2017年05月27日

「自由とは何か」(2)

原則論に戻ります。
たとえば身体が硬くて前屈で苦労してるとしましょうか、
トレーニングしてみたり呼吸法を意識してみたりで、身体を延ばす、
自由度が高まる。
しかして、シューシュポスの神話じゃありませんが、アスリートでも無い限りどこまで伸ばすって特段の目標があるワケでも無いですし、この辺でいいかなとトレーニングなり放置すればまた元の硬さに戻る(自由度が後退する)。

故に、現実に抗い自由度獲得のため絶賛ナントカ中の常態とは「硬てぇな〜痛てて」とか言いながらあくせくする様なのであり、その後伸びたか伸びなかったかのか結果論は殊更関係が無いのです(そこに特段の終点みたいなものはありませんしある程度の目標に達しても日々続けなければならないものだし)。「
ラジオ体操を日課とする人は特定の成果を予定していない」みたいに考える方がわかりやすいでしょうか。

ここが主体的能動性における幸福論(快感代謝)として、苦労は金出して買えじゃありませんが、
ハードルを前にして抗(あらがう)様が幸福感の実存なのだって話になるのであります。
(実際に感情が幸福だとかそういう意味じゃないですぜ?心理学的にそういう論証になるって話で、そこに矛盾する何かがあれば、別に心理的問題が有るかも知れないって推定の根拠となるとこが主眼です。)

苦痛が快感マターであるとか、ド・Mなのかって話にも見えますが、
更に便利で楽な(或は効率的な)方法を見つければ、それは『自意識』マターによる戦術論なのでアリアリなワケで(これは知的曲面で抗(あらがう)って事ですから)、
対峙するものが何もなけりゃ「工夫して楽する方法」を考える動機もクソも無くなってしまうワケですよ。

普段たいして感じていないだけで、息するのだって、疲れることで、ましてやごろ寝姿勢から立って歩こうなものなら至極めんどくさいことです。
しかし生きてる実感ってのは正にそこにあるのであって、
散歩が気分転換になったりするのは、重力に抗って歩を進めるからで、行き先はどこでも構いませんがどこやらに行くって自由を獲得するワケです。
その証明は”歩いた感”によって(快感代謝が機能して)確認される。

●達成感なんて言葉がおおよそ疲労度に比例しているのも説明するまでも無いことです。
行き先で思わぬ何かを発見して、おおきな財貨を得たとします(ベタな事例で言えばマツタケみつけたとか)。この場合想定外の興奮も伴って快感代謝はより高まりますが、
高まりますがー、それは非日常ですからオマケみたいなものであるのと同時に、
『インセンティブ』という概念がそこに成立しているだけで、行動欲求の本旨じゃありません。
(そういう思い付きはそれこそ”更なる投資効果(疲労度に比例)”の高い動機形成を行う意味での自意識の戦術論ですから。←ベタな表現で言えばインセンティブとは一種の屁理屈でもある。)

退職後の「ザ・サラリーマン」人格な人が、何が面白いのか「何か仕事はないか」と性懲りも無く求職活動を続けちゃったりする理由です(彼らはお金が欲しくて仕事探しているワケありませんから)。

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posted by kagewari at 13:02 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月18日

「自由とは何か」(1)

ちらっと『住まいの心理学』でも触れた話なのが、
にわかにご理解いただけない言語のひとつが”自由”です。

今より自由度が高くなる事は(倒錯的欲求でも無い限り)”かなり普遍的”に幸福度に関連するロジックです(心理学には絶対は無いのであくまでも有力なって水準の話ですが)。
時に、
●大きな誤解を招くのが『被(こうむる)』系の願望です。

心理学においては「本当にそれが実現したら『自意識』は素で嬉しいだろうか」←肝心要のこれがプルーフされていないって話が出てきます。
「ちょっと待てよ、この妄想が本当のホントに実現したら俺は嬉しいのだろうか?」
「あー、うーん、だよな〜、考えてみたらナイナイナイだなこれ」←自我の活動にはこれ系のナンセンス願望がすっごく多いのです。
その大半は『被(こうむる)』系の願望であると。

そもそも『被(こうむる)』って受動系の概念において主体的意思である願望がくっつくのからして論理矛盾になりますが(表現に無理ありますが→「ある意味鬱状態に陥るのが正しい」みたいな)、
思考の流れとしては、あくまでも起点が『被(こうむる)』であって、そこから願望が形成されるプロセスはルサンチマンのような(典型例は復讐心の形成)反動形成によるものです。
「なになにされたのだから、こうならないと我慢がならない」のような流れです。
 ↑
さて、ここまでの説明でバレバレとなっているように、
起点は受け身ですからその願望全体が最初から主体的なものでは”無い”事がわかります。
可能であれば「なになにされた」以前の”素の常態”の自我が思う事が本題となるべきですから。

