2008年02月16日

実存主義と精神分析

精神分析の論議で欠かせない哲学思想に『実存主義』がある、
ここねぇよく勘違いされる向きもあるんだが、
精神分析的な位置付けにおける実存主義は、精神分析捉え方の中における”非常に有効な定義”の事で当然哲学的な意味を標榜している等そういう話じゃない。
「コンプレックス」って言葉が精神分析を説明する上で重要な概念であるのと同じような話。

実際この実存主義の概念なるものは、まー平たく言うところの「禁欲主義や快楽主義やペシミズムだのヒューマニズムだの道徳主義や伝統保守思想やら」何かこう”するといいよ”的なベクトルがある話じゃない。
wikiからそれをよく現している部分を引用すっと
人間の実存を哲学の中心におく思想的立場。実存(Existenz)の元の邦訳は「現実存在」であったが、九鬼周造がそれを短縮して「実存」とした。語源はex-sistere(外に立つの意)。
実存主義は、普遍的・必然的な本質存在に相対する、個別的・偶然的な現実存在の優越を主張する思想である(「実存は本質に先立つ」)。時間の流れの中で、いまここで現実に活動している現実存在としての「私」は、ロゴス的・必然的な永遠の本質を否定された自由な実存として、あらかじめ生の意味を与えられることなく、不条理な現実のうちに投げ出されたまま、いわば「自由の刑に処された」実存として、他者と入れ替わることのできない「私」の生を生き、「私」の死を死ぬことを免れることはできない。
のような生を、絶望に陥ることなく、いかにして充実させていくかが、実存主義にとっての課題ということになる。

(これだけでも面白杉だわな)

ま、言い換えると「そういう考え方」って事さ(笑
考える手法とか、視点とか”立ち位置をさす用語”だと考えてもいい。
その状況を発見ってか「気がついちゃった人」を実存主義者と捉えても遠からずなんだが、、
なんちゃら主義者の成立には、その気がついちゃった考え方を頻繁に利用する事を由とした人って背景が無くちゃいけないのは言うまでも無い。
が、しかしね、
精神分析的には、これに気がつく人格構造には特定環境みたいなんがあって、おおよそ気がついちゃう人は滅多にこの立ち位置のプライオリティーを低く見る事はできない。

とまーいうワケで実存主義的発見とは「精神分析的に何の事か」って話、
続きを読む

2008年01月22日

カウンターと反動形成

「カウンターをあてる」これは強迫構造下に在るときに抑圧された自意識を起動させる手法のひとつです。
ま、そのまんまなんですが、
言うなら「カウンター思考をすると、その反対の思考が自意識のテーブル上に展開する」という話です。自意識の抑圧が無難に成立(構造化)してしまうと、この強迫の主体は元から無意識なので一見「なにげない日常」にも見えます。
しかし、実際のところは自意識が抑圧されるために思考や認識のかなりの部分に”(無意識なので)無自覚な”偏向フィルターがかかります。

この状況下だと、現実認知が本来そこにある現実と大幅に乖離してしまい、見当違いなストレスを感じでしまったり、他人の心理に対する”読み”みたいなものも何か劇場的な雰囲気であるかのように脚色されてしまったり、
ここの背景には”自意識が抑圧されている体感”という漠然として恒常的な不快感が漂っているので、過剰な被害認知と相まって誰一人思ってもみない”現実”にひとりで振り回されるなんて現象が起きるのです。
見当違いな人物に激怒してしまったり、
他人の特別他意の無い(挨拶程度の)言葉に、事実関係に存在しない尾ひれはひれが付いてやたらと被害感を感じてしまったり、
同様に、『自分自身で思いついたアイデア(想定外の自意識マター)を殊更大問題に感じてしまったり』、
のどかな自然の風景(人間社会だって所詮自然の一部です)が、何か殺伐としたジャーナーリスティックな(シドニー・ルメット監督作みたいな)激しく事件性のある「自分物語の舞台」にみえちゃったりして、

これ甚だ疲れる上に、肩凝っちゃうワケです。
(マッサージや整体が効果的なのはマジな話)

かといって強迫構造の正面には、トラウマにも似たデフォルメされた不快な記憶が背景にありますから、ここに自立的に切り込むのは難しい。
知識も無くダイブすれば自我がもたない可能性もある、
デフォルメされた強迫構造を仮想実現化してしまって、過剰なストレスを感じてしまう事だってある(この辺が臨床系からの精神分析への”誤解”と”無知”からくる批判なんかになったりする)。

