2009年03月28日

心理学的”平時の自我論”

”心理的基礎代謝”みたいな話
実際に心理学のテーマではフロイドから始まったように「問題の構造を分析する過程から判明した自我構造図(地図というか意識ロジック)」の逆算として様々な心理の動きをロジカルに認識しているのだけれど、「無問題の状況におけるキャラクターの差異」はあまり語られる事は無い。
無問題なのだから「お好きにどうぞ」であるには違いないのだけれど、
均衡論的に平時のキャラクター差異は根本的な心理学の基礎理論的に分析の方向性の論証として有効だと考えている。
よって、この話は幾分アイデアの域を出ないところもあるので、今後それを考える上での叩き台として書いておこうと思う。

とっかかりとしては、
「何の用も無いなんて事はこの世に無い」みたいな
「個として実存する”だけ”の時の我力」のような、
”その”話です(笑
心理学におけるプライバシー領域(パーソナル・スペース論とか)の”飽和安定性”と言えばいいかもしれない。

概念としては「ここに自意識マター要因が何も無い状況で概念上の自我実存(意識ソナー射程というか)が”意識状況”において満たされない場合、虚空(スキ)が生まれその隙間は個としての自我のファンダメンタルのスキ間と解釈できる。
孤独(認知)現象の法則性かも知れないし、強迫認知(強迫マターでもいいかもしれない)発現地域と見てもいいかもしれない。
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タグ:自我 強迫
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2008年12月31日

『自我バランス』

力動論を始めようってのじゃないので、勘違いしないでください。
ま、似たようなものか(笑

何の話かというと、
自意識と無意識領域(前意識的とか超自我含む)とのバランスの話、
表現で言うと「安定している」とか「不安定」とかありますよね
この体感は一体何の話なのか?
俺の好きだった某小説には「コップに水を一杯に入れてこぼれないように歩く事だ」なんて台詞もあった。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」なんて言葉もある、
坊さんは「煩悩を捨て悟りを開く」なんて考える。
何やってんでしょうね?

「バランスを維持している」

そして精紳分析的な意味で自意識台頭のための言語的アプローチ「デ・コード」とか「デバック」とか「カウンター」。カウンターなんてのはそのままウエイトの概念(質量)みたいなものだし、意味合いとして”反動を抑制するための現実質量”な意味でも使っている言葉です。
何がどうバランスしてんのか?

そして、その反対に「喜怒哀楽」って世界もあるがその世界を「不安定」と呼ぶ人はいない。
何が一体どう違うのか?
強迫的興奮がたとえ脳内で快感分類であっても、認識の主体である自意識にとって不快であれば、その”不安定な様”は歓迎すべきことじゃ無い。
まさに「不安」、
「不安」と「喜怒哀楽」の決定的な差は、生理的体感と自意識認定との一致性の差かもしれない。
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2008年10月02日

動機形成のプロセス

「さー何をしようか」とか、
「おっと○○しなくちゃ」等、
だいたいが何かを契機に動機は形成される、

思うにその契機が自意識を立ち上げ「ん?」と振り返るように認知が開始される。
何ていうか、人間は常に現実認知でバリバリって事も無いのであって(バリバリな状態を神経質とか呼ぶ)、平和な時にはのんびりしていて自然なので自意識は「呼ばれたときにサクっと立ち上がる」ポジションであればOKとなる。

で、「えーっと何々」のように現実認知が開始されるのだけれども、
つまるところ認知以前の現実は不確定でなければならない。
言語的には妙な表現になるけれども、不確定じゃなければ「えーっと何々」と現実を認知しましょうかってプロセスそのものの”動機”の腰が折れてしまう、
「自意識の立ち上げ時に抑圧が発生してしまう」

そもそもこの不確定要素が”自由”の根拠なのだから、
確定的であれば構造的に”自由”は喪失され(強迫)、
自由(程度問題を考えれば”自由度”でもいい)が無ければ、判断や選択って自意識の主な業務も閉店なのだから動機形成は不全となる。

んなもので、話は戻るけれども「何かの契機」には、ストレス信号も含まれるのだから(「あ、腹へった」等)「強迫構造即ち構造的な欲求不満」と言ってもいい。
強迫構造は快不快原則の世界の中で、興奮を伴う依存関係にある行為を追体験の形で”行為化”させるのでその欲求の過半は代謝される事に違いは無いけれど(よって投影が容易になるシチェーションを予め担保する必要がある)、強迫が構造化し慢性的な内向化があれば微妙な欲求不満も構造化する。
強迫構造には”舞台装置”が必要って事、
それは世界観とか認識の枠組みでも構わない。
シナリオ講座的に言えば『枷(かせ)』人物設定や物語のビヘイビアの事
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2008年06月24日

強迫と道徳

そりゃ心理学って話で言えば『超自我』といった方が話が早いんだけれども、フロイド的造語とも言える言葉を使ってわかりやすいのかって、そこがまた「なんとなくわかる人同士」だけの事にもなるのでテキストでも滅多に『超自我』なる表現は使わない。

そこんところが以外や以外一番大事なのかも知れないとも思っている、
何故なら暗韻のある固有名詞ではなくて、流れ(文章)で認識している方がその背景含めて”それ以上に見えいてくるものがある”。
特に「強迫と道徳」の関係は”道徳”なる言葉を使った方が、その力動的位置関係やら強迫の構造化プロセスも「より見えやすい」。

単純な話「自意識をやり込める(抑圧)するぐらいの力を持つものは、道徳・倫理野的(んな部位が脳にあるワケじゃないが)概念以外に存在しない」のであって(そうじゃなきゃ”抑圧する中の人は誰”って論議になる)、「○○に決まっている」的概念がやたらと多かったり、強迫的認知のベースラインは”ステレオタイプな判例主義”であるのも事実で、
判例主義的(自我憲法とでも呼ぶか)正統性根拠無しに存在し得ない「道徳・倫理野的ロジック」の関係性やら主謀性って部分は説明する必要性も無いぐらいに明白だ。

実際個人心理学における”コンプレックスの発見”の存立基盤は象徴化(この瞬間原形足る対象から乖離し記憶の中で自我の一部となる)された権威性なのだから、それこそ「ニワトリが先か卵が先か」って話ぐらいにその関係性は深い。

言い換えるなら「象徴化され現実から乖離する権威性(無意識)は=過剰に道徳・倫理野的ロジックとして自意識に認知される」となる。
結果として、悩みの全てには無意味な”いい悪い論議”と”保守的抵抗(判例主義の防衛)”は欠かせない部分で(必ずといっていいほど自我の形はそのスタイルになる)、それが認識として表面化した時の特徴(必ず論理矛盾を内包する)としては、
■「人間関係等の相対的な”問い”を悩みとして考えている時に、宗教論争のような”いい悪い”なるロジックが”お呼びでないのに”圧力をかけてくる」な流れになる。
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2008年06月17日

自己責任のロジック

ここのところ公開掲示板上で補足説明が必要になる事もわりかし多い言葉なので、テキスト的にまとめておいたほうがいいだろうと、
『自己責任』
このキーワードが重要になってくる背景は、
そもそも時代としての心理的な問題の過半が「共同幻想の崩壊過程」なる文明論的な時代変遷に起因するためで、
社会体制が「保守的政治」から「民主政治」を模索しているように(経済で言えば「管理経済」から「自由経済」へのシフト)、この社会的ファンダメンタルの変遷は”個人”であったり”自由”であったり”当事者責任”により始めて機能するもので、
その世界の中で爆発的に増えているメンタルな問題のキーワードとして「個としての自立」が大きく関わるのは自明になる。

参考として哲学で言うところの実存主義が使えるって話は以前しているんだけれど、
http://kagewari.seesaa.net/article/84296493.html
重要なのは、
この「個としての自立」が=「単独行動型の人格を模索」じゃないところだ。
実存主義が”使える”ように、
その後の自我選択は「単独行動型」でもいいのだし、「社会協調型」でもいいワケだ。
つまり投票行動における二大政党じゃないけれども、その後の選択を決定するものじゃない。
自我の構造変遷として、幼児期から一度「個としての自立」を挟まないと、どうにも自我構造のバランスに偏向を残してしまうので「過程としてマスト」だと考えてもらえると確からしい印象になる。

この「一過性でも可の個としての自立」なる特殊な環境は、昭和で言えば「若い人」と言う言葉に集約されたり「青春」と表現されたような「ちょっと調子に乗り過ぎなぐらいの理想主義」で”丁度いいぐらい”の過程を意味していて。
「ちょっと調子に乗り過ぎ」な部分が、旧自我における家族的保守性へのカウンターである事は説明の必要もないと思う。
強迫構造に喩えて言えば、デフォルメされ象徴化された(家族主義的)権威性(=妄想に近い)への幻滅から、これを補完するために理想主義が入り込みやすい状況からこの過程は極自然に起きるんだけれど、
この動作を、現代社会はかなり意識的に行わないと”自我の現実化アップデート”とも呼べるような仮想権威性超自我(子供の超自我→仮想道徳性)の解体が重苦しくなるというか、思ったように進まない結果となる。
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2008年02月16日

実存主義と精神分析

精神分析の論議で欠かせない哲学思想に『実存主義』がある、
ここねぇよく勘違いされる向きもあるんだが、
精神分析的な位置付けにおける実存主義は、精神分析捉え方の中における”非常に有効な定義”の事で当然哲学的な意味を標榜している等そういう話じゃない。
「コンプレックス」って言葉が精神分析を説明する上で重要な概念であるのと同じような話。

実際この実存主義の概念なるものは、まー平たく言うところの「禁欲主義や快楽主義やペシミズムだのヒューマニズムだの道徳主義や伝統保守思想やら」何かこう”するといいよ”的なベクトルがある話じゃない。
wikiからそれをよく現している部分を引用すっと
人間の実存を哲学の中心におく思想的立場。実存(Existenz)の元の邦訳は「現実存在」であったが、九鬼周造がそれを短縮して「実存」とした。語源はex-sistere(外に立つの意)。
実存主義は、普遍的・必然的な本質存在に相対する、個別的・偶然的な現実存在の優越を主張する思想である(「実存は本質に先立つ」)。時間の流れの中で、いまここで現実に活動している現実存在としての「私」は、ロゴス的・必然的な永遠の本質を否定された自由な実存として、あらかじめ生の意味を与えられることなく、不条理な現実のうちに投げ出されたまま、いわば「自由の刑に処された」実存として、他者と入れ替わることのできない「私」の生を生き、「私」の死を死ぬことを免れることはできない。
のような生を、絶望に陥ることなく、いかにして充実させていくかが、実存主義にとっての課題ということになる。

(これだけでも面白杉だわな)

ま、言い換えると「そういう考え方」って事さ(笑
考える手法とか、視点とか”立ち位置をさす用語”だと考えてもいい。
その状況を発見ってか「気がついちゃった人」を実存主義者と捉えても遠からずなんだが、、
なんちゃら主義者の成立には、その気がついちゃった考え方を頻繁に利用する事を由とした人って背景が無くちゃいけないのは言うまでも無い。
が、しかしね、
精神分析的には、これに気がつく人格構造には特定環境みたいなんがあって、おおよそ気がついちゃう人は滅多にこの立ち位置のプライオリティーを低く見る事はできない。

とまーいうワケで実存主義的発見とは「精神分析的に何の事か」って話、
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posted by kagewari at 17:51| Comment(0) | TrackBack(1) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月22日

カウンターと反動形成

「カウンターをあてる」これは強迫構造下に在るときに抑圧された自意識を起動させる手法のひとつです。
ま、そのまんまなんですが、
言うなら「カウンター思考をすると、その反対の思考が自意識のテーブル上に展開する」という話です。自意識の抑圧が無難に成立(構造化)してしまうと、この強迫の主体は元から無意識なので一見「なにげない日常」にも見えます。
しかし、実際のところは自意識が抑圧されるために思考や認識のかなりの部分に”(無意識なので)無自覚な”偏向フィルターがかかります。

この状況下だと、現実認知が本来そこにある現実と大幅に乖離してしまい、見当違いなストレスを感じでしまったり、他人の心理に対する”読み”みたいなものも何か劇場的な雰囲気であるかのように脚色されてしまったり、
ここの背景には”自意識が抑圧されている体感”という漠然として恒常的な不快感が漂っているので、過剰な被害認知と相まって誰一人思ってもみない”現実”にひとりで振り回されるなんて現象が起きるのです。
見当違いな人物に激怒してしまったり、
他人の特別他意の無い(挨拶程度の)言葉に、事実関係に存在しない尾ひれはひれが付いてやたらと被害感を感じてしまったり、
同様に、『自分自身で思いついたアイデア(想定外の自意識マター)を殊更大問題に感じてしまったり』、
のどかな自然の風景(人間社会だって所詮自然の一部です)が、何か殺伐としたジャーナーリスティックな(シドニー・ルメット監督作みたいな)激しく事件性のある「自分物語の舞台」にみえちゃったりして、

これ甚だ疲れる上に、肩凝っちゃうワケです。
(マッサージや整体が効果的なのはマジな話)

かといって強迫構造の正面には、トラウマにも似たデフォルメされた不快な記憶が背景にありますから、ここに自立的に切り込むのは難しい。
知識も無くダイブすれば自我がもたない可能性もある、
デフォルメされた強迫構造を仮想実現化してしまって、過剰なストレスを感じてしまう事だってある(この辺が臨床系からの精神分析への”誤解”と”無知”からくる批判なんかになったりする)。

何もそれほど難しく考える事無く、ここは心理学の王道でどんと構えればいいのです。
強迫的な認知の中で、このフィルター通過して動機形成が行われる現象あります。
これを『反動形成』って言うんですわ、
これ何かと言うと、誰もが強迫構造を前に潰されるようにダウン(これが鬱)するのでなく、それを満足させようと「誇大な欲求」を動機形成する事があります。
そりゃ人間「何一つ強迫等無い」なーーんて人はいないので(問題はそれが不快か否かって事なので)、この反動形成は誰にでもある現象で、

話をわかりやすくする意味で、強迫構造と絡めずにこの事例を説明してみると、
「カレー食いたい」と、駅前のカレー店へ、
倒産の看板(ここに自意識は無関係ですよね、なかば強迫的に食えないのと同じ)
「カレーへの食欲が抑圧」
そのまま耐えれば我慢って事なんでしょうが、そもそも腹減っているしそれじゃ気がすみません。
仕方が無いので、二軒隣のラーメン屋に
「チャーシュー麺ちょうだい、もうさチェーシューありったけ大盛ねっ」

断念され抑圧されたカレーと代替するために、「チャーシューがありったけ」になる。
簡単に言えばこんな現象です。

「僕寿司屋になろうかなぁ、、」
 ↓(強迫構造により抑圧)
「僕は、有名レストランのシェフにならなければならない」
コレ反動形成

ある意味、強迫構造のフィルターを通過するための法則でもある。
「極端、極大」
理由は簡単なんですよ、
強迫構造のコアはデフォルメ(現実と乖離しているイメージ)なので、これに対峙する上で負けないぐらい話を極端にすると”均衡しちゃうので”強迫構造そのものロジックが表面に浮上する、そしてそれを自分の自意識で確認する事もできるって話です。
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posted by kagewari at 14:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月28日

心理学と一般論

何の話かって、
これが以外と「やっかいな話」(説明になってないか、、)


狭義の精神分析から考えた方がわかりやすい、
そもそも精神分析は計測用の機器(スケールとかメジャー)のようでもあったり、言語解析的翻訳機(なので個人的には”デ・コード”って言葉をよく使う)のようなもので、思想でも哲学でも無い。むしろ哲学における実存主義が精神分析的発想なんであって、精神分析単体は「動物行動学の方が相性がいい」言うなら「人間行動学」みたいなもんだから。

しかし世間と申しましょうか、一般論の世界はそれが一般であるが故に『共同幻想的決まり事や与件』が多くなる。
なんでしょうね言葉にすると「それをいっちゃーおしまいよ」とか「それはネタバレだろ」みたいなタブーを残している。

なものだから、”そこまで分析したらやり過ぎ”的「歩留まりの法則」のようなものがあって精神分析形の理論部分の話ってのは「そこまで話すと誰彼と無く怪訝そうな顔をされる」ことも随分ある。しかしここからが「やっかい」なんだが、
精神分析は体系として「どこまでも分析できるから理論になり得ている」とこが、逆に精神分析のわかりやすさ→「制限無くタブーも無しにロジックをオープンソース化する仕組み」なのであって、検証とかその証明(プルーフの方)の意味で、制限付きにすると大幅に分析の理論的な背景が破綻してしまって、関連を認識すれば「ある意味特別な才覚無くても理解が早い」ものなんだけれど、制限をつければつけるほど「分析そのものが難しくなる」傾向がある。

それこそ「局面局面の一部のみ精神分析の理論を拝借」すると、「そもそもどうしてなのか」的な背景が関連性が欠落してしまうので、”臨床例的な統計分類”しないと「どれがあてはまってんのか」わからなくなってしまう。

なので、精神分析を使える使えないって才覚があるとするなら、「どれだけ与件化された構造が少ないか」とか「共同幻想の外側から共同幻想を第三者として認知しているか」なんかが重要になる。
これって=『アウトサイダー』だから、
ある意味、単独の開業医なんてスタンスが映画的な絵として似合っているのは、シナリオの枷的にも都合がいいからで、絵的に言えば正義感に燃えてもいかんし、個人的な思想や心情を投影してもいかんのであって、自分自身の立ち位置が常に第三者的であるのが適正になる。
精神分析が使えるといっても、何も用の無い時は「只の人」だから。
そもそも権威性は馴染まない(権威性のコアとなる倫理的道徳判断なる部分にリテラシー的意識は高くてもヒエラルキー的順列を持たない)。
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タグ:精神分析
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2007年10月03日

快感原則ってものを考える

時には「快・不快原則」とも呼ばれるものだけれども、これって意識的っていうより動物行動学的な”脳内の鉄板振り分け”の話。
労働で言えば「インセンティブの無いところに人は働かない」のような原則論の話で、「食べたいと思う食品はそのとき不足している栄養分と近い事が多い」とかの話じゃないが、生理的な意味での欲求と現実がリンクしているケースがあるように生物としての原則論の部類に属する。
ここが心理学的にやっかいなのはいかにも自意識が”快か〜ん”と認定するものが『快感では無い』って部分。

なんせ、この「脳内では快感だ」な説明に一苦労する。
快感論議ってのを、ヒトの行動の組み立てそのものから見ていくとしよう。
ここで言う行動ってのは「腹減った」とか「眠い」とか「むしゃくしゃスル〜」等のような『ストレス信号から始まる動機形成を必要とする意識的行動』の事で、習慣化された行動のような無意識的ルーチンの事では無い。確かに無意識的ルーチンにも快感原則は機能しているんだけれど(非習慣=バトルプルーフされていない行為=リスク=不安=常識=罰、なんかの連想による不快感)、そこまで話にいれちゃうと余計わかり難くなるのでひとまず例外としよう。

さて『ストレス信号から始まる動機形成を必要とする意識的行動』って奴を取り上げて流れを単純化して見ると、
「腹減った」→ストレス信号→「判例主義的連想カレーライスか?」→「自意識選択:そうだなカレーだな」→「カレー屋探す」→「カレーが無い場合も考える」→「○○を食べる」てな感じになる。
動機形成って部分から言えば「自意識選択の部分から→カレーが無い場合も考えるまで」なところで、肝心要のポイントは『その時既に最初の欲求食欲から一部話が逸れている』ところになる。まかり間違うと「カレーを食べたい欲求」と本人疑いも無く思うからだ。
ここの「○○欲」の解釈が、やたらと難解なので説明に苦労する、
「プラダのバッグ欲」なんてものが生物の普遍的な欲求である筈無いのであって、その原形(カレーの例では食欲)を”結果から推定できない”ものだと断言して考えた方がラク、

どういうことかと言うと、
「確かに今カレーを食べたいと思っているから、”元ネタ”は食欲だな」とは一概に言えないのだ。そりゃ中には「ヤケ食い」とか、「グルメ」等のように「カレーを食べる」って行為が必ずしも”食欲に限定される行動では無い”からだ。
それこそ「高級ホテルのレストランでディナーを」となれば、それは食欲だけを満たす行為だと考える人はそりゃいないでしょうよ、そういう事。

同時に考えなくちゃいけない事は特に動物行動学的『ヒト科の場合』、その生活は恒常的性的欲求ストレス下にあり、その動物的な性的ストレスは一部昇華したり反動形成されたり、独自のSEX的文化に矮小化したり既に”原形を失っていて”広く漠としたモチベーション(快感による満足を目論む欲求)に還元してしまっている事で(動物的性欲という原形を想像させるような行為は既に人類の行動様式の中に存在しない)、同時に動物行動学的にはその性欲が非常に強烈なモチベーションでもある(これは特に繁殖によって種族保存とする哺乳類の場合最強であって当然)。そこで、心理学ではこの代表的な欲求である性欲(これ”原形としての意味”よ)を「漠としたモチベーションを計るバロメーター」と見ていけば間違い無いだろうと考えていて(自我が関わるとなると余計)、フロイド辺りが話をわかりやすくするために「ま、それは性欲なんだが」と言ったものだから、意味をよく理解していない外野席から「心理学でいう欲求は全部性的衝動に裏打ちされた”所謂性欲”の事か」といらぬ誤解に始まる意味不明の批判を受けることにもなった。ほんとに困ってしまうんだけれども、反動形成された性欲の一部は名誉欲でもあり、象徴化されたものは一部家族愛にもなり、場合によっては愛国心にもなり、いかにも短絡な性欲が=動物的性欲なのかと言う命題は”繁殖を前提としない性”や”ファッションであったり虚栄であったり”或いは家族関係からくる(二段活用みたいな)コンプレックス反動の恋愛感等も合いまって、様々な欲求に分化している(食欲の一部にも性欲関係しているし)、心理学世界が発見したのは”素で暮すにしては過剰なまでの欲求”が人類に普遍的に存在しているところがポイントで、その欲求は原形である性欲が解体され自我に解釈される存在に帰した時点で、漠とした欲求の代表者となったって事。
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2007年08月30日

自我構造の周辺事態

そもそも構造分析で各種専門用語が登場するのは「その様子を整理して分析者が理解しやすくするため」であって、なんかそういう名前の”部位”があるのではない(笑
ここが随分と誤解されるところで、それこそ心理学の授業でもって、テストの時に「○○なんちゃらをする自我は何?」なんて出題を真剣に考えて記憶するとなんか意味があると思うこと自体とんでもない論理矛盾で、ここが行き過ぎるとフロイドですら「ちょっち失敗したかな〜」と言われる力動論(物理的ってか数量的に抑圧構造なんかを考えようとした:リビドー論みたいなもん)やら、某オカルト系心理学なんかでまことしやかに語られる「○○となる因子がある」みたいな、なんていうか構造ってからマジになってそんんな”部位”が独立してあるかのような飛躍(その時点で解離性じゃネーカみたいな)があると”既に心理学の体を無していない”なんて事にもなりかねない。