■故に
『被(こうむる)』系の願望心理形成にはほぼ100%反動形成が関わりますから(冷蔵庫に大事にしまっていたプリンを食べられた時、同じプリンを弁済されただけでは許せなくなる倍増係数)、心理的にそうなってちゃうだけで(復讐心理で言えば「八つ裂きにしてやる」など)、素の自我がそうなったら幸福感を感じるような自由度論議とは全く別物です。
たとえば、
「八つ裂きにもこのようなメニューがありますが」のような具体論を真剣に提示されたりしても、そこにはには興味ないワケです(逆に白けてしまったり)。
その実現を「”素”の自我は望んでいない」証明です。

●誤解を招きそうなので補完しておきますが、
何も私は復讐という概念には全て反動形成が関与するから論理矛盾があるみたいな(人権派死刑反対論に出てきそうな)話をしているのではありません。
「主体的な復讐」という概念も”別途”成立するからです。
主体的な復讐とは、因果応報じゃありませんが「なになにの損失や損害があった以上、自分の主体的選択として(素で敵の命を奪う事に関心は無いが)ケジメを取る意味でこの復讐をやり遂げなければならない」のような(限りなく責任感のような)意思決定です。
もっともわかりやすいのは、
「この敗戦があったからこそ、僕は次の大会の優勝を誓った」みたいな奴。
重要なのは、主体的復讐というのは内心報復すべき相手がどうなるのかには関心が無く(それは織り込み済みで)自分が何を成して(勿論それは仇討でもいんですが)「どんなハードルを越えて自由度を拡大させたか(自分の意思を実現させたか)」となることです。

注:上記論議にも心理学の原則「結果論には意味が無い」が成立してますね。

さて、
反対に『被(こうむる)』系の願望と言うのは「あーなったらいいのに、こーなったらいいのに、死んでしまえばいいのに」的に、報復相手の結果に強い関心があり、、
妙ですよね?
芸能人のファンクラブでもあるまいし、(自分の事はそっちのけで)他人の結末に強い関心があるのですから(しかも悪感情のある相手に対して何故に自分の自我リソースをそれほど無償で提供しようとするのやら)、自我機能としてそんな欲求が素で起こりえる筈も無く、、
ほとんどの上記願望は
「ちょっと待てよ、この妄想が本当のホントに実現したら俺は嬉しいのだろうか?」
「あー、うーん、だよな〜、考えてみたらナイナイナイだなこれ」←となるのです。
(そこは強迫心理への対抗策の一つ『一拍置く』って奴です。)

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posted by kagewari at 20:24 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月11日

「強迫心理」と道徳や倫理感の結合

前回記載の補完です。

強迫心理が「何故、力学的に強迫性を発生できるのか?」については前回記載のとおりですが、
それを(典型例として『反抗期』などで)容易に覆せない理由のひとつが「道徳や倫理観との結合」です。
前回の論議でもここ若干触れてますが
>「なんかちがうと思うよ」みたいな異論はバシバシ弾圧されます。
>「そんなことを言っちゃいけない空気」も猛烈に醸成されます。

自然災害などの対抗策をシャーマンが思いついたなんて状況であれば、
「神の怒りを鎮めるための生贄の話をしているのに、反対するなんて集落が滅亡してもいいのか!」
となるワケです。

仮にそれが「常識だろ」程度の『共同幻想』に留まっても、
その異論は「非常識だ」となるのですから、
 ↓
■構造的に『共同幻想』や個人の自我内で「強迫心理」が形成された場合、自動的にそれらの概念は当該自我にとって「道徳的、倫理的に正しい概念」として認知されるのです。
(逆に言うと、『共同幻想』として概念化されていない道徳や倫理などは存在しませんから。)

鬱病などの事例においてよく耳にする「生真面目な人が多い」というのは、上記構造に合致するもので(道徳や倫理観に敏感=『共同幻想』や「強迫心理」に対するレスポンスも強い)、
アンナフロイトのなんとやらを引き合いに出すつもりはありませんが、
自然科学でいうところの生物学的原則しとして”自己保存欲求”の中で「(『共同幻想』や「強迫心理」が)あたかも自己の尊厳に関わる事項と錯覚される」事も説明するまでも無いでしょう。

何故って、道徳倫理観に関連しているのですから。

故に、思春期の『反抗期』ってのは「グレて悪い子になった」かのような体裁になるのが”論理的に正しい”のです。
カウンターの概念をもってこなければ(それは当人にとって反道徳や反社会や反倫理として自覚される)、対抗側の道徳倫理関連事項の『共同幻想』や「強迫心理」を力学的に中性化できないからです。
昭和の時代において、『単独者』がやれ「天邪鬼(あまのじゃく)」などと呼ばれた理由も同じ論理です。
「困った時のオルタナティブは脳内では馬鹿な事ジャンルである」なんてのも、全く同じ(オルタナティブ思考ってのは想定外な例外事項的選択により道徳倫理系の心理への刺激を回避するのが狙いなので)。’