何もそれほど難しく考える事無く、ここは心理学の王道でどんと構えればいいのです。
強迫的な認知の中で、このフィルター通過して動機形成が行われる現象あります。
これを『反動形成』って言うんですわ、
これ何かと言うと、誰もが強迫構造を前に潰されるようにダウン(これが鬱)するのでなく、それを満足させようと「誇大な欲求」を動機形成する事があります。
そりゃ人間「何一つ強迫等無い」なーーんて人はいないので(問題はそれが不快か否かって事なので)、この反動形成は誰にでもある現象で、

話をわかりやすくする意味で、強迫構造と絡めずにこの事例を説明してみると、
「カレー食いたい」と、駅前のカレー店へ、
倒産の看板(ここに自意識は無関係ですよね、なかば強迫的に食えないのと同じ)
「カレーへの食欲が抑圧」
そのまま耐えれば我慢って事なんでしょうが、そもそも腹減っているしそれじゃ気がすみません。
仕方が無いので、二軒隣のラーメン屋に
「チャーシュー麺ちょうだい、もうさチェーシューありったけ大盛ねっ」

断念され抑圧されたカレーと代替するために、「チャーシューがありったけ」になる。
簡単に言えばこんな現象です。

「僕寿司屋になろうかなぁ、、」
 ↓(強迫構造により抑圧)
「僕は、有名レストランのシェフにならなければならない」
コレ反動形成

ある意味、強迫構造のフィルターを通過するための法則でもある。
「極端、極大」
理由は簡単なんですよ、
強迫構造のコアはデフォルメ(現実と乖離しているイメージ)なので、これに対峙する上で負けないぐらい話を極端にすると”均衡しちゃうので”強迫構造そのものロジックが表面に浮上する、そしてそれを自分の自意識で確認する事もできるって話です。
続きを読む

2007年12月28日

心理学と一般論

何の話かって、
これが以外と「やっかいな話」(説明になってないか、、)


狭義の精神分析から考えた方がわかりやすい、
そもそも精神分析は計測用の機器(スケールとかメジャー)のようでもあったり、言語解析的翻訳機(なので個人的には”デ・コード”って言葉をよく使う)のようなもので、思想でも哲学でも無い。むしろ哲学における実存主義が精神分析的発想なんであって、精神分析単体は「動物行動学の方が相性がいい」言うなら「人間行動学」みたいなもんだから。

しかし世間と申しましょうか、一般論の世界はそれが一般であるが故に『共同幻想的決まり事や与件』が多くなる。
なんでしょうね言葉にすると「それをいっちゃーおしまいよ」とか「それはネタバレだろ」みたいなタブーを残している。

なものだから、”そこまで分析したらやり過ぎ”的「歩留まりの法則」のようなものがあって精神分析形の理論部分の話ってのは「そこまで話すと誰彼と無く怪訝そうな顔をされる」ことも随分ある。しかしここからが「やっかい」なんだが、
精神分析は体系として「どこまでも分析できるから理論になり得ている」とこが、逆に精神分析のわかりやすさ→「制限無くタブーも無しにロジックをオープンソース化する仕組み」なのであって、検証とかその証明(プルーフの方)の意味で、制限付きにすると大幅に分析の理論的な背景が破綻してしまって、関連を認識すれば「ある意味特別な才覚無くても理解が早い」ものなんだけれど、制限をつければつけるほど「分析そのものが難しくなる」傾向がある。

それこそ「局面局面の一部のみ精神分析の理論を拝借」すると、「そもそもどうしてなのか」的な背景が関連性が欠落してしまうので、”臨床例的な統計分類”しないと「どれがあてはまってんのか」わからなくなってしまう。

なので、精神分析を使える使えないって才覚があるとするなら、「どれだけ与件化された構造が少ないか」とか「共同幻想の外側から共同幻想を第三者として認知しているか」なんかが重要になる。
これって=『アウトサイダー』だから、
ある意味、単独の開業医なんてスタンスが映画的な絵として似合っているのは、シナリオの枷的にも都合がいいからで、絵的に言えば正義感に燃えてもいかんし、個人的な思想や心情を投影してもいかんのであって、自分自身の立ち位置が常に第三者的であるのが適正になる。
精神分析が使えるといっても、何も用の無い時は「只の人」だから。
そもそも権威性は馴染まない(権威性のコアとなる倫理的道徳判断なる部分にリテラシー的意識は高くてもヒエラルキー的順列を持たない)。
続きを読む
タグ:精神分析

2007年10月03日

快感原則ってものを考える

時には「快・不快原則」とも呼ばれるものだけれども、これって意識的っていうより動物行動学的な”脳内の鉄板振り分け”の話。
労働で言えば「インセンティブの無いところに人は働かない」のような原則論の話で、「食べたいと思う食品はそのとき不足している栄養分と近い事が多い」とかの話じゃないが、生理的な意味での欲求と現実がリンクしているケースがあるように生物としての原則論の部類に属する。
ここが心理学的にやっかいなのはいかにも自意識が”快か〜ん”と認定するものが『快感では無い』って部分。

なんせ、この「脳内では快感だ」な説明に一苦労する。
快感論議ってのを、ヒトの行動の組み立てそのものから見ていくとしよう。
ここで言う行動ってのは「腹減った」とか「眠い」とか「むしゃくしゃスル〜」等のような『ストレス信号から始まる動機形成を必要とする意識的行動』の事で、習慣化された行動のような無意識的ルーチンの事では無い。確かに無意識的ルーチンにも快感原則は機能しているんだけれど(非習慣=バトルプルーフされていない行為=リスク=不安=常識=罰、なんかの連想による不快感)、そこまで話にいれちゃうと余計わかり難くなるのでひとまず例外としよう。

さて『ストレス信号から始まる動機形成を必要とする意識的行動』って奴を取り上げて流れを単純化して見ると、
「腹減った」→ストレス信号→「判例主義的連想カレーライスか?」→「自意識選択:そうだなカレーだな」→「カレー屋探す」→「カレーが無い場合も考える」→「○○を食べる」てな感じになる。
動機形成って部分から言えば「自意識選択の部分から→カレーが無い場合も考えるまで」なところで、肝心要のポイントは『その時既に最初の欲求食欲から一部話が逸れている』ところになる。まかり間違うと「カレーを食べたい欲求」と本人疑いも無く思うからだ。
ここの「○○欲」の解釈が、やたらと難解なので説明に苦労する、
「プラダのバッグ欲」なんてものが生物の普遍的な欲求である筈無いのであって、その原形(カレーの例では食欲)を”結果から推定できない”ものだと断言して考えた方がラク、

どういうことかと言うと、
「確かに今カレーを食べたいと思っているから、”元ネタ”は食欲だな」とは一概に言えないのだ。そりゃ中には「ヤケ食い」とか、「グルメ」等のように「カレーを食べる」って行為が必ずしも”食欲に限定される行動では無い”からだ。
それこそ「高級ホテルのレストランでディナーを」となれば、それは食欲だけを満たす行為だと考える人はそりゃいないでしょうよ、そういう事。

同時に考えなくちゃいけない事は特に動物行動学的『ヒト科の場合』、その生活は恒常的性的欲求ストレス下にあり、その動物的な性的ストレスは一部昇華したり反動形成されたり、独自のSEX的文化に矮小化したり既に”原形を失っていて”広く漠としたモチベーション(快感による満足を目論む欲求)に還元してしまっている事で(動物的性欲という原形を想像させるような行為は既に人類の行動様式の中に存在しない)、同時に動物行動学的にはその性欲が非常に強烈なモチベーションでもある(これは特に繁殖によって種族保存とする哺乳類の場合最強であって当然)。そこで、心理学ではこの代表的な欲求である性欲(これ”原形としての意味”よ)を「漠としたモチベーションを計るバロメーター」と見ていけば間違い無いだろうと考えていて(自我が関わるとなると余計)、フロイド辺りが話をわかりやすくするために「ま、それは性欲なんだが」と言ったものだから、意味をよく理解していない外野席から「心理学でいう欲求は全部性的衝動に裏打ちされた”所謂性欲”の事か」といらぬ誤解に始まる意味不明の批判を受けることにもなった。ほんとに困ってしまうんだけれども、反動形成された性欲の一部は名誉欲でもあり、象徴化されたものは一部家族愛にもなり、場合によっては愛国心にもなり、いかにも短絡な性欲が=動物的性欲なのかと言う命題は”繁殖を前提としない性”や”ファッションであったり虚栄であったり”或いは家族関係からくる(二段活用みたいな)コンプレックス反動の恋愛感等も合いまって、様々な欲求に分化している(食欲の一部にも性欲関係しているし)、心理学世界が発見したのは”素で暮すにしては過剰なまでの欲求”が人類に普遍的に存在しているところがポイントで、その欲求は原形である性欲が解体され自我に解釈される存在に帰した時点で、漠とした欲求の代表者となったって事。
続きを読む

2007年08月30日

自我構造の周辺事態

そもそも構造分析で各種専門用語が登場するのは「その様子を整理して分析者が理解しやすくするため」であって、なんかそういう名前の”部位”があるのではない(笑
ここが随分と誤解されるところで、それこそ心理学の授業でもって、テストの時に「○○なんちゃらをする自我は何?」なんて出題を真剣に考えて記憶するとなんか意味があると思うこと自体とんでもない論理矛盾で、ここが行き過ぎるとフロイドですら「ちょっち失敗したかな〜」と言われる力動論(物理的ってか数量的に抑圧構造なんかを考えようとした:リビドー論みたいなもん)やら、某オカルト系心理学なんかでまことしやかに語られる「○○となる因子がある」みたいな、なんていうか構造ってからマジになってそんんな”部位”が独立してあるかのような飛躍(その時点で解離性じゃネーカみたいな)があると”既に心理学の体を無していない”なんて事にもなりかねない。

実は投薬を含む精神科の在り方にも重要なところがあって、精神分析には即効性が無いのはご存知のとおりなので、急性の鬱(会社の倒産なんかの外的環境の大きな変化に自我が追随できずに瞬間的に人格構造が鬱的傾向に傾き、その外的変化がおおよそ簡単に解決しない結果これが仮想的に構造化する:元来仮面鬱じゃないけれども鬱的傾向のキャリアのように危険な要素を元々持っているとも考えられる=真面目な人=道徳的強迫と自意識の抑圧)で、その症状それ自体へのショックも二次災害の様相を呈して、反射的な自殺衝動などの危険性が高いとき等これ人命に関わる事なので、緊急の即効性が要求されるワケで、
精神科医療が心理学的背景を軽視というか「それは文系でしょう」と考える見解も「餅屋は餅屋」の論理じゃないけれど必ずしも矛盾するものではない。(実際、遺伝病や事故による脳の障害等身体的に病理性のある問題は精神科や神経科、脳外科の専門分野になる)
昨今の欧米の傾向は、この緊急性のあるものや病理性のある診断は一般の内科や外科のある総合病院に統合される方がむしろ合理的ではないかという見解があって、「独立して精神病院」が存在する事を問題視する動きもある。
その統合的在り方のひとつが診療内科(カウンセリングがうけられる場合もある)とも言えるので、心理的な問題もようやくその事実関係に社会が追随してきたかという側面がある。

棲み分けといったらおかしいけれども「自立的に思考した結果相談に及ぶ」という動機形成を見れば、心理学サイト等の運営にあたって相談先が違いますって事例は構造的に発生しないし、同時に緊急性を感じたり人命に関わるという連想には「病院」という構造もとても一般的な関連となるので、そうそうここにギャップが生じる心配は無い。
問題がおきるとすると、本来慢性的な自我構造の問題がある時に、その自我防衛的発想からカウンセリング等の心理学的アプローチを避けるために(極端な事を言えば「問題のある自我を保守するため」)投薬によって不快感だけなんとかしようとする場合で(これも自意識の決断であればアリとも言える。自我の問題は必ず解決しなければならないなんて普遍的概念はどこにも無い)、一種この逃避的とも言える行動がケースによっては不快感の原因をより深刻化するケースがある事だ。
※これも”そのケースがある”という確率論なので、そうに違いない等という話ではない。

何故ってここにそもそも自我構造が関わっているからだ。

「自我は動機形成の機関」と考えると易しい。
事実認定を行い、現実の環境を掌握し、五感からくるストレス信号を受けこれを行動選択に振り分ける。
もっぱら”ヒト”はそれをロジカルな過程で行うので(パブロフの犬実験じゃないけれど、魚→エサ→食うみたいな直線的なものではない)、極めて弾力性が高く融通も利く、その代わりに優柔不断でもあり得るのであって、この動機形成がスムースじゃないと簡単に欲求不満にもなる。
そして今度は欲求不満ストレスから動機形成し、、、と、こういう流れなんだけれども、こういった複雑な心理的な過程が他の動物にも無いのかと言えば、こればかりは実証がとても難しいのだけれど在ると想定した方が自然だろう。
しかし、ヒト以外の多くの動物は比較的単一な行動様式を変える事は無い(面白くない事があって突然キャッチボールを始める鹿はいない)、その背景を考えるならワイルド環境下の動物達はかなりの心理的ストレスとともに生きている(哲学的には「ストイック」に近い)とも言えて、ワイルド環境下での寿命の短さにここがかなり関わっているのも事実に思う。

但し、ここには重要な差異がある。
続きを読む

2007年08月11日

自意識過剰を広義で確認しておこうと思う。

一般論的意味や解釈だと、”自己中心的”と同じように「ちょっと勘違いしている人」のような代表で使われている言葉だけれど、心理学的にこれを確認していくと、ニュアンスというかその意味は随分と違ったものになる。

これは認知における現象で、
事実を認知する時、人は様々な情報を元にこれを把握する。視覚や聴覚なんかの五感や客観的視点、常識論(共同幻想)的反射、判例主義(象徴的過去)的連想や投影、主観、特定他者への感情移入によるシュミレーション、背景となる状況判断、人間の脳はスパコン並の処理能力があるのでこれを瞬時にやるワケです、
その上で「火事になっちゃうじゃん」とか。
時と場合によっては「人に聞く」事でその裏取もします。

ここで認知が自意識(主観)に偏る(過剰)現象を『自意識過剰』と呼ぶ、
上記説明の最後に出てくる”裏取”に象徴されるように、そもそも現実認知というのは正確性を欠くものだけに、なんとかこれを他の人の意見を聞いて補完してでもなるべく誤差の無い様に確認したい(確認したいと思うほど不正確)と考えるのがむしろ自然で、生きているという現象は同じ一日をテープを繰り返し再生しているのではないのだから、その事実認知の確認こそが新規の記憶の処理=自我の変質にも直結している。
つまり、『自意識過剰状態=自我が保守形態である』
ここを逆さまから考えるなら、現在の自我を保守するために自意識過剰の状態が構造的に確立していると見る事もできる。

”現実”という記号も所詮は抽象概念なので、「現実を喪失」と考えるより「現実認知を構築するプロセスに無理がある」の方が正確かもしれない。
一番ナンセンスなのは具体的な争点で「それはこうじゃないだろう」的にそれを修正しようとする事で、むしろ効果的なのは”前提となる現実認知の修正”に他ならない。
結論と事実認定そのものには合理性があるのだから、そこには論議の余地が最初から無いからだ。
政治の世界には面白い言葉がある。
随分とひとり歩きしている言葉なんだけれども「女性の視線で考えます」「主婦の視線で参加します」とかなんとか、一見よく聞く台詞のようで実はこれ一般社会で使う人ほとんどいない。そして一番この言葉に矛盾があるのは使う人そのものが”女性や主婦”であることで、いかついオヤジ議員が
「私も女性の視点で考えます」「主婦の視点で今回の政策に!」等と発言した方が(別の意味で問題視されるかもだけれど)そりゃ言葉としてはよろしい感じがする。
根本的な問題はそこになるのだしね、

つまり自意識過剰というのは、極論本人が男性である場合なら「自分が女性として考える」であったり女性であれば「自分がマッチョな男性として考えてみる」のような多様性が”無い”状況の事で、随分乱暴な言い方をしてみると、自意識過剰か?な時には男性なら女言葉で・女性なら男言葉で考えてみるだけでもそれ以前の現実認知の偏りに自分自身でも気がつくのじゃないか?
あまりに「ちょっとどうなの」なアプローチだし、技術がいるので誰にでもできるってワケじゃないのでナンセンスだけれど、
「ちょっと同じ事を女言葉で話してみてください」みたいな投げかけが自意識過剰解除のキーには違いない。

2007年08月03日

現実認知と存在

岸田的な『唯幻論』のイメージは、人の自我が確からしいロジックとして事象の認定をしているって一種の間接性を表しているんだけれども、心理学的に言えばもうちょっと深い意味もある。一種のベクトルというか判断する”計りの概念”が自身の自我に内包されている上”何を計って事実とするか”すら無意識領域の連想性のロジックに負っているためそこに置かれる自我の受動的脆弱さを意図しているとも言える。
ここをもう少し広げて考えてみると、
人の数倍も嗅覚の鋭い犬や、超音波ソナーで物体認知を行うコウモリがその現実認知の脆弱さに「困っているか?」と言えば否だ。
それはこの一時情報は情報に過ぎずない、以降何らかの判断する集合になった瞬間それは現実となるのだから、現実定義における主導性はむしろ自我にあるのであって(コウモリには信号の色はほとんど無価値な現実)自らの実存にとって関わる情報が現実なのであってこれが揺らぐのじゃ無い。
では、何故人間の自我には脆弱性があるのか?
ここには、人間の動機形成と存在との連想性が”酷く曖昧”だって部分、つまり「本能の代替としての自我の曖昧さ」に発端があるのであって、動機形成のプロセスとアイデェンティティーとの連想性の在り方が即ち実存なのだと言える。
「実存の前の現実は明快である」と、言い換えていい。

心理的な不安は=アイディンティティーの不安であって、これは構造的に自意識と無意識のバランスによる自我矛盾=アンヴィバレントな葛藤の要因でもある。つまり情報を現実足らしめる存在が幻のように揺らいでいるのが以降の悩みの原因で、フロイドが失敗した力動的解釈を失敗する事を前提にたいした意味もないレベルで考えてみると「自意識がどれだけ総花的無意識からパーソナルな自意識に現実認知の基準を代替したか」と言い換えてもいい。特に現実認知の時制が問題になるかと言えば無意識退行がノスタルジーを発端とするように、無意識的判例主義の時制は過去に重きを置いているのであるから、人の自我は常に「過去か今かを問われている」ことになる。
コウモリと信号の色程度の問題であれば現実を幻とは言わないが、色(印象)のついている過去が関わってくるので幻並なんだと、

「目の前の原色が現実には違いが無いが、それがより印象の強い過去のフィルターをかけた表現に負ける」
続きを読む

2007年07月11日

当事者意識についての誤解

言葉としては『当該意識』の方があってるような感じするのだけれども、当事者にも違いはないので言葉的にはアバウトでもいいでしょう、
鏡像論と例の量子力学論を拡大解釈すれば、即ち認知されている現実は『自意識に脚色された舞台に過ぎず解釈の余地を残す一定のシステムである』となるんであって、現実なるものを認識する事はできても、これを特定したり個別に論議する事はできない。
現実は認知された現象だけの矮小な事象であり同時に観測された時点でそれは既に過去のものだからこれを総じて認知するなら、一定の確立による推定を超える事ができないからだ。

この現実の非計測性は、ついうっかりすると「現実的」なる言葉の”的”部分の推定の事かと勘違いされてしまうんだけれど、この両者は全く別物。
現実とは一定の推測と、その瞬間過去として認知される事によってしか証明できない”全体”を指すのであって、ロジカルな個別の推定の無難な線を意味する「現実的」なる言葉とは概念から違う現象だからだ。

厄介な事に、この現実なるものは当該する自我にとって必要な概念に過ぎずひょっとするとある種のパラドックスかも知れないぐらいの勢いの代物で、『実存』で考えた方がよっぱど認識性も高い。
まー哲学の実存主義を哲学として考えるほど深い話じゃない、
実存主義哲学には発想そのものに心理学的にも偉大な発見があって、それを使わないでどうするみたいな話。
つまり、唯幻論ってキャッチコピーがそれこそキャッチなのは、そもそも自我が認知する現実の”現実”がいとも矮小であるからで、哲学的な意味での実存は認識されるべきロジカルな見方じゃなくて証明される存在の事になるので、「ほんとう(実存)はこーなんだけれど、当事者として関与する私の自我にはこーなる(現実)んだよな」な世界に自我は置かれている。
つまり当事者意識とか当事者責任、当該意識って代物は「ここに自分が関わる関連性や連想性から現実を切り分けしている」のであって、評論家的存在でもある。

その評論の論旨に意図的なベクトルがかかると、「ピカソの絵は子供の落書き、で終わり」でも何ら不思議じゃない。

つまり当該する自我によっては、執行者である自意識に「人類にとっても貴重な芸術」にも見えたり「一円の値打ちもない単なる落書き」にもなる可能性はどこにでも存在する。
それを決定しているのは”自我の関与”であって、そこに実存している”ピカソの絵画”は何ら変化しているのではない(自我に認識されない要素こそ実存=自我に認識されるものは幻)。
続きを読む

2007年07月04日

システム論

再三心理学をテーマにした話で登場する『共同幻想』って言葉だけれども、これを心理的な切り口じゃなくて文明化社会におけるシステムとして考えてみよう。
どうも心理学的な話だけだと、心理学の性質上概念のあり方が個人ベースに偏りがちでどうにも社会学的な社会適応的発想との関連を認識しにくいからだ。
実際の話個人心理学の水平で集団心理の枠を論じていても、「仮想敵国の心理的な意味合い」てーな枠から出る事は多くないので、『共同幻想』をベースに派生する集団心理や社会心理ってな存在の構造それ自体が説明する事に無理がある。

卵が先かニワトリかって話に限りなく近いんだけれども、これシステム論で考えればモデル自体は実にシンプルだ。
社会を構成する個を想定するためには、仮想上の普遍的自意識を各々の個に定義しなければ共通意識としての合理性が担保できないのでその集団を社会とは呼べない。
かといって、個々人に無秩序に仮想上の普遍的自意識を定義しても各人の考える集団的秩序という概念がてんでバラバラならそこには”法”というような外部的な概念をガチではめ込まないと機能しないし、その準備段階としての”教育”というシステムによってそれを実証する必要もある。
ところが、仮想上の普遍的意識って奴の容量は逆算する事も出来ないし、話の発端である個々人の自我の発想その全体を拘束する概念は存在しないのだから、機能的なシステムとしてこれを完成させるためには随分と哲学的に広がった普遍的価値体系でこれを拘束する方が機能的であるには違いない。
たとえば”バイブル”や”コーラン”、
しかしダイレクトにその著者に書かれた意味を問う事のできないロジックは、常に解釈の予知を残し結果として普遍性そのものを担保できないので、確かに民族性であったり地域文化の醸成に一役買う事は間違い無いのだけれども、それが完全な社会モデルの構造に寄与するのかって言えば「何とも言えない」のが本音、

近代以前の血縁社会で言えば、その普遍性を非個人的血族の常識的なくくりで自我の自由度を拘束してその共同幻想の収まりを担保する事も可能だったけれども、この場合には地域性や伝統といったもので、そもそも各血族の普遍的価値意識を擦り合わせしない事には、いけないのであって個々人レベルでは安定しても、社会としては至極不安定でもある(アフリカでは氏族間の戦争が今でも続いている)。

近代社会ではこれを民主主義による「改正を延々に継続する法」という概念で構成する事になるのだかれども、いかんせん運営に時間のかかる民主主義社会では、外部化された価値体系を構成する事はできないしそれは超越的にも上部構造的にもなり得ない。
むしろ「改正を延々に継続する」という民主主義における最も重要な部分が、法案の普遍性を逆に毀損してしまうから、その外部的価値体系は常に暫時的だし刹那なものでしかない事になる。
近代以降の共同幻想の不安定化は、そんな社会の流れに応じて流動化し曖昧化するのだけれども、結果として「個々人の自由度の拡大」をそのバータとして獲得する。
回答は実にシンプルな物で、共同幻想の不安定化による個々人の人格モデルの不安定化も実体として個々人の独立する価値体系によって代行されて→民主主義の発展とパラレルに関係するってストーリーになっている、
続きを読む

2007年06月13日

情報格差と人格構造の関連性

すっかり格差と言えば論議が所得格差って話になってしまっているんだけれども、ついこないだまでの論議の中心はやっぱこれ『デジタルでバイド』つまり情報格差の事だ。この情報格差の時の話ってインターネットそれ自体がボーダレスの存在だったものだから話は「PCが使えるか」とか「ブロードバンドのインフラは」なんて感じに年齢階層や国家レベルの公共工事の話になっていたけれども抜け落ちている論議がある。
”地域格差”だ、

ボーダレスのインターネットに地域格差ってこれおかしいでしょうな意見も聞こえてきそうなんだけれど、これは実際に実存する。
何故って利用者の人格構造とインターネットの利用には相関関係があるからだ。
誰しも経験があると思うのだけれど、それこそコスモポリタン東京みたいな大都会と地方における一般常識にはやはり随分と乖離がある。
「東京じゃ晩婚化は常識」でも「地方じゃ東京の晩婚化は非常識」であるケースはやっぱ多い。
即ち所属している個人が置かれている環境そのものが違っているのであって、当然その母体との関係無しには語れない個々人の人格にキャラクターの違いがある方がむしろ自然だ。
ここいらへんを考えるにあたっては、社会学的に考える方が話が早い。

社会学だと、共同体の分類としてこの辺のキーワードが出てくる。
ドイツの社会学者フェルディナント・テンニースが勝手に命名してるって言えばそうなんだけれど、あまりにも有名。
『ゲマインシャフト(Gemeinschaft):地縁・血縁』
『ゲゼルシャフト(Gesellschaft):近代社会』
言っちゃこれ社会学的な発展形態の変遷の事で、近代以前の封建国家時代には社会の基本構造はゲマインシャフトであって、都市や企業を含む社会の近代化によってこの構造はゲゼルシャフトへ変遷し、構造的に変化するってこの話は定説ってか社会学の基礎。

ところが、社会なんてものは一糸乱れる民族大移動みたいな話にはならないんであって(むしろこの傾向は第3世界の方が顕著)、地域差ってものが生まれる。
これを「地域格差」と呼んでしまうとあたかも経済的な発展に遅れをとって同時に社会構造の変遷も起きない社会はランクが低いかのような誤解を与える、なんせ本来経済や社会の文明的進歩などというものは、当事者の選択によるものであって、この際経済的利得とはそのインセンティブであるに過ぎない。
つまり、地方には今でもゲマインシャフト的社会の色彩が色濃く残り、都会で社会といえばゲゼルシャフトが常識である現実は否定できない。
続きを読む
タグクラウド
QR
住まいの心理学(retour&kagewari)
公開掲示板過去ログ検索ボード
Comments
ここのとこ論議になる事が多い「報道」について考える。
 ⇒ 匿名希望 (02/22)
 ⇒ 匿名希望 (02/15)
 ⇒ 匿名希望 (02/01)
 ⇒ kagewari (01/25)
 ⇒ (2/17削除依頼により編集) (01/25)
HPとかブログ含めて全体のモデファイ始めてます
 ⇒ kagewari (01/03)
 ⇒ 匿名希望 (01/03)
 ⇒ kagewari (01/03)
 ⇒ 匿名希望 (01/02)
カウンセリングと病院の関係
 ⇒ 早恵 (11/12)
 ⇒ kagewari (10/26)
 ⇒ 早恵 (10/25)
暑い夜です
 ⇒ 早恵 (11/09)
テロとの戦い
 ⇒ kagewari (10/25)
 ⇒ 匿名希望 (10/24)
 ⇒ kagewari (10/24)
 ⇒ 匿名希望 (10/23)
バラバラ事件がマスメディアの”ネタ”になっている
 ⇒ kage (01/20)
 ⇒ 佐藤千佳 (01/20)
堀江裁判の続きなんだけれども
 ⇒ kage (11/03)
 ⇒ ゆでた孫 (11/03)
精神分析的視点(5)「出生率低下問題」を考える。
 ⇒ kagewari (09/10)
 ⇒ 得津富男 (09/09)
オルタナティブの前にさらっと前説やっておこうと思う。
 ⇒ kage (12/24)
 ⇒ Momoko (12/24)
ここのとこマシン壊れすぎ
 ⇒ 御案内 (12/14)
search
検索語句

RDF Site Summary
RSS 2.0



wwwSerch Site
TrackBacks
実存主義と精神分析
 ⇒ 思想がたくさんあります (02/17)
メディアリテラシー:Googleがヤバイ事に。。
 ⇒ 大家さんのつぶやき (10/25)
家族社会における心理構造の連鎖
 ⇒ 夜泣きには親にも原因があった−夜泣き (09/07)
 ⇒ 幼児・子育てに成功する方法 (08/27)
モバイルPCをfivaからIBMに乗り換えた
 ⇒ PC組立・パーツ (08/06)
 ⇒ PCパーツのオンライン販売で得する (07/12)
オシムはノムさんか?そして中田引退
 ⇒ 無料データバンク (07/13)
表情ってものを考えてみたい
 ⇒ スポーツ選手名鑑 (06/21)
筑紫の番組かな?アメリカの報道にも動きがあるらしい
 ⇒ 自動車 (06/20)
 ⇒ 出版ドットコム (06/05)
終盤に弱いワールドカップの話はともかく
 ⇒ サッカーワールドカップ2006-FIFAワールドカップ・ドイツ大会特集- (06/19)
 ⇒ サッカーは好きですか? (06/18)
LINK
□心身コンサルテーションHOW's
□ざわ と〜く
□なまずの独り言
□熱狂的マスコミファン
□TBN
□ば○こう○ちの納得いかない
□魚住取材ノートMouRa
■retour&Retour
□etc;;Blog

kagewari01