶発性とかきっかけってのが救いであって(コレ自分だけで考えなくてもいいワケだ「思いついてなけりゃいいのだから」)、つまり「赤の他人との縁」や、「タイトル間違えて見た映画」や、「内容知らずに適当に買ったCD」とか、「偶然拾った文庫本」に発見の可能性は上昇する構造になる。
、、だんだん怪しい話になってるな、、
ポイントは構造的な矛盾の突破にある
これ言い換えると、
◆自我の一部を壊すのと同時にこの決壊の結果あふれ出るモチベーション(=ストレス)を一発で現実(=行動選択)に換える瞬間を指す。
・・・・・・・ 。 ・・・・。
・・・zzzzz。 !!・・・・ 、、?・・
>>、、><<αβ@@ ・・・
「そうだ山に行こう」
あえてわかりやすくしたのだが、実はこれ↑あまりいい例ではない。何故って「山」を思いつかない事はレアケースで、よっぱどシンプルな自我の持ち主じゃないとこれはあり得なくて=「オプションから現実選択するのがスジの自我」を意味する。
ありそうだな〜ってのは。
・・・・・/////∴∴∴×3=・・・
ororor、△○◆
「ごみ捨ててこよっ」
あまりにも凄すぎるので↑、、アレなんだけれど、誤解を避けるように考えるとこんな、、感じ。
ここに時代との関連性が浮かび上がる、文明化の創世期には自我がシンプルなので「ダメだこりゃ」な時のオルタなの発見は容易で、文明化情報化の進行で「思いつかない事を探すのは余計に難しい」のであって、
@オルタナが求められる時代にオルタナ無し
そこでヒントになるのが実存主義で、とにかく非合理的(不条理)なとこから「探す」ことが発見の近道。
オプションは「役に立つものから」
オルタナは「役に立たないものから」
◆オルタナがいつまでもオルタナって事は無い、次回から「思いつくこと」となったオルタナはオプションである。
ここで、精神的な悩みがどんな障壁となるのかが鮮明になる。オプションとオルタナの間に葛藤が位置すると考えていい。何故なら葛藤は道徳のジャンル(無意識の反動として)に属して超自我的(脅迫・強迫的)に自我に誤解されるので「役に立たないもの」や「意味無いもの」を極端に蔑視する傾向があり(鬱傾向の人が「生真面目とか、几帳面とか、完全主義者に多い」等という風評はこの構造のため)、唯でさえ抑圧によって内的ストレスが高いのに、現実選択が『オプションに限られる』。
「答え(選択肢)が無い」
精神的な悩み。
2004年12月21日
2004年12月18日
オルタナティブの前にさらっと前説やっておこうと思う。
自我の選択において、オルタナがフロイド的な「昇華」の本質的な(実際の現象は違うので)意味じゃないかと考えている。
フロイド的な昇華話ってのは、極端に誤解されやすくて、ついつい「社会不適応を起こすようなモチベーションがスポーツや芸術なんかで花開くとさあ全開」みたいに受け取られる事が多い、なにせここに「やりたい事(注1」なんかが絡むので、ただの誤解ですまなくなる事もある。
注1)http://kagewari.cside.com/kage_tex51.htm
誰しもが思う事だが、人の才能とそん時の社会のニーズってのは偶然で関係していて、時代が合わなきゃ日の目を見ない才能も山ほどあるワケで、
相対的に「才能とは役に立たないもの」と考えるのが自然だ、
だからこそ「昇華」って言葉がヤバイ
sublimation=昇華、この訳自体がどうなのかってのもあるが、subliminalなら=潜在意識なワケで、キーになるのはやっぱ、「結果、○○実現に等しい」でいいのじゃないのと思う。
実際「昇華」なる言葉が中華思想じゃないが何やらうまいこといかないといかんようなイメージでいかん
そこで「単独者=独と書いて=独り(ひとり)=インディペンデント=インディレーベル」な連想じゃないが、俺はこの昇華ってのをsublimationじゃなくalternativeで考えている、まんまの訳は「二択」とか「代替物」なんだけれども現象としてはだね、ある筈無い思念(これなんつっても頭の中の話で現実じゃない)を「現実だとどうなんの=答え」でさ、ここでどえらい矛盾がある、そのまんまじゃ妄想なので、現実化(=実現)ってのは「違うなんかに置き換える」行為なんだわ、これが。
だからalternative
オルタナってイメージは、オプションのオプション(?)な感じでね、「仕方なしじゃない、あーこれだった」な感覚と言えばいいのかね、
これに実際の体験だとどんな事って言うと
聞いたことも無いくせにだよ、よその誰かが出しているCDを聞いて「おーっこれだ!」
変でしょ、変。これは変、
「これだってあんた、いつこれのこれを知ったのさ」って事なのだが、そう言われても「おーっこれだ!」と思ってしまう。
つまりモチベーション段階の思念ってのは、そこまで具体性が無く、具体性を求めてるんだな、それ自体が。で、この「具体性をつけろや」ストレスは自我に伝わる、「何だろう、どうしようかな」と。
オルタナっていうのは、うまくいかないので何か別のってのじゃなく、なんて言えばいいのかな・・。
それって『ホント(実はオルタナ)のとこどうなの(どんな現実に換えるの)』という言葉としての矛盾を、、くぁーこの意味にならない意味をわかってください。ね『ホント(思念)』ってなマジに『ホント』の事だと『ホント(現実=本当)』じゃないんだな、うん。
フロイド的な昇華話ってのは、極端に誤解されやすくて、ついつい「社会不適応を起こすようなモチベーションがスポーツや芸術なんかで花開くとさあ全開」みたいに受け取られる事が多い、なにせここに「やりたい事(注1」なんかが絡むので、ただの誤解ですまなくなる事もある。
注1)http://kagewari.cside.com/kage_tex51.htm
誰しもが思う事だが、人の才能とそん時の社会のニーズってのは偶然で関係していて、時代が合わなきゃ日の目を見ない才能も山ほどあるワケで、
相対的に「才能とは役に立たないもの」と考えるのが自然だ、
だからこそ「昇華」って言葉がヤバイ
sublimation=昇華、この訳自体がどうなのかってのもあるが、subliminalなら=潜在意識なワケで、キーになるのはやっぱ、「結果、○○実現に等しい」でいいのじゃないのと思う。
実際「昇華」なる言葉が中華思想じゃないが何やらうまいこといかないといかんようなイメージでいかん
そこで「単独者=独と書いて=独り(ひとり)=インディペンデント=インディレーベル」な連想じゃないが、俺はこの昇華ってのをsublimationじゃなくalternativeで考えている、まんまの訳は「二択」とか「代替物」なんだけれども現象としてはだね、ある筈無い思念(これなんつっても頭の中の話で現実じゃない)を「現実だとどうなんの=答え」でさ、ここでどえらい矛盾がある、そのまんまじゃ妄想なので、現実化(=実現)ってのは「違うなんかに置き換える」行為なんだわ、これが。
だからalternative
オルタナってイメージは、オプションのオプション(?)な感じでね、「仕方なしじゃない、あーこれだった」な感覚と言えばいいのかね、
これに実際の体験だとどんな事って言うと
聞いたことも無いくせにだよ、よその誰かが出しているCDを聞いて「おーっこれだ!」
変でしょ、変。これは変、
「これだってあんた、いつこれのこれを知ったのさ」って事なのだが、そう言われても「おーっこれだ!」と思ってしまう。
つまりモチベーション段階の思念ってのは、そこまで具体性が無く、具体性を求めてるんだな、それ自体が。で、この「具体性をつけろや」ストレスは自我に伝わる、「何だろう、どうしようかな」と。
オルタナっていうのは、うまくいかないので何か別のってのじゃなく、なんて言えばいいのかな・・。
それって『ホント(実はオルタナ)のとこどうなの(どんな現実に換えるの)』という言葉としての矛盾を、、くぁーこの意味にならない意味をわかってください。ね『ホント(思念)』ってなマジに『ホント』の事だと『ホント(現実=本当)』じゃないんだな、うん。
2004年12月06日
自我の仕事「選択」(2)オプション
横文字を使ってるのは、どうしても適当な訳が無い「オルタナティブ(これは(3)のネタ)」との対比のためで、特に横文字じゃなくてもいんだが、この方がわかりやすいので、、
選択肢にベストが無い時がある。
理由は様々、
状況としては、前提となる条件がどうにも整わないと考えていい
「資金が底をついている」「性別がどうにも男だ」「身長の問題でジョッキーも競艇も難しい」「いい歳すぎていまさらプロスポーツを目指せない」「空挺部隊を志願したいのだが飛行機に酔う」「外国で活躍したいが母国語以外からっきし話せない」「音感が無い」「懸垂が出来ない」「魚がさばけない」「毒キノコが見分けられない」
こんな時選択肢にベストが無い環境になる。
そこで選ばれるのは「二番手」で、この二番手“的”(番手は選ばれるまで決まっていないので)グループが「オプション」である。
こりゃ当然二番手なのでその選択はちょっと不快であり、「どこまでの不快がアリか?」で単純に選択肢の幅は広がるが、所詮二番手なので、不快に対する適応性があるからエライって事とかには関係ない。
しかし、生死を分ける選択だったらどうだろう?
この疑問はあたらない、生死を分ける環境に適応しているのが原始的な共同幻想で、「選択肢の幅がどうたら」等と考えている事自体生死を分ける選択が頻繁じゃない事を意味している(非常時には選択どころの騒ぎじゃないので、んな事心配しなくてもいいワケだ)。
オプションは「妥協的」とか「敗北的」とも感じられるが、ここで「自分を説得する引き出しをどれだけ持っているのか」が自我の力量になる、自我は自分に雇われたエージェントとも言えるので「選手の希望はともかく、今ある選択肢のなかで一番内容のいいオファーを出している球団との契約を説得するのも仕事の内」だからだ。
一見本人の利益に反するこの思考こそ、自我のオプション選択の時の仕事であり、本人に「どれだけの選択の幅を提供するのか」を決定付ける。
ここにも「直線的には自分に不利な内容(婉曲的には自分に有利)を飲ませる」という、矛盾する自我の在り方が見え隠れする。
さて、この時「どんな方便で自分を説得するのか?」だが、自分を説得する材料は「屁理屈、道徳、ハッタリ、おだてて、脅かして、じっくり話して聞かせる、理論(合理性)、芸術的嗜好(非合理性)、等々」これ、つまり何かと言うと、対人関係の自我の振る舞いと全く同じで(違いはプライベートな情報を握っているのかとかの、情報量の差)、自分を相手にする時の在り方と、他人を相手にする時の在り方が同じという点が、哲学系の鏡象論に被っている。
皮肉な事に、選ぶにあたって悩む回数が多いと(選択においてハンデが多い)自我はバトルプルーフされ、交渉力の力量が上昇する。「苦労は金を払っても買え」という言葉は、これを根拠にしていて、生まれたときから選択においていつも有利な環境にいると自我の鍛えこまれ方は中途半端になる事も十分考えられる。
物事は常に矛盾的な要素をはらんでいる証明のひとつだ。
選択肢にベストが無い時がある。
理由は様々、
状況としては、前提となる条件がどうにも整わないと考えていい
「資金が底をついている」「性別がどうにも男だ」「身長の問題でジョッキーも競艇も難しい」「いい歳すぎていまさらプロスポーツを目指せない」「空挺部隊を志願したいのだが飛行機に酔う」「外国で活躍したいが母国語以外からっきし話せない」「音感が無い」「懸垂が出来ない」「魚がさばけない」「毒キノコが見分けられない」
こんな時選択肢にベストが無い環境になる。
そこで選ばれるのは「二番手」で、この二番手“的”(番手は選ばれるまで決まっていないので)グループが「オプション」である。
こりゃ当然二番手なのでその選択はちょっと不快であり、「どこまでの不快がアリか?」で単純に選択肢の幅は広がるが、所詮二番手なので、不快に対する適応性があるからエライって事とかには関係ない。
しかし、生死を分ける選択だったらどうだろう?
この疑問はあたらない、生死を分ける環境に適応しているのが原始的な共同幻想で、「選択肢の幅がどうたら」等と考えている事自体生死を分ける選択が頻繁じゃない事を意味している(非常時には選択どころの騒ぎじゃないので、んな事心配しなくてもいいワケだ)。
オプションは「妥協的」とか「敗北的」とも感じられるが、ここで「自分を説得する引き出しをどれだけ持っているのか」が自我の力量になる、自我は自分に雇われたエージェントとも言えるので「選手の希望はともかく、今ある選択肢のなかで一番内容のいいオファーを出している球団との契約を説得するのも仕事の内」だからだ。
一見本人の利益に反するこの思考こそ、自我のオプション選択の時の仕事であり、本人に「どれだけの選択の幅を提供するのか」を決定付ける。
ここにも「直線的には自分に不利な内容(婉曲的には自分に有利)を飲ませる」という、矛盾する自我の在り方が見え隠れする。
さて、この時「どんな方便で自分を説得するのか?」だが、自分を説得する材料は「屁理屈、道徳、ハッタリ、おだてて、脅かして、じっくり話して聞かせる、理論(合理性)、芸術的嗜好(非合理性)、等々」これ、つまり何かと言うと、対人関係の自我の振る舞いと全く同じで(違いはプライベートな情報を握っているのかとかの、情報量の差)、自分を相手にする時の在り方と、他人を相手にする時の在り方が同じという点が、哲学系の鏡象論に被っている。
皮肉な事に、選ぶにあたって悩む回数が多いと(選択においてハンデが多い)自我はバトルプルーフされ、交渉力の力量が上昇する。「苦労は金を払っても買え」という言葉は、これを根拠にしていて、生まれたときから選択においていつも有利な環境にいると自我の鍛えこまれ方は中途半端になる事も十分考えられる。
物事は常に矛盾的な要素をはらんでいる証明のひとつだ。
2004年12月02日
自我の仕事「選択」(1)
精神分析には二次的利得とか反動形成とか、、ま、いろんな言葉がある、
「選択」って一見「選びたい放題」にも思えるが、世の選択はそういう意味ではない事は誰でも知ってる事だろう
だいたいが「選びたい放題な選択は『選択』ではない」何故って選択の余地が無いからだ(これは逆説)、「何でもの1では比較が行われていない。」
選ばれなかった母数が無限だと、何を選ばず、何を選んだのか、その結果を手に出来ない。
“何を選ばず、何を選んだのか”
この狭間で、選択が行われる弾力的な部分が「余地」
選択は自我の形そのものでもあり、思考する自我の『結果』とも言える。ここが皮肉なところで、実際の行為は選択の後に行われるのだが、自我の結果は選択そのもで、結果は運任せ風任せだと考えてもいいぐらいの筈だ
そこで、良く起きる誤解が「結果を伴う選択の思考」って奴で、あんましこいつに偏ると『偏る』だから『自我も偏る』、
@選択において結果に拘ると選択が歪む
こりゃなんだろうか?ここで、「現実的は現実では無い」って無理のある言葉が形になってるとこがわかってもらえるだろうか?
結果についての自分の自我内の論争は余地の部分で既に行われているのであって、結果に拘るという思考は「最初から選択肢を極端に狭くする」・・・・
これどちらから見ても矛盾、
結果に拘れば選択ではなく、結果を想定するから余地がある。これはおそらく同一のもので、結果に拘らない選択はあり得ないのだから、選択が行われたとしたら、その選択に結果についての前提が無いワケが無いのであって、選択の後で「結果はどうだろう」と思ってしまうのなら、それは100%杞憂だ。
し
か
し
、
選択があまりにも、、だとこりゃ現実から離れる。
つまり、現実から選ばれればそこに選択は成立していて、現実以外から選ばれれば、それは妄想だと言っていい。
て、ことは
妄想か杞憂か、この幅の中に選択があるのであって、ここで振り子のように思考が揺れれば「反動」、振り子がいつも同じ所に妙〜に止まっていると「二次的利得」か、
面白いところは、余地こそ思考なのだから自我とは、こうときまっていないもので、右左と動く余地であるのだから、自我とはいつも形を変える流れだと言っていい(ここが「性格ってものは自我には無い」の意味)、それが固定的な時それは不自然な現象なのであり、何かこう無意識の意図でもない限り自我が動きを止める事は無い。
自我が左右に揺れなくなると、同時に時間も止まり、その時刻は葛藤形成時のままの同じ時間が経過している。「過去が追いかけてくる」というのはそんな現象をいう。
「選択」って一見「選びたい放題」にも思えるが、世の選択はそういう意味ではない事は誰でも知ってる事だろう
だいたいが「選びたい放題な選択は『選択』ではない」何故って選択の余地が無いからだ(これは逆説)、「何でもの1では比較が行われていない。」
選ばれなかった母数が無限だと、何を選ばず、何を選んだのか、その結果を手に出来ない。
“何を選ばず、何を選んだのか”
この狭間で、選択が行われる弾力的な部分が「余地」
選択は自我の形そのものでもあり、思考する自我の『結果』とも言える。ここが皮肉なところで、実際の行為は選択の後に行われるのだが、自我の結果は選択そのもで、結果は運任せ風任せだと考えてもいいぐらいの筈だ
そこで、良く起きる誤解が「結果を伴う選択の思考」って奴で、あんましこいつに偏ると『偏る』だから『自我も偏る』、
@選択において結果に拘ると選択が歪む
こりゃなんだろうか?ここで、「現実的は現実では無い」って無理のある言葉が形になってるとこがわかってもらえるだろうか?
結果についての自分の自我内の論争は余地の部分で既に行われているのであって、結果に拘るという思考は「最初から選択肢を極端に狭くする」・・・・
これどちらから見ても矛盾、
結果に拘れば選択ではなく、結果を想定するから余地がある。これはおそらく同一のもので、結果に拘らない選択はあり得ないのだから、選択が行われたとしたら、その選択に結果についての前提が無いワケが無いのであって、選択の後で「結果はどうだろう」と思ってしまうのなら、それは100%杞憂だ。
し
か
し
、
選択があまりにも、、だとこりゃ現実から離れる。
つまり、現実から選ばれればそこに選択は成立していて、現実以外から選ばれれば、それは妄想だと言っていい。
て、ことは
妄想か杞憂か、この幅の中に選択があるのであって、ここで振り子のように思考が揺れれば「反動」、振り子がいつも同じ所に妙〜に止まっていると「二次的利得」か、
面白いところは、余地こそ思考なのだから自我とは、こうときまっていないもので、右左と動く余地であるのだから、自我とはいつも形を変える流れだと言っていい(ここが「性格ってものは自我には無い」の意味)、それが固定的な時それは不自然な現象なのであり、何かこう無意識の意図でもない限り自我が動きを止める事は無い。
自我が左右に揺れなくなると、同時に時間も止まり、その時刻は葛藤形成時のままの同じ時間が経過している。「過去が追いかけてくる」というのはそんな現象をいう。
2004年11月24日
自我の仕事か?『実存=レーゾンテートル』
自我にとって専らの仕事は「判断」や「整理」で、それは『現実に適応する事であって、現実を認識する事ではない』
実際、自我にとって「判断」や「整理」のためには雛型や名前のついたファイルやフォルダ、付箋用紙が必要で、予め準備されているこれらの「構え」がリアリティー=現実的。
そして、「それは現実的か?」を統括して管理するロジックは超自我とフロイドが定義した、前意識や無意識的なドグマの事で、この部分は幼児期に形成される、そして個別に「定番の行動化」した技術的な判断も無意識へ、そして「ふと思いついたが現実的ではないなこれ」という想いも無意識へ
自我の仕事は交通整理の警官に近く、そこに走る車の運転手の人生まで考える事ではない。
「考えていたら、車は衝突する」
この時、現実的ではない現実は、合理性と矛盾するので実存主義の哲学者はこれを『不条理』と呼び、又「(現実的に対し)反抗的に生きる」と認識した。そして現実への適応のために「現実的判断をしない人物」は、仮想(見かけ上)社会不適応ともいえるポジションであるので『単独者』と呼ぶ。
実存主義的なアイデア発祥の文明的ビヘイビアーには、キリスト教があったため、話しは「現実に在る」事を「神の前の実存」と彼らは感じたりもした。(ここで登場する神は、エディプス的シンボルではなく、『現実』だろう)、リアリストである事は、社会的にアブノーマルなアプローチになる。
ここで、現在の文明社会の心理的社会構造が被ってくる。
共同幻想が壊れ始め、現実的の的が揺らぎ、一時マニュアルが流行したが、保守本流の伝統の代用品にしては軽いワケで。
結果『実存しがち』なんだ、これが。。
自我にとって、この現象は皮肉な事に「在り得ない事に直面させせられて不安だ」と認識されるのが、構造的に正しい(?)のであり、こういう状態を「不安」とか「悩んでいる」とも言う。
精神的な悩みは、個々の問題と言うよりいわば社会現象とも言えて
この自らの「実存しちゃってる」を嘘や偽りと感じるのか、在りのまま「こういうことか」と担いでいくのかで、大きく流れは変わる。
自我に「仕事らしい仕事が増えた」と考えるのも悪くない。
実際、自我にとって「判断」や「整理」のためには雛型や名前のついたファイルやフォルダ、付箋用紙が必要で、予め準備されているこれらの「構え」がリアリティー=現実的。
そして、「それは現実的か?」を統括して管理するロジックは超自我とフロイドが定義した、前意識や無意識的なドグマの事で、この部分は幼児期に形成される、そして個別に「定番の行動化」した技術的な判断も無意識へ、そして「ふと思いついたが現実的ではないなこれ」という想いも無意識へ
自我の仕事は交通整理の警官に近く、そこに走る車の運転手の人生まで考える事ではない。
「考えていたら、車は衝突する」
この時、現実的ではない現実は、合理性と矛盾するので実存主義の哲学者はこれを『不条理』と呼び、又「(現実的に対し)反抗的に生きる」と認識した。そして現実への適応のために「現実的判断をしない人物」は、仮想(見かけ上)社会不適応ともいえるポジションであるので『単独者』と呼ぶ。
実存主義的なアイデア発祥の文明的ビヘイビアーには、キリスト教があったため、話しは「現実に在る」事を「神の前の実存」と彼らは感じたりもした。(ここで登場する神は、エディプス的シンボルではなく、『現実』だろう)、リアリストである事は、社会的にアブノーマルなアプローチになる。
ここで、現在の文明社会の心理的社会構造が被ってくる。
共同幻想が壊れ始め、現実的の的が揺らぎ、一時マニュアルが流行したが、保守本流の伝統の代用品にしては軽いワケで。
結果『実存しがち』なんだ、これが。。
自我にとって、この現象は皮肉な事に「在り得ない事に直面させせられて不安だ」と認識されるのが、構造的に正しい(?)のであり、こういう状態を「不安」とか「悩んでいる」とも言う。
精神的な悩みは、個々の問題と言うよりいわば社会現象とも言えて
この自らの「実存しちゃってる」を嘘や偽りと感じるのか、在りのまま「こういうことか」と担いでいくのかで、大きく流れは変わる。
自我に「仕事らしい仕事が増えた」と考えるのも悪くない。
2004年11月20日
自我の仕事『実存=言い換えると現在』
ここで哲学の話をしようってのでは無いのだけれど、そもそも哲学な人は何がしたかったのかについて、動機を考える事は出来るだろう。
話をググーッと変えるが、苦し紛れで違和感のある言葉が時々ある。
「いい返し言葉」
これを本気で読み取ってどうするって言われると何なのだが、意外と内容を分析すると教えられる事も多い
典型例:「今さえ良ければいい」
重要なポイントは、当事者間で「今」を共有している錯覚で、「今さえよければいい」という台詞自体が、あまり『よさそうじゃ無い』。しかしそれを「いい返し言葉」として使う当人の自我は、そのナンセンスさに苦笑するはずも無く、かなり真剣に「今さえ良ければいい」と言えてしまう。
自我の選択は、矛盾とかの耐性が強く、少々の矛盾ぐらいでは自分自身で違和感を感じる事も無いし、雰囲気や流れで発言者ではない当事者ですらその違和感を感じることなく、妙に納得する事もある。
なんで、こんな事が在り得るのか?
前に一度触れたが「自我には、現実と想像や思惑にそれほど明快な『境界が無い』」、自我の在り方は非常に特殊で、「判断」というテーマで考えると、動物の選択の基本は「過去の引用による予測」となる、「おいしかったものを食べる」「危険なところにはいかない」「季節が変わると移動する」「春に備えて、、」本能による判断と自我の違いは、複雑な後付けロジックの関与になる、言うならシンプルな予想モデルを反復するのではなく、無意識的な判断を含んで「シュミレートする器官」といえる。ここが典型的な自我の存立の矛盾『現実的』の原因(理由かな、、)。
『現実的』は『的』なんだから、そのまんま現実では無い、的だからさ『的』。
「知的な印象(本当にマジな知性に驚いているのではない)」「客観的な話(マジに客観だと幽体離脱)」「印象的な絵(既に絵なので印象ではない)」「典型的なスタイル(それがあてはまるのであって、今見たものが典型になる事は無い)」「根本的な解決策(解決策は根本ではない)」「驚異的な回復力(そういう印象で、看護婦全員が驚異したのではない)」。
『それ的』なのだから、『それっぽい』とか『それと同等』というところが「的」ってやつで、
「○○君、もっと現実的に考えてくれたまえ」
この回答は「現実ではいけない」「現実“的”」じゃなくちゃ、、。
何?的って何??
「○○君、もっと常識的な範囲で考えてくれたまえ。君に常識が無いと言うなら、“私の常識の範囲”で考えたまえ」
随分無理な話だと思うが、、
この的っていうのが、シュミレーションする自我の仕事上のフレームみたいなもので、「考えを投げた上司」は、この答えに応じて、自分も関係する形でやりとりしたいのであり、意味不明な返事が返ってくると上記の台詞となる。(自分が関われないので)
しかし、「どう思ったのか」は現実である。
その現実を覆す「現実的」とは?
ここが「自我には、現実と想像や思惑にそれほど明快な『境界が無い』」ってとこで、
自我にとって「『現実的』は現実より優先する」。
悩みや、脱出不能のパラドックスに陥る原因、又は知っているはずのアイデアが出てこない(思い出せないと同意)のは、現実=「何思う」より、『現実的』=「何とする」が自我では上位概念であるからで、これが超自我、つまり超自我とは「何とする」を決めている部分で、『現 実 で は 無 い』。
この部分には同じように「何とする」或いは「何と決まっている」という概念が親和性が強く、容易に潜り込む(原因は『勘違い』)。
話を哲学な人は何がしたかったのかに戻して見ると、わかりやすい。
「現実じゃダメなの?」
これ非常に疑問なのであって、「現実でいはいけない」という部分が気になり出すと(感じない筈の違和感を感じ出してしまうと)、そりゃ夜も眠れない。哲学なんてものの登場の動機は、この「現実ではいけないのか?」だと俺は考えている。
「我思う故に我在り」ってのは、「思ったとうりじゃ無いのなら、俺はいないのとおなじじゃないか?」への挑戦みたいなもんで、、
哲学万歳の話が目的ではなく、、この心意気は使えると思っている。
即ち、「何とする」や「何と決まっている」に対抗する手段は同じ手段が使えるのであり、随分前から変わり者が嫌ってほど考えていたものだから、捨てたものでは無い。(別段哲学を学ぼうって話じゃなくて、、)
謎ってほどではないが、自我とは矛盾する存在である。
話をググーッと変えるが、苦し紛れで違和感のある言葉が時々ある。
「いい返し言葉」
これを本気で読み取ってどうするって言われると何なのだが、意外と内容を分析すると教えられる事も多い
典型例:「今さえ良ければいい」
重要なポイントは、当事者間で「今」を共有している錯覚で、「今さえよければいい」という台詞自体が、あまり『よさそうじゃ無い』。しかしそれを「いい返し言葉」として使う当人の自我は、そのナンセンスさに苦笑するはずも無く、かなり真剣に「今さえ良ければいい」と言えてしまう。
自我の選択は、矛盾とかの耐性が強く、少々の矛盾ぐらいでは自分自身で違和感を感じる事も無いし、雰囲気や流れで発言者ではない当事者ですらその違和感を感じることなく、妙に納得する事もある。
なんで、こんな事が在り得るのか?
前に一度触れたが「自我には、現実と想像や思惑にそれほど明快な『境界が無い』」、自我の在り方は非常に特殊で、「判断」というテーマで考えると、動物の選択の基本は「過去の引用による予測」となる、「おいしかったものを食べる」「危険なところにはいかない」「季節が変わると移動する」「春に備えて、、」本能による判断と自我の違いは、複雑な後付けロジックの関与になる、言うならシンプルな予想モデルを反復するのではなく、無意識的な判断を含んで「シュミレートする器官」といえる。ここが典型的な自我の存立の矛盾『現実的』の原因(理由かな、、)。
『現実的』は『的』なんだから、そのまんま現実では無い、的だからさ『的』。
「知的な印象(本当にマジな知性に驚いているのではない)」「客観的な話(マジに客観だと幽体離脱)」「印象的な絵(既に絵なので印象ではない)」「典型的なスタイル(それがあてはまるのであって、今見たものが典型になる事は無い)」「根本的な解決策(解決策は根本ではない)」「驚異的な回復力(そういう印象で、看護婦全員が驚異したのではない)」。
『それ的』なのだから、『それっぽい』とか『それと同等』というところが「的」ってやつで、
「○○君、もっと現実的に考えてくれたまえ」
この回答は「現実ではいけない」「現実“的”」じゃなくちゃ、、。
何?的って何??
「○○君、もっと常識的な範囲で考えてくれたまえ。君に常識が無いと言うなら、“私の常識の範囲”で考えたまえ」
随分無理な話だと思うが、、
この的っていうのが、シュミレーションする自我の仕事上のフレームみたいなもので、「考えを投げた上司」は、この答えに応じて、自分も関係する形でやりとりしたいのであり、意味不明な返事が返ってくると上記の台詞となる。(自分が関われないので)
しかし、「どう思ったのか」は現実である。
その現実を覆す「現実的」とは?
ここが「自我には、現実と想像や思惑にそれほど明快な『境界が無い』」ってとこで、
自我にとって「『現実的』は現実より優先する」。
悩みや、脱出不能のパラドックスに陥る原因、又は知っているはずのアイデアが出てこない(思い出せないと同意)のは、現実=「何思う」より、『現実的』=「何とする」が自我では上位概念であるからで、これが超自我、つまり超自我とは「何とする」を決めている部分で、『現 実 で は 無 い』。
この部分には同じように「何とする」或いは「何と決まっている」という概念が親和性が強く、容易に潜り込む(原因は『勘違い』)。
話を哲学な人は何がしたかったのかに戻して見ると、わかりやすい。
「現実じゃダメなの?」
これ非常に疑問なのであって、「現実でいはいけない」という部分が気になり出すと(感じない筈の違和感を感じ出してしまうと)、そりゃ夜も眠れない。哲学なんてものの登場の動機は、この「現実ではいけないのか?」だと俺は考えている。
「我思う故に我在り」ってのは、「思ったとうりじゃ無いのなら、俺はいないのとおなじじゃないか?」への挑戦みたいなもんで、、
哲学万歳の話が目的ではなく、、この心意気は使えると思っている。
即ち、「何とする」や「何と決まっている」に対抗する手段は同じ手段が使えるのであり、随分前から変わり者が嫌ってほど考えていたものだから、捨てたものでは無い。(別段哲学を学ぼうって話じゃなくて、、)
謎ってほどではないが、自我とは矛盾する存在である。
2004年11月13日
自我の仕事『自由』
時に人は凹んでいるときなどに、会社の同僚や友人を羨ましく思ったりする。
「あいつはいいよな〜、脳天気で」
「何処でも眠れるなんて、いいわね。それほとんど特技ね」
「誰に教わったんだそういう屁理屈、それはそれで凄い」
彼らが感じている窮屈な感じとは何だろう?
その近くまでは行くんだが、ちょっとそうは行けない一線
こういう感覚をまったく感じた事の無い人はいないだろう。
これつまり「超自我の干渉」
俺が「道徳的なものが超自我には違いないが、決して超自我は道徳ではない」と考えている根拠がここ。その障壁を楽々突破している(正確にはその障壁が無い)同僚や友人を嫌ったり軽蔑していない。
ここまでくると次の会話が浮かぶ。
同じ流れで人を嫌ったり、軽蔑する事もある
「こっちはこんなに真剣にやってるのに何だあの態度は」
「ほんと恥ずかしい、人が見てるのに、、緊張感がないのね」
「よくそんな事が言えるもんだ、言い訳ばかりでみっともないぞ」
何が違うのか?
前回の話と繋がるのだが、後者は思考のルートの問題ではなく「その結果に当事者が拘束されている」場合で、バイパスどころか、自分の自我のレーゾンテートルを侮辱されていると感じ、相手に対し“リアクション(被る)として”攻撃的な感情となっている。
この結論の差は「前者が自分の拘束感を窮屈に感じているのに対して、後者は人を軽蔑したり嫌う事で、自分自身が不快になっている」と言えていて、、、
どう考えても『どちらも楽しい事とは言えない』
別の角度が在り得る(これが「オルタナ」)。
この人物が、超自我的(前意識や無意識からの干渉)ではなく、自覚的に「これはこうだろうぜよ」という『自立的な拘束』を持っている場合。
この人物はこう話すだろう
「君は楽しいねぇ、お気楽で。私には真似できんな」
「ほんとナチュラルな人ね、私は考えすぎなのよねきっと(笑」
「面白いこと言うね。じゃこう言ったら君どう言うの?」
ここには違う意味の逆説的な実存が在る。
何かって、拘束における不快もろもろは無いのだが、自分が言い出しっぺの『不自由感』があり、しかもこの不自由が本人にとっておおよそ不快に感じられているように見えない。(重要なポイントだが、快感を感じているとも見えない)
「超自我的拘束感」が自由を意味する筈が無いのに、何故このオルタナティブ(同じ事のような別の二次的ではない選択肢)は「不自由(これが実存主義の「不条理」であるとこがポイント)」なのか?
ここにはなんというのか、、謎解きみたいのがあって、次回はその辺を考えてみたい。
「あいつはいいよな〜、脳天気で」
「何処でも眠れるなんて、いいわね。それほとんど特技ね」
「誰に教わったんだそういう屁理屈、それはそれで凄い」
彼らが感じている窮屈な感じとは何だろう?
その近くまでは行くんだが、ちょっとそうは行けない一線
こういう感覚をまったく感じた事の無い人はいないだろう。
これつまり「超自我の干渉」
俺が「道徳的なものが超自我には違いないが、決して超自我は道徳ではない」と考えている根拠がここ。その障壁を楽々突破している(正確にはその障壁が無い)同僚や友人を嫌ったり軽蔑していない。
ここまでくると次の会話が浮かぶ。
同じ流れで人を嫌ったり、軽蔑する事もある
「こっちはこんなに真剣にやってるのに何だあの態度は」
「ほんと恥ずかしい、人が見てるのに、、緊張感がないのね」
「よくそんな事が言えるもんだ、言い訳ばかりでみっともないぞ」
何が違うのか?
前回の話と繋がるのだが、後者は思考のルートの問題ではなく「その結果に当事者が拘束されている」場合で、バイパスどころか、自分の自我のレーゾンテートルを侮辱されていると感じ、相手に対し“リアクション(被る)として”攻撃的な感情となっている。
この結論の差は「前者が自分の拘束感を窮屈に感じているのに対して、後者は人を軽蔑したり嫌う事で、自分自身が不快になっている」と言えていて、、、
どう考えても『どちらも楽しい事とは言えない』
別の角度が在り得る(これが「オルタナ」)。
この人物が、超自我的(前意識や無意識からの干渉)ではなく、自覚的に「これはこうだろうぜよ」という『自立的な拘束』を持っている場合。
この人物はこう話すだろう
「君は楽しいねぇ、お気楽で。私には真似できんな」
「ほんとナチュラルな人ね、私は考えすぎなのよねきっと(笑」
「面白いこと言うね。じゃこう言ったら君どう言うの?」
ここには違う意味の逆説的な実存が在る。
何かって、拘束における不快もろもろは無いのだが、自分が言い出しっぺの『不自由感』があり、しかもこの不自由が本人にとっておおよそ不快に感じられているように見えない。(重要なポイントだが、快感を感じているとも見えない)
「超自我的拘束感」が自由を意味する筈が無いのに、何故このオルタナティブ(同じ事のような別の二次的ではない選択肢)は「不自由(これが実存主義の「不条理」であるとこがポイント)」なのか?
ここにはなんというのか、、謎解きみたいのがあって、次回はその辺を考えてみたい。
2004年11月10日
自我の仕事『想像力の限界』
自分にもアリな事の選択にも関わらず
そして自分で思いついてもよさそうな事なのに
思いつかないばかりに行われない選択
↑
この可能性をどう考えるのか?そしてその思いつかない理由は?
自我の選択は、無限には違いないが、体力や能力の限界がある。そして最も大きい限界は「快不快の限界」で、たいがいの事はOKでもこれだけはちょっと、、というものもある。
この「これだけはちょっと、、」が、思考の世界にも被っていて、昔のカソリックじゃないけれど、「想像しただけでも罪だろうか?」という世界。一件特異に見えるがそうではない。
何か失敗をしでかしたとする。実はこれは「誰にも話していない目的があって、それを狙って逆効果になった」としよう、しかし周辺は目に見える失敗の部分だけしか気がつかないのであり、、つまり、本人だけそれ以上(行為の現実スケール以上)に凹むワケだ。
自我には、現実と想像や思惑にそれほど明快な『境界が無い』。
この逆説が、人の思い付きを「そうそう、その手があったのかー!」になる。考えるときにもルートというものがあり(これも「流れ」)それ自体連想には違いが無い。
つまり「時間ぴったりに→急ぐならタクシー→そりゃ無茶だ電車→乗り継ぎは?、、」この思考には、「遅刻は許されない」が背理にあり、この時その「時間ぴったり」の意味の大きさを考える前に「約束の時間に」という言葉で想像力が拘束される事はむしろ頻繁で、ちっとも以外では無い。
■そんな時
「いんだそんなの、たいした事じゃないんだから。今電話して無理無理って言っとけばいんじゃん?」の一言で
「そう、そうだな、そういえばそうかも知れんなぁー、ハーッハッハ」
この友人らしき人物の助言は、彼が「約束の時間」というキーワードにさして拘りがないから現実の認知や判断が自由だったので、時間に急がなければと思っていた人物がスルーできないキーワードから自由だったから思いついたのであり、結果だけを聞く分には、「時間に人物」の「約束の時間に」は刺激されない。
何故なら、「時間に自由な友人が、時間に人物の拘りをバイパスしたから」であり、「時間に人物」も、「約束の時間に」にという思考ルートに拘束されたに過ぎず、「時間ぴったりに事象と、約束の時間には直接リンクはしていない」からだ。
なので「時間に自由な友人」の一言を大歓迎したわけだ。
これをどう考えるのか?
そして自分で思いついてもよさそうな事なのに
思いつかないばかりに行われない選択
↑
この可能性をどう考えるのか?そしてその思いつかない理由は?
自我の選択は、無限には違いないが、体力や能力の限界がある。そして最も大きい限界は「快不快の限界」で、たいがいの事はOKでもこれだけはちょっと、、というものもある。
この「これだけはちょっと、、」が、思考の世界にも被っていて、昔のカソリックじゃないけれど、「想像しただけでも罪だろうか?」という世界。一件特異に見えるがそうではない。
何か失敗をしでかしたとする。実はこれは「誰にも話していない目的があって、それを狙って逆効果になった」としよう、しかし周辺は目に見える失敗の部分だけしか気がつかないのであり、、つまり、本人だけそれ以上(行為の現実スケール以上)に凹むワケだ。
自我には、現実と想像や思惑にそれほど明快な『境界が無い』。
この逆説が、人の思い付きを「そうそう、その手があったのかー!」になる。考えるときにもルートというものがあり(これも「流れ」)それ自体連想には違いが無い。
つまり「時間ぴったりに→急ぐならタクシー→そりゃ無茶だ電車→乗り継ぎは?、、」この思考には、「遅刻は許されない」が背理にあり、この時その「時間ぴったり」の意味の大きさを考える前に「約束の時間に」という言葉で想像力が拘束される事はむしろ頻繁で、ちっとも以外では無い。
■そんな時
「いんだそんなの、たいした事じゃないんだから。今電話して無理無理って言っとけばいんじゃん?」の一言で
「そう、そうだな、そういえばそうかも知れんなぁー、ハーッハッハ」
この友人らしき人物の助言は、彼が「約束の時間」というキーワードにさして拘りがないから現実の認知や判断が自由だったので、時間に急がなければと思っていた人物がスルーできないキーワードから自由だったから思いついたのであり、結果だけを聞く分には、「時間に人物」の「約束の時間に」は刺激されない。
何故なら、「時間に自由な友人が、時間に人物の拘りをバイパスしたから」であり、「時間に人物」も、「約束の時間に」にという思考ルートに拘束されたに過ぎず、「時間ぴったりに事象と、約束の時間には直接リンクはしていない」からだ。
なので「時間に自由な友人」の一言を大歓迎したわけだ。
これをどう考えるのか?