メンタル問題において
●「正義感のようなもので興奮状態にある場合」←それは100%悪循環フラグなのです。

文化人類学的には、それでも日本文化は「(唯一絶対紳系では無く)善悪論も相対的で、悪く言えば融通無碍」なんて言いますが、心理学的には大変優れた潜在力であり、
諸外国に比べて、日本は心理学の理解に抵抗が少ない文化圏に属しているのも事実です。
それは=旧来の『共同幻想』の壊れやすさパフォーマンスであり、
文系化への抵抗性の軽さでもあるんですね。



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posted by kagewari at 18:52 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月07日

「強迫心理」の構造

そもそも「強迫心理」とは何か?
近代以前のわかりやすい『共同幻想』下で考えてみよう。
(何故『共同幻想』が関係するのかって、自我との関わりで言うなら『共同幻想』も「強迫心理」もその影響力行使の仕組みが同じだからだ。)

星読みのシャーマンが種まき時期到来を告げ、
「何々到来せば集落上げて種をまくのである」という『共同幻想』の発動により、今年も見事に種まきが終了した。
しかし、例年ではあり得ない異常気象が発生し作物に大災害が及んだとする。
自然科学の知識も無い集落は大きな不安状態になりますね(種まき日和の幻想まで危機になります)、
この時、シャーマンが「○○様がお怒りだ○○をしなければならない」と告げたり、集落の若い者が「そういえば○○の時に(いつもと違って)○○がどこそこにあったんだ(おらそれがとても変だな〜っと思っただ)」などの情報があると、
「そうだきっとこうだったのだ」というですね、おおよそ自然科学にまったく関係の無い非合理的な幻想が一発で集落に広まります。
そこに強迫的思考が成立します。
「不安を鎮静化可能な説得力による均衡」←これ鶏か卵かって論議でもあるんですが→不安の穴埋めを希求する欲求に呼応する回答候補となり→その回答が共通認識(多数決権威)になった時点で認定され、不安の穴を埋める権威的裏付けのある”何人も否定できない大正解”に化けるんです。
 ↑
勿論この現象にはレトリックがあり、合理的回答を求める自然科学の知識が無い多数決を権威としちゃっていることと、不安から強烈な欲求で答えを探す緊急性(藁をも掴むじゃないが辻褄が合えば根拠不明でもどうでもいい)、「緊急時の集団心理が非合理に多数化するゲームの理論」みたいな流れでできちゃうワケです。
(注:根本的にその集落が群れとして成立している概念からして幻想であり、それが安全保障であるとか。生産の合理性だとかの社会学的判断を有している構成員はほとんど”いない”ワケでね。→だから『共同幻想』って言うんですが、)
(注2:イジメの原則論における発生過程とも類似しているのは説明するまでもないでしょう。)

すると?
「なんかちがうと思うよ」みたいな異論はバシバシ弾圧されます。
「そんなことを言っちゃいけない空気」も猛烈に醸成されます。

●この現象が個人の自我内で起きると「強迫心理」となるんです。
(コンプレックスと言い換えても流れはほぼ同じ)
シンプルな事例で考えると
『共依存』関係の夫婦がいたとします(或は極端に権威性上下関係が強烈な王家や貴族)
依存関係なのだから、かたや権威上位者、かたや権威下位者などの演じ分けも発生し、
加害者被害者ホームドラマみたいなのも宴たけなわだと、
そこに子供が生まれた場合、人類普遍で乳幼児は知的水準から認知能力まで低いですから、眼前に展開するドラマを神話的に認知します(これも全人類普遍)、
後に自分自身の持つ交渉力などを発現・発見し、その都度反抗期を経過します。
(この反抗期アップデートにより「幼児の妄想(母を女神と勘違いなど)は現実的認知に書き換えられ」更に幼児サイドの交渉力や大人に対する恐怖は後退し積極性などに転化していく。)

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posted by kagewari at 01:09 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月10日

「承認欲求」を掘り下げてみる

『依存問題』の説明に鉄板で出てくる話と言えば「承認欲求」です。
今回は、ここを掘り下げて考えてみる。

「承認欲求」は凄く簡単な構造に乗っかるもので、
どっかの誰かが(世間がも含む)権威上位者として当事者を”認める”という図式無しに成立しない。
主体的欲求では”無く”図式それ自体が依存的乃至従属的欲求となります。
(当事者スタンスも強制的に『被(こうむる)』形になってちゃっている。)

もっともわかりやすい台詞で言えば
「弟子にしてください」
「○○団の一員として認めてください」
「立派ななんとか役として上司や仲間に認められた」
「偉い先生に褒め”られたい”」
などなど、
いずれにしても自分が主体的にどうしたのかと全く関係無く、権威や(世論的意味の権威性)外部に自分が『被(こうむる)』側として、従属的に受け入れられたか否かって話です。

その反対は、孤高の芸術家などなど、
(ありがちなパターンは死後巨匠として評価されるとか、最後まで誰にもその価値を理解することができなかった謎のなんちゃら作家で一部マニアの間だけでカルト的人気だとか、、)
孤高の芸術家なんてものは”歩くエゴイズム”というか自主性の塊みたいなもんですから。
(周囲の意見を一切無視できるから独自路線なワケで=やれ誰かに認められるだとかそういうどうでもいい話には関心すらない。)

■つまるところ
「承認欲求とは”一歩間違えば”奴隷根性に過ぎない」代物です。
自分で自分の評価ができていれば、他者とか関係無いのですから。
一行前の”一歩間違えば”ってのは、認定者となる上位権威を当事者自体が「こいつスゲー」とか心底思っているか否かです(ここ所謂『共同幻想』確信犯的選択ってのと同義)。
 ↑
自分で自分の評価がでていればって部分について「所詮自己満足に過ぎないのでは」との見解もあると思いますが、そこは当該人物が「タイトルなどの”妙な快感獲得に関連する自己顕示欲”が目的化していないか」などでその是非が確認できるので、自己満足か否かの判定は難しくない。

勿論『共同幻想』社会適応社会の原理はこの「承認欲求」が機能したもので、
『共同幻想』社会において重要な欲求ですが、
そもそも論として、これが合理的に機能するためには「当該人物が『共同幻想』社会へ(確信犯的選択としてその権威正統性を自ら認め)入隊意思があること」、「入隊そのものが組織に承認済みであること(入隊意思が歓迎されている)」が条件となる。

更に付け加えると、
近代以降昭和初期まで文明発展論的に当時は(生存競争的・安全保障的に)『共同幻想』が社会学的意味で半ば無条件に合理的である時代もありましたから、その場合は当事者の確信犯的選択性は大きな論議とならなかったが、先進国化以降その意味合いは大きく変わり(ブラック企業などの判定)、『共同幻想』なら無条件に権威合理性があるって判定はあり得無くなっている。

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posted by kagewari at 04:51 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月24日

経験値と現実認知

たとえばクマの子供が巣穴から出た時、
あるいは草食動物の子供が出産直後に草原で立ちあがった時、
「ここが現実ですか」を知るわけですが、本能がバリバリ現役の動物の場合そのファーストインプレッションはナチュボーンであり、種として”高いレベルで共有”されます。
言い換えるなら本能と自然の関係性における種としての”普遍的共有認識”(概念では無く『共同幻想』では無い)。

勿論全く同じ現実認知を獲得するワケじゃありませんが、個体差というより自然環境の気まぐれのが大きく(偶然水の無い気候変動期に生まれる場合もあるでしょうから)、そんな差異すら現実そのものにより支配される(社会の概念は無くその自然環境としての現実があたかも神に匹敵する絶対の権威として実存しているかのように)。

直立歩行が原因とも類推されている人類ヒト科の場合、
生存のために本能を壊して(或は摩改造して)繁殖期における特異なモチベーションを常時発動する格好の”哺乳類としての特性からの乖離”によって自然環境との親和性と申しましょうか、運命共同体的関係性が切れちゃっている生き物は、
母体内にいる時から奇妙な音楽聞かされたり、
「私がママよ」などという荒唐無稽な言語という『共同幻想』に速攻さらされたり、
「そこは戦場だった」まで、始めて視界に入る景色も千差万別と、

人類ヒト科は『現実の原風景』というようなイメージにべらぼうに個体差があります。

そりゃね、どこかで現実を認知する場合”ものさし”ってものがなけりゃ事の軽重を判断できません。
この初期的認知は(「驚く」というつかさつかさで何度も更新されますが)「原始トラウマ論」とでも捉えられる代物で、
なんだかんだとその後の現実認知を左右します。
特に、何事もデフォルメにより誇大視してしまう”幼児期”ともなれば、人類ヒト科大半の「原始トラウマ」はトンでも級に現実から乖離しているでしょう。

この辺を(大きな驚きが派生するポイントとして)各種反抗期に大規模アップデートするのはするのですが、
「潮の香が懐かしいぜ」なーんて日活アクションみたいな台詞部分は(成長期における認知修正項目外でもあるため)そのまま温存されもする。

■メンタル問題ともなり得るