これは実生活となんら変わりません。
歯が痛ければ痛み止めを飲む、おなかが痛いときに胃腸薬を飲むって事にそうそう抵抗がある人はいません、風邪薬も同じです。
問題は「効く」っていう発想が「治す」と混同されている事です。
俺の掲示板にその点で何度か抗議の書き込みがあったことがあります。そこら辺でよく誤解されるのが、上記の薬が効くのは「直接的には不快な症状の緩和」だってことです。もっぱら症状の根本的解決(治るでもいいでしょうが、、)は元気を回復した本来の体力と、自己治癒によってです。症状によっては生活様式の改善が必要だったりしますから、治るのは薬によってではなく、薬は「それを助ける存在」です。
だから俺は通院や、薬を飲む事を否定しません。事実俺には薬を処方できないワケで、
副作用や薬への耐性(身体が慣れてくること)半減期(薬が身体から抜けること)の不安定さの点から「市販の薬で」、という選択もあります。症状に応じて胃腸薬や頭痛薬等です。
マッサージも有力です、症状の緩和は「不快感の改善」という個別のテーマです。
ではカウンセリングの在り様はどういうものでしょう。
実際薬を貰う時に医師に話す事はシンプルでいいと思います、あくまで症状の緩和が第一義です、カウンセリングは突っ込んだ話が行われ「いったい何がなんでどうなってるのか」という分担があるのが望ましいでしょう。だとするとカウンセリングの場に余談が入るのはあまり好ましく無い。
俺が独学で相談を設けている根拠のひとつです。
「こういう症状はこれ病で、これが原因」という雛形や区分けがあまりにもしっかりしているとかえってそれが「余談」になります。
論理的根拠は別問題です、基本的に心理学として「どう考えるのか」は明解でなければならないでしょう。
つまり、それは『話し方や、話のテーマ』についての考えになるからで、診断ではないからです。
そもそも「人の人生を診断する」ってのは不可能でしょ、人生を選ぶのは相談者自身であって、カウンセラーではありません。カウンセラーが知るべきなのは「人はなぜ悩むのか」についての考えが明解か否かです。
俺自身自分をカウンセラーとは名乗らないので(あくまでサイコアナリストでありたいと思います。「〜スト」と語尾につくと何か偉そうに聞こえますが、そういう意図はありません。東京12chの経済アナリストとかみたいなもんです「分析屋」ですねつまり。)カウンセラーに何が何って事はないですが、、
「治してもらう」のではなく「治すために(この表現は俺はあんまし使うの好きじゃないんだけれど、わかりやすくするためにあえて使います)」病院やカウンセリングを「使う」ってのが在り様としてベストでしょう。
俺の掲示板には時々論争が起きますが、それは「アリ」だと考えています、たとえ悩んでいる事の原因のひとつの概念だとしても「こう思う」って事に「何故でしょう」となればそれだけで、論争のテーマとなります。だとしたら「無意識に隠れている自分の考えの論旨が表に出る時論争になる事は避けがたい」からで、無意識に隠れた葛藤という『意識』を自分自身で認知するチャンスでもあります。
「話の中でこそ自分自身のアイデアに気がつく」ってのは、俺だってしょっちゅうだからです。
2004年05月19日
2004年05月11日
本人である事の自覚
人は不思議な生き物で、感情的になっているときにやたらと「本人」を実感します。しかし「それは本当?」と考えるとそうも言えません。
誰しも体験があると思うけれど「・・・!」「。。。!!」「○○=!!」な後、数時間で「あれ、何むきになってたんだろ。あーあ言わなきゃよかった」なんて事があります。
よっぽど冷静な時が本人っぽいです。
自我(エゴ)が「占有される」、乃至「代替される」ものは何でしょう。つまりモザイクです。
エゴが統一的な概念であるとは限らないのです。