2004年11月04日
自我の仕事(心理学的選択)
<「反動形成」「オプション(次の選択)」「オルタナ(同じ意味だろう的選択)」があって、後者に近づくほど「アイデア」と呼ばれる>
これ何かっていうと、『欲求前のストレスをいかに具体的にするか』「欲望化」と考えてもいい。
なんかあれがあれ(汗が出ていて苦しい)
↓
1腕をまくる
2シャツを脱ぐ
3アイスを食べる
4「暑いも気から」と考えてみる
5冷房器具に頼ってみる
6冷たいものを飲む
7アンチテーゼで風呂に入る
8走ったせいか?と確認する
9「暑いなおい」
・・・・・・・・・・・
これが自我の仕事で、その選択のタイプや傾向の結果から「性格がある」とか言われる。俺はこれを「手口がある」に近い線で考えている(犯罪用語を頻繁に使うのは、アウトロー用語=共同幻想外=自我単体の表情が干渉されない印象で表現できるからで、何か性悪説的なイメージが被ってるワケじゃないです)。
例えば「あなたが泥棒だとする。あなたの手口は?」この答えならそれこそその自我の傾向をそれこそ鮮明に認識できると思う。そして「なるほど、こういう選択なら、んな性格だな〜と言われるワケだ」とも、
つまり目的が「モノを盗む」であるからといって、最適な行動という定義も無いし、実際「それじゃ効率悪いだろう」とか「それはあまりにも無謀だろう」とか「そんなに勤勉じゃ盗みと言えないだろう」とか、
人は思うように動けません。それが我侭でない証拠は、その「手口」が、嗜好であり且つ現実であり且つ欲求であり且つ“想像力の限界”でもあり。。。
『想像力の限界』
自分にもアリな事の選択にも関わらず
そして自分で思いついてもよさそうな事なのに
思いつかないばかりに行われない選択
↑
この可能性をどう考えるのか?そしてその思いつかない理由は?
これ何かっていうと、『欲求前のストレスをいかに具体的にするか』「欲望化」と考えてもいい。
なんかあれがあれ(汗が出ていて苦しい)
↓
1腕をまくる
2シャツを脱ぐ
3アイスを食べる
4「暑いも気から」と考えてみる
5冷房器具に頼ってみる
6冷たいものを飲む
7アンチテーゼで風呂に入る
8走ったせいか?と確認する
9「暑いなおい」
・・・・・・・・・・・
これが自我の仕事で、その選択のタイプや傾向の結果から「性格がある」とか言われる。俺はこれを「手口がある」に近い線で考えている(犯罪用語を頻繁に使うのは、アウトロー用語=共同幻想外=自我単体の表情が干渉されない印象で表現できるからで、何か性悪説的なイメージが被ってるワケじゃないです)。
例えば「あなたが泥棒だとする。あなたの手口は?」この答えならそれこそその自我の傾向をそれこそ鮮明に認識できると思う。そして「なるほど、こういう選択なら、んな性格だな〜と言われるワケだ」とも、
つまり目的が「モノを盗む」であるからといって、最適な行動という定義も無いし、実際「それじゃ効率悪いだろう」とか「それはあまりにも無謀だろう」とか「そんなに勤勉じゃ盗みと言えないだろう」とか、
人は思うように動けません。それが我侭でない証拠は、その「手口」が、嗜好であり且つ現実であり且つ欲求であり且つ“想像力の限界”でもあり。。。
『想像力の限界』
自分にもアリな事の選択にも関わらず
そして自分で思いついてもよさそうな事なのに
思いつかないばかりに行われない選択
↑
この可能性をどう考えるのか?そしてその思いつかない理由は?
2004年10月29日
自我の成り立ちについて(5)
言葉を憶える過程で起きていることは、単語を憶えるというレベルではない。
======================================================
「電車は速い(凄く)、僕は そ れ に乗るとご機嫌だ。座れると特にいい」
「お父さんは偉い、仕事(何かよくわからないので、きっと偉いこと)をしているからで、 そ ん な お父さんと遊ぶと楽しい。特にお母さんもいるといい」
「ご飯は美味しい(ハンバーグの時を標準とする)。美味しくない草は ご 飯 ではない」
「幼稚園で歌を歌うのは楽しい。何かの発表会の時の嬉しそうなお母さんが喜んでるのでかなりの快感。わたしは そ ん な 歌をうたいたい」
「お風呂のなかでおもちゃで遊ぶ事はそれは楽しいが、熱い湯にはまいる100数えないと、、」
=======================================================
↑
これらは、それぞれ「電車(その後連想『車』)」「父親」「食事」「学校」「100」等の単語の背理:暗韻となる。この連想を連ねるとロジックとなり、このイメージのセット(連想)を結ぶキーが言葉(=単語)、その連想を再展開し現実に適応する時「そんな性格」と呼ばれる。
↓
=======================================================
「結論、なんといってもスカイラインは速い。こいつのシートをレカロに変えて以来ご機嫌。そういえば、仲間にアルファに乗ってるのがいるが、なんか外車かぶれみたいに見られるのは好きじゃないし、俺はスカGだなやっぱ。そういう意味では本当の速さって国産車じゃないのか、、いやそもそも、、」
「食べる事は好きだが、できれば大皿でなんでも好きなものが食べられるのがいいなぁ。そう鍋もいいかも知れない、出来れば鍋を囲んで仲間を集めてってのもいいなあ。そう言えばこういう時に直ぐに集まる仲間ってのが、、」
「なんといっても説得力のあるプレゼンが必要なんです、君の企画はまだまだだよ。人にみせるって意識が欠けているんだと思う。そもそもプレゼンっていうのは、、」
「いえ後100回やります、まだやれます。」「意地っ張りな奴だなぁ、まあ好きなだけやれ(努力家に◎だな、、いや負けず嫌いか)」
=======================================================
何が何に関わるのかは、その人のランダムな人生が関わっているのだが、実際経験する体験の幅はその人の生まれや家族の属性に随分と拘束される、だからこそアイデンティティーとは結果であって同時に必然でもある、
この両面がアイデェンティティーの実像で、変える事は出来ないが、無ければ事実を見る視点としての足場も無くなるし、同時に自身で定義しなおして見直す母体でもある。
とにもかくにも、その結果の人格は結果である。
そして、それを左右しているのは過去の「選択的決定的な偶然の記憶」で、これのアンチテーゼは「自発的な選択による戦略的な記憶」と言える。この後者の選択は「自我の自我としての自立」や「時代の流れへの適応」や「思い直しによる過去の再定義」等の思索による。
極々簡単な「造られた物だから造りなおす」というものでは無い。
こんな事はないだろうか?「子供の時に観た映画を大人になって見直す機会があり、見直してみると全く解釈が変わった」記憶にはこの現象が全て当てはまる。
だ か ら こ そ
錯誤行為による選択的擬似トラウマが必要になる。
記憶の再定義をさせないために、繰り返し同じ解釈の記憶を積み上げなければならないからだ。
ここで新たな証明が可能になる。
実は人格とは容易に変化するのであり、それを堰き止めている保守的城塞がアイデェンティティーとなる。その防壁が、内部の圧力(過剰なストレス)で不安定だとしたら?
『より強い圧力で、押し込めなければならない。』「そんな自発的な理由が見つからないので、、そんな、、こんな事は許せない!なんて酷い事を!(理由を外側に求めて攻撃や自己防衛の形を使って押し込む。この形式が「被る」)」
ここに、擬似トラウマを必然としてしまう構造が動的に証明されている。
果たして「予定された城壁を守るためか?」
或いは「その城塞は、ある『形』でなければならなかったのか?」
これは主観と客観に過ぎず同じ事だ。「形とは、保存された流動性だともいえる」。
悩み自体に普遍のキャラクターは無い。人の偶然や(自己嫌悪を離れた本人の直感。錯誤行為との違いは利害関係の有無になる。)、辛さから起因する「悩み」は、これに対する“不快感”であるのだから。「だったらどうする」という事で、「直さ(治さ)なければならない」という意味では決して無い。それはそれこそレーゾンテートルの否定になっちまうからだ。
(ここが俺が、精神的な悩みに病気というカテゴリーを持ち込む事に対する疑問になっている)
次回は前のテキストでちょっと触れた <「反動形成」「オプション(次の選択)」「オルタナ(同じ意味だろう的選択)」があって、後者に近づくほど「アイデア」と呼ばれる> について考えてみる。
======================================================
「電車は速い(凄く)、僕は そ れ に乗るとご機嫌だ。座れると特にいい」
「お父さんは偉い、仕事(何かよくわからないので、きっと偉いこと)をしているからで、 そ ん な お父さんと遊ぶと楽しい。特にお母さんもいるといい」
「ご飯は美味しい(ハンバーグの時を標準とする)。美味しくない草は ご 飯 ではない」
「幼稚園で歌を歌うのは楽しい。何かの発表会の時の嬉しそうなお母さんが喜んでるのでかなりの快感。わたしは そ ん な 歌をうたいたい」
「お風呂のなかでおもちゃで遊ぶ事はそれは楽しいが、熱い湯にはまいる100数えないと、、」
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↑
これらは、それぞれ「電車(その後連想『車』)」「父親」「食事」「学校」「100」等の単語の背理:暗韻となる。この連想を連ねるとロジックとなり、このイメージのセット(連想)を結ぶキーが言葉(=単語)、その連想を再展開し現実に適応する時「そんな性格」と呼ばれる。
↓
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「結論、なんといってもスカイラインは速い。こいつのシートをレカロに変えて以来ご機嫌。そういえば、仲間にアルファに乗ってるのがいるが、なんか外車かぶれみたいに見られるのは好きじゃないし、俺はスカGだなやっぱ。そういう意味では本当の速さって国産車じゃないのか、、いやそもそも、、」
「食べる事は好きだが、できれば大皿でなんでも好きなものが食べられるのがいいなぁ。そう鍋もいいかも知れない、出来れば鍋を囲んで仲間を集めてってのもいいなあ。そう言えばこういう時に直ぐに集まる仲間ってのが、、」
「なんといっても説得力のあるプレゼンが必要なんです、君の企画はまだまだだよ。人にみせるって意識が欠けているんだと思う。そもそもプレゼンっていうのは、、」
「いえ後100回やります、まだやれます。」「意地っ張りな奴だなぁ、まあ好きなだけやれ(努力家に◎だな、、いや負けず嫌いか)」
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何が何に関わるのかは、その人のランダムな人生が関わっているのだが、実際経験する体験の幅はその人の生まれや家族の属性に随分と拘束される、だからこそアイデンティティーとは結果であって同時に必然でもある、
この両面がアイデェンティティーの実像で、変える事は出来ないが、無ければ事実を見る視点としての足場も無くなるし、同時に自身で定義しなおして見直す母体でもある。
とにもかくにも、その結果の人格は結果である。
そして、それを左右しているのは過去の「選択的決定的な偶然の記憶」で、これのアンチテーゼは「自発的な選択による戦略的な記憶」と言える。この後者の選択は「自我の自我としての自立」や「時代の流れへの適応」や「思い直しによる過去の再定義」等の思索による。
極々簡単な「造られた物だから造りなおす」というものでは無い。
こんな事はないだろうか?「子供の時に観た映画を大人になって見直す機会があり、見直してみると全く解釈が変わった」記憶にはこの現象が全て当てはまる。
だ か ら こ そ
錯誤行為による選択的擬似トラウマが必要になる。
記憶の再定義をさせないために、繰り返し同じ解釈の記憶を積み上げなければならないからだ。
ここで新たな証明が可能になる。
実は人格とは容易に変化するのであり、それを堰き止めている保守的城塞がアイデェンティティーとなる。その防壁が、内部の圧力(過剰なストレス)で不安定だとしたら?
『より強い圧力で、押し込めなければならない。』「そんな自発的な理由が見つからないので、、そんな、、こんな事は許せない!なんて酷い事を!(理由を外側に求めて攻撃や自己防衛の形を使って押し込む。この形式が「被る」)」
ここに、擬似トラウマを必然としてしまう構造が動的に証明されている。
果たして「予定された城壁を守るためか?」
或いは「その城塞は、ある『形』でなければならなかったのか?」
これは主観と客観に過ぎず同じ事だ。「形とは、保存された流動性だともいえる」。
悩み自体に普遍のキャラクターは無い。人の偶然や(自己嫌悪を離れた本人の直感。錯誤行為との違いは利害関係の有無になる。)、辛さから起因する「悩み」は、これに対する“不快感”であるのだから。「だったらどうする」という事で、「直さ(治さ)なければならない」という意味では決して無い。それはそれこそレーゾンテートルの否定になっちまうからだ。
(ここが俺が、精神的な悩みに病気というカテゴリーを持ち込む事に対する疑問になっている)
次回は前のテキストでちょっと触れた <「反動形成」「オプション(次の選択)」「オルタナ(同じ意味だろう的選択)」があって、後者に近づくほど「アイデア」と呼ばれる> について考えてみる。
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