実は投薬を含む精神科の在り方にも重要なところがあって、精神分析には即効性が無いのはご存知のとおりなので、急性の鬱(会社の倒産なんかの外的環境の大きな変化に自我が追随できずに瞬間的に人格構造が鬱的傾向に傾き、その外的変化がおおよそ簡単に解決しない結果これが仮想的に構造化する:元来仮面鬱じゃないけれども鬱的傾向のキャリアのように危険な要素を元々持っているとも考えられる=真面目な人=道徳的強迫と自意識の抑圧)で、その症状それ自体へのショックも二次災害の様相を呈して、反射的な自殺衝動などの危険性が高いとき等これ人命に関わる事なので、緊急の即効性が要求されるワケで、
精神科医療が心理学的背景を軽視というか「それは文系でしょう」と考える見解も「餅屋は餅屋」の論理じゃないけれど必ずしも矛盾するものではない。(実際、遺伝病や事故による脳の障害等身体的に病理性のある問題は精神科や神経科、脳外科の専門分野になる)
昨今の欧米の傾向は、この緊急性のあるものや病理性のある診断は一般の内科や外科のある総合病院に統合される方がむしろ合理的ではないかという見解があって、「独立して精神病院」が存在する事を問題視する動きもある。
その統合的在り方のひとつが診療内科(カウンセリングがうけられる場合もある)とも言えるので、心理的な問題もようやくその事実関係に社会が追随してきたかという側面がある。

棲み分けといったらおかしいけれども「自立的に思考した結果相談に及ぶ」という動機形成を見れば、心理学サイト等の運営にあたって相談先が違いますって事例は構造的に発生しないし、同時に緊急性を感じたり人命に関わるという連想には「病院」という構造もとても一般的な関連となるので、そうそうここにギャップが生じる心配は無い。
問題がおきるとすると、本来慢性的な自我構造の問題がある時に、その自我防衛的発想からカウンセリング等の心理学的アプローチを避けるために(極端な事を言えば「問題のある自我を保守するため」)投薬によって不快感だけなんとかしようとする場合で(これも自意識の決断であればアリとも言える。自我の問題は必ず解決しなければならないなんて普遍的概念はどこにも無い)、一種この逃避的とも言える行動がケースによっては不快感の原因をより深刻化するケースがある事だ。
※これも”そのケースがある”という確率論なので、そうに違いない等という話ではない。

何故ってここにそもそも自我構造が関わっているからだ。

「自我は動機形成の機関」と考えると易しい。
事実認定を行い、現実の環境を掌握し、五感からくるストレス信号を受けこれを行動選択に振り分ける。
もっぱら”ヒト”はそれをロジカルな過程で行うので(パブロフの犬実験じゃないけれど、魚→エサ→食うみたいな直線的なものではない)、極めて弾力性が高く融通も利く、その代わりに優柔不断でもあり得るのであって、この動機形成がスムースじゃないと簡単に欲求不満にもなる。
そして今度は欲求不満ストレスから動機形成し、、、と、こういう流れなんだけれども、こういった複雑な心理的な過程が他の動物にも無いのかと言えば、こればかりは実証がとても難しいのだけれど在ると想定した方が自然だろう。
しかし、ヒト以外の多くの動物は比較的単一な行動様式を変える事は無い(面白くない事があって突然キャッチボールを始める鹿はいない)、その背景を考えるならワイルド環境下の動物達はかなりの心理的ストレスとともに生きている(哲学的には「ストイック」に近い)とも言えて、ワイルド環境下での寿命の短さにここがかなり関わっているのも事実に思う。

但し、ここには重要な差異がある。
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