TPOじゃないですが、あの時にはこんなスタイル、このときにはこんなスタイル、てな具合です。問題はその関連性で、ここの矛盾が大きいと(少々矛盾があるぐらいOKでしょう)「エゴのテーマ」が不安定になります、いつも揺らいでるわけですから。ここを統一的にするために超自我があるように見えますが、「超」ってぐらいですから、これ離れすぎです(だいたい道徳マターがそんなに頻繁だったら大変です)。
「哲学、信念、座右の銘、好きな言葉、好きな色、星座、干支、出身、恩師、」このアイデェンティティーとも呼ばれる「基礎的過去や概念」が自我をまとめる事になりますが、この部分(フロイドは特に名前つけてないんじゃないかな)の形成が阻害されると、人は悩んでしまったり、「自分自身の中の、複数のスタイルの境界」に軋轢が起きます。時には「ポケーっと傘」にもなるってワケです(これ完全に関心が無くて自我停止なかんじっスから)。「共同幻想」は比較的超自我より、こっち(自我のテーマ)に傾いた概念です。(俺は超自我を「共同幻想」の一部門と考えるのが「当たり」と考えています)
題して「この部分」の形成はなんで阻害されちゃうんでしょう。
※重要な事になりますが、「この部分」の不足感が危機感と認知されると「新興宗教」「カルトセミナー」「悪徳マルチ商法」「流行への妄信」「普通というイメージの捏造」が入り込む隙間が生まれ、違った意味で大変な事になる事が多いです。
全体を見通す感覚(これ自分の客観像かな〜)が、規制されてるからでしょう、(これフロイドの発見した「タブー」つまりエディプスコンプレックスがその代表でしょう。)この規制が、「反発」です、うまく表現できませんね、言葉でなんと伝えればいいものか、、。うーん、、嫌な過去があるって簡単なものではないでしょう、その「嫌な理由」は『それ以前にある』のですから。
こう考えてみましょう、「こうあって欲しい、何故なら私はこ〜んな人間だから」はい、これもある種のアイデェンティティーですね。「こ〜んな人間だから」が含まれてますから。
?
ちょっと待って下さい。
だとすると、「こうじゃない時、こ〜んな人間としての私は否定された」になりませんか?
「こうあって欲しい」のは他人です。
これは危険です、他人の動向で、自分の成り立ちが「肯定されたり否定されたり」激しく乱高下していまいます。
そして悩む
「どうしてこうならないのか、俺はこ〜んな俺なのに」
「ん、こ〜んな俺なのか、ほんとに、こんなじゃダメじゃないのか?」
これは大変な事です、「こうあって欲しい」は願望で、「こ〜んな人間」とか直接関わりません。何故なら「こうあって欲しい。あの人は『あんな人』なのだし、きっとそうするだろう」が正直なとこで、自分の前に「あの人そんな人?」が重要な筈だからです。「あの人はどんな人」を無視して「自分はダメじゃないのか」なんて事になると、出口はありません。「あの人にこうさせる」力を自分の在り様で保証するなんて不可能です、なんせ他人なんですから。
「あなたはこんな人じゃないですか?」と何故最初に確かめられなかったのか。(これ少々判断間違えていても問題ないんです、何故って「他人事」で「自分がこうだから」との関連性の有無が問題だからです。)
そして「あなたはこんな人じゃないですか?」と尋ねるのは誰か?(本人論としてです)
俺は「トラウマ否定論者」です。否定ってほどじゃないんですが、わかりやすく言えばそうです、代表的な不快な記憶以前に、その話(それが不快な理由)は始まっているからです。
こんな風に考えています。
極端に(実は脅迫や、不安から)「自分」が埋没してる人間関係の中にいると、人は「集団内の役割」である人格を強制される。
「エゴが代替される萌芽」はこんなとこにあるのではないのでしょうか?『根拠の希薄なアイデェンティティーの強制』の結果です。
この人物には「そもそもお前はどんな人間?」と尋ねる『主体』がありません。それは既に集団の中で定義されているからです。
誰しも体験があると思うけれど「・・・!」「。。。!!」「○○=!!」な後、数時間で「あれ、何むきになってたんだろ。あーあ言わなきゃよかった」なんて事があります。
よっぽど冷静な時が本人っぽいです。
自我(エゴ)が「占有される」、乃至「代替される」ものは何でしょう。つまりモザイクです。
エゴが統一的な概念であるとは限らないのです。
TPOじゃないですが、あの時にはこんなスタイル、このときにはこんなスタイル、てな具合です。問題はその関連性で、ここの矛盾が大きいと(少々矛盾があるぐらいOKでしょう)「エゴのテーマ」が不安定になります、いつも揺らいでるわけですから。ここを統一的にするために超自我があるように見えますが、「超」ってぐらいですから、これ離れすぎです(だいたい道徳マターがそんなに頻繁だったら大変です)。
「哲学、信念、座右の銘、好きな言葉、好きな色、星座、干支、出身、恩師、」このアイデェンティティーとも呼ばれる「基礎的過去や概念」が自我をまとめる事になりますが、この部分(フロイドは特に名前つけてないんじゃないかな)の形成が阻害されると、人は悩んでしまったり、「自分自身の中の、複数のスタイルの境界」に軋轢が起きます。時には「ポケーっと傘」にもなるってワケです(これ完全に関心が無くて自我停止なかんじっスから)。「共同幻想」は比較的超自我より、こっち(自我のテーマ)に傾いた概念です。(俺は超自我を「共同幻想」の一部門と考えるのが「当たり」と考えています)
題して「この部分」の形成はなんで阻害されちゃうんでしょう。
※重要な事になりますが、「この部分」の不足感が危機感と認知されると「新興宗教」「カルトセミナー」「悪徳マルチ商法」「流行への妄信」「普通というイメージの捏造」が入り込む隙間が生まれ、違った意味で大変な事になる事が多いです。
全体を見通す感覚(これ自分の客観像かな〜)が、規制されてるからでしょう、(これフロイドの発見した「タブー」つまりエディプスコンプレックスがその代表でしょう。)この規制が、「反発」です、うまく表現できませんね、言葉でなんと伝えればいいものか、、。うーん、、嫌な過去があるって簡単なものではないでしょう、その「嫌な理由」は『それ以前にある』のですから。
こう考えてみましょう、「こうあって欲しい、何故なら私はこ〜んな人間だから」はい、これもある種のアイデェンティティーですね。「こ〜んな人間だから」が含まれてますから。
?
ちょっと待って下さい。
だとすると、「こうじゃない時、こ〜んな人間としての私は否定された」になりませんか?
「こうあって欲しい」のは他人です。
これは危険です、他人の動向で、自分の成り立ちが「肯定されたり否定されたり」激しく乱高下していまいます。
そして悩む
「どうしてこうならないのか、俺はこ〜んな俺なのに」
「ん、こ〜んな俺なのか、ほんとに、こんなじゃダメじゃないのか?」
これは大変な事です、「こうあって欲しい」は願望で、「こ〜んな人間」とか直接関わりません。何故なら「こうあって欲しい。あの人は『あんな人』なのだし、きっとそうするだろう」が正直なとこで、自分の前に「あの人そんな人?」が重要な筈だからです。「あの人はどんな人」を無視して「自分はダメじゃないのか」なんて事になると、出口はありません。「あの人にこうさせる」力を自分の在り様で保証するなんて不可能です、なんせ他人なんですから。
「あなたはこんな人じゃないですか?」と何故最初に確かめられなかったのか。(これ少々判断間違えていても問題ないんです、何故って「他人事」で「自分がこうだから」との関連性の有無が問題だからです。)
そして「あなたはこんな人じゃないですか?」と尋ねるのは誰か?(本人論としてです)
俺は「トラウマ否定論者」です。否定ってほどじゃないんですが、わかりやすく言えばそうです、代表的な不快な記憶以前に、その話(それが不快な理由)は始まっているからです。
こんな風に考えています。
極端に(実は脅迫や、不安から)「自分」が埋没してる人間関係の中にいると、人は「集団内の役割」である人格を強制される。
「エゴが代替される萌芽」はこんなとこにあるのではないのでしょうか?『根拠の希薄なアイデェンティティーの強制』の結果です。
この人物には「そもそもお前はどんな人間?」と尋ねる『主体』がありません。それは既に集団の中で定義されているからです。
2004年05月09日
長い雨ですね。再び「本人は誰だ論」
東京は今日一日雨のようで、ほとんど傘をささない(仕事の関係でさすようになるまでは、学生の頃から公式的には傘はささないと決めていた)俺には苦手な1日になりました。その代わりに感じのいいアウトドアのお店をみつけたので、まいってこいなのかも知れません。
今日気がついたのだけれど(そもそも傘をささない宣言の理由のひとつでもある)「雨がほとんど止んだ状態で傘をさすひと」随分減りましたね。これ俺の錯覚かなぁ、、
これは俺の中では非常に重要な問題なのです。
傘をさす行動がほとんど、「自動的に行われて、意思の関与がほとんど無い事があまりにも多い」と感じていたからです。「既に雨が止んでいるのに、傘をさしていない人とすれ違わない限り、どんなに歩道が混んでいてもさしっぱなし状態」ここにも共同幻想の歪みを感じていたのだけれど、、
どう思います?
減っていませんか、ポケーっと傘をさしてる人。
ここが「本人は誰だ論」に被ります、つまりエゴ主体説になると、何か意識的に行動してる時がよっぽど本人、となりますが、俺はこれに疑問を持っています。「気の向くまま」にエゴは関与しないからです。ではこの「気の向くまま」は完全に無意識なのか?と考えてみると、そうとも言えません。
エゴが「ハイハイ」とついていくところがポイントなのかもしれません。
うまく言えないのですが、「ま、いっか」というか、、
視野には入ってますよね、エゴの。
「ポケーっと傘」ではエゴが停止しています(共同幻想が完全に代理しているからです)、この違いは何でしょう。
『エゴが何かに代替しなければならない理由』
ちょっと自己嫌悪で、抑圧された無意識の葛藤を「反動をつけたエゴ」がエゴに取って代わるのと似ていますね。
次回はこの辺を考えてみたいと思います。
今日気がついたのだけれど(そもそも傘をささない宣言の理由のひとつでもある)「雨がほとんど止んだ状態で傘をさすひと」随分減りましたね。これ俺の錯覚かなぁ、、
これは俺の中では非常に重要な問題なのです。
傘をさす行動がほとんど、「自動的に行われて、意思の関与がほとんど無い事があまりにも多い」と感じていたからです。「既に雨が止んでいるのに、傘をさしていない人とすれ違わない限り、どんなに歩道が混んでいてもさしっぱなし状態」ここにも共同幻想の歪みを感じていたのだけれど、、
どう思います?
減っていませんか、ポケーっと傘をさしてる人。
ここが「本人は誰だ論」に被ります、つまりエゴ主体説になると、何か意識的に行動してる時がよっぽど本人、となりますが、俺はこれに疑問を持っています。「気の向くまま」にエゴは関与しないからです。ではこの「気の向くまま」は完全に無意識なのか?と考えてみると、そうとも言えません。
エゴが「ハイハイ」とついていくところがポイントなのかもしれません。
うまく言えないのですが、「ま、いっか」というか、、
視野には入ってますよね、エゴの。
「ポケーっと傘」ではエゴが停止しています(共同幻想が完全に代理しているからです)、この違いは何でしょう。
『エゴが何かに代替しなければならない理由』
ちょっと自己嫌悪で、抑圧された無意識の葛藤を「反動をつけたエゴ」がエゴに取って代わるのと似ていますね。
次回はこの辺を考えてみたいと思います。
2004年05月04日
流れと意識される「本人」について
フロイド的なリビドーを「気」と考えるのは行き過ぎだと思うのだけれど、「気まま」で触れたように気の向きは完全な「自我意識」じゃありません。
「なんとなく」だと無意識っぽいし、「気まま」はノーストレスを意味しますから、ストレス(これ性格には刺激って事です)への対処としての方向付けが「自我意識」だとすっと、この「気まま」の方向性は何でしょう?
座頭市(勝新のですよ)で良く見かけるシーンに、二股に分かれた道のどちらかを選ぶ時に、小枝を投げるってのがあります。つまり「どっちでもいい」です。
岸田教授の「唯幻論」の面白いところは「幻(=意識によるイメージでリアルでは無いので)なので、どうでも良くない事などこの世に無い」つまり「どうでもいい」ってのがあります。これもパラドックスのひとつで、無価値とかを意味して無いワケです。「妙な拘り」は個体としての『自我』に由来するので、「価値の実存が拘り自体にあるのでは無い」って意味で、「でもどうでもいいなんてワケにはいかないんだよねー」が落ちです。
うまく言葉になりませんが、意識に対する自我の関与は100%ではありません。「だからこうなんだよー」な気持ちは果たしてナチュラルか?そんな感じです。ここと「謙虚」って言葉が被ります。「自分の線引き」と言えばいいのか、無意識なロジックが、無意識のままである時、それは気ままな流れなのではないでしょうか?
精神分析的には、無意識が意識を刺激し自我に取り込まれるときに「反動形成」や「自己嫌悪」によって、動機は「デフォルメ」されたり「反対」になったりします。問題とされているのは「矛盾した意識」そのもので、自我の在り様ではありません。
つまり、自我に取り込まなければならない理由が「矛盾や葛藤」だからです。
かなりわかりにくい論議なんですが、、
本来自我の出番じゃないのに、仕方なく自我マターになる悩みは、元々の自我には本来関係無いので「悩む自分」を自意識の中心であるかの如く考えるのは不自然なんです。
繰り返しますが「無意識の中に矛盾や葛藤がなければ、その意識は自我マターじゃ無い」そして「無意識って判断や言葉による方向付けをする場所では無い」。
これをどう考えるのかです。
悩む経緯は自分の過去のイメージと関連があります。
人のアイディンティティーは過去によります。
そしてその形は自我と無意識の組み合わせです。
悩みは、時制として「一時期無意識に保管された」のであって(抑圧といいますが)自分自身でも「本来無意識管理じゃない」とわかっているので「嫌悪構造」とかをセットにするのです。
その意味は?
それ以外の自我の成立とアイデェンティティーの温存です。
「素の自分」のイメージってどんなものでしょう。
やはり悩みってのは、自分にとってはた迷惑なトラブル(だから抑圧されるのですから)であって、悩んでしまう構造を「自分だ」と感じてしまうのは、その意識が矛盾を含んで(悩むほどに)自我を専有し続けるため、自我は「これはよっぽど重要なんだ」と誤解した結果なのではないのでしょうか。
悩みが晴れた後に「まるで別人ねえ」となるのでは無く、そこにあるのは「本来の自分の回復」であるのだと思います。
だからこそ、悩み自体をペシミスティックに評価したり、劇場的な物語として捉える事は危険だと思います。叙情や感傷、ノスタルジーや感動、、こういった事はどこか客観的な部分からきてると思いませんか?
それに主観を支配される事は「悩みによる占拠」であって、素の自分は他にある証明なんだと俺は思います。
「なんとなく」だと無意識っぽいし、「気まま」はノーストレスを意味しますから、ストレス(これ性格には刺激って事です)への対処としての方向付けが「自我意識」だとすっと、この「気まま」の方向性は何でしょう?
座頭市(勝新のですよ)で良く見かけるシーンに、二股に分かれた道のどちらかを選ぶ時に、小枝を投げるってのがあります。つまり「どっちでもいい」です。
岸田教授の「唯幻論」の面白いところは「幻(=意識によるイメージでリアルでは無いので)なので、どうでも良くない事などこの世に無い」つまり「どうでもいい」ってのがあります。これもパラドックスのひとつで、無価値とかを意味して無いワケです。「妙な拘り」は個体としての『自我』に由来するので、「価値の実存が拘り自体にあるのでは無い」って意味で、「でもどうでもいいなんてワケにはいかないんだよねー」が落ちです。
うまく言葉になりませんが、意識に対する自我の関与は100%ではありません。「だからこうなんだよー」な気持ちは果たしてナチュラルか?そんな感じです。ここと「謙虚」って言葉が被ります。「自分の線引き」と言えばいいのか、無意識なロジックが、無意識のままである時、それは気ままな流れなのではないでしょうか?
精神分析的には、無意識が意識を刺激し自我に取り込まれるときに「反動形成」や「自己嫌悪」によって、動機は「デフォルメ」されたり「反対」になったりします。問題とされているのは「矛盾した意識」そのもので、自我の在り様ではありません。
つまり、自我に取り込まなければならない理由が「矛盾や葛藤」だからです。
かなりわかりにくい論議なんですが、、
本来自我の出番じゃないのに、仕方なく自我マターになる悩みは、元々の自我には本来関係無いので「悩む自分」を自意識の中心であるかの如く考えるのは不自然なんです。
繰り返しますが「無意識の中に矛盾や葛藤がなければ、その意識は自我マターじゃ無い」そして「無意識って判断や言葉による方向付けをする場所では無い」。
これをどう考えるのかです。
悩む経緯は自分の過去のイメージと関連があります。
人のアイディンティティーは過去によります。
そしてその形は自我と無意識の組み合わせです。
悩みは、時制として「一時期無意識に保管された」のであって(抑圧といいますが)自分自身でも「本来無意識管理じゃない」とわかっているので「嫌悪構造」とかをセットにするのです。
その意味は?
それ以外の自我の成立とアイデェンティティーの温存です。
「素の自分」のイメージってどんなものでしょう。
やはり悩みってのは、自分にとってはた迷惑なトラブル(だから抑圧されるのですから)であって、悩んでしまう構造を「自分だ」と感じてしまうのは、その意識が矛盾を含んで(悩むほどに)自我を専有し続けるため、自我は「これはよっぽど重要なんだ」と誤解した結果なのではないのでしょうか。
悩みが晴れた後に「まるで別人ねえ」となるのでは無く、そこにあるのは「本来の自分の回復」であるのだと思います。
だからこそ、悩み自体をペシミスティックに評価したり、劇場的な物語として捉える事は危険だと思います。叙情や感傷、ノスタルジーや感動、、こういった事はどこか客観的な部分からきてると思いませんか?
それに主観を支配される事は「悩みによる占拠」であって、素の自分は他にある証明なんだと俺は思います。
2004年04月30日
性格傾向について
精神分析的には、「性格」って「格」は無い事になっています。
つまり自我は無意識とのバランスで流動的だからです。
しかし時制を限定すれば「性格」はあります。俺は特に名称には拘りませんが誤解を避けるために(一般のイメージでいう性格は固定的なイメージなので)「その時の向き」みたいな意味合いで、性格傾向とか人格構造とか自我構造とかそんな風に呼びます。
意味合いは「モチベーションの流れ」です。出口が狭いと流れが速くなり、出口が広いと流れは遅くなる。そして出口の概念が無いほど自由だと、流れというより「凪(ナギ、これ漢字あってますかね?)」になる。この流れの速度と感情の激しさは比例関係にあります。つまり「アリ」の多さと「タブー」の少なさが鍵になります。精神分析的には「何かが出来る能力の有無」はあまり関係無いのです。
出来る出来ないも大事ですが「出来ない」というストレスは「出来なきゃいけない」か「どうしても成功したい、という、モチベーション(加速度)」によるのであって、個人個人にとっては前述の出口の広さと相互関係になるワケです。つまり出口が狭いので「出来る出来ないが重要になる」って事です。
感情の激しさにいいも悪いもないので、問題になるのは、「全く出口が無い」とか「出口を無意識に閉じてしまう」ケースになります。
だからこそ性格傾向なんです。
なんと言えばいいのか、所謂「性格」って「ある状態」の事で、「そういう形」ではありません。一見構造なんて言うので建造物みたいですが、構造っていうのも「ある流れの状態」の理由っていう意味合いが大きいでしょう。さてそこで「凪(ナギ)」に話はもどります。これってほとんど実際の人格構造からありえない事です、これは「能動」の溜まり場である「カオス」まんまで再現性はベストですが、これじゃ行動できません。動機形成には「ストレス=ぶつかり流れが生まれる」による流れの方向性が必要だからです。これがまたアイデェンティティーなので話は複雑です。
次回は、「自分」という認識と「流れ」の関係を考えてみます。
つまり自我は無意識とのバランスで流動的だからです。
しかし時制を限定すれば「性格」はあります。俺は特に名称には拘りませんが誤解を避けるために(一般のイメージでいう性格は固定的なイメージなので)「その時の向き」みたいな意味合いで、性格傾向とか人格構造とか自我構造とかそんな風に呼びます。
意味合いは「モチベーションの流れ」です。出口が狭いと流れが速くなり、出口が広いと流れは遅くなる。そして出口の概念が無いほど自由だと、流れというより「凪(ナギ、これ漢字あってますかね?)」になる。この流れの速度と感情の激しさは比例関係にあります。つまり「アリ」の多さと「タブー」の少なさが鍵になります。精神分析的には「何かが出来る能力の有無」はあまり関係無いのです。
出来る出来ないも大事ですが「出来ない」というストレスは「出来なきゃいけない」か「どうしても成功したい、という、モチベーション(加速度)」によるのであって、個人個人にとっては前述の出口の広さと相互関係になるワケです。つまり出口が狭いので「出来る出来ないが重要になる」って事です。
感情の激しさにいいも悪いもないので、問題になるのは、「全く出口が無い」とか「出口を無意識に閉じてしまう」ケースになります。
だからこそ性格傾向なんです。
なんと言えばいいのか、所謂「性格」って「ある状態」の事で、「そういう形」ではありません。一見構造なんて言うので建造物みたいですが、構造っていうのも「ある流れの状態」の理由っていう意味合いが大きいでしょう。さてそこで「凪(ナギ)」に話はもどります。これってほとんど実際の人格構造からありえない事です、これは「能動」の溜まり場である「カオス」まんまで再現性はベストですが、これじゃ行動できません。動機形成には「ストレス=ぶつかり流れが生まれる」による流れの方向性が必要だからです。これがまたアイデェンティティーなので話は複雑です。
次回は、「自分」という認識と「流れ」の関係を考えてみます。
2004年03月25日
仕事を精神分析してみる
仕事ってなんでしょうかね、人によっては自分のプライドを左右する一大事になるし、その仲間で自分の経験を「たいしたことないんだよ」と語る人もいます。
しかし、仕事は仕事です。
自分の労働で一定の成果を得ているのであって、それと個人の存在自体には何の関わりもありません。あるとするとそれはきっと「本人の自覚」なのでしょう。
よく考えると自分に満足してたら、どんな仕事でも、給料がいくらでも「いい仕事」なんだと思うんです。
しかし、仕事は仕事です。
自分の労働で一定の成果を得ているのであって、それと個人の存在自体には何の関わりもありません。あるとするとそれはきっと「本人の自覚」なのでしょう。
よく考えると自分に満足してたら、どんな仕事でも、給料がいくらでも「いい仕事」なんだと思うんです。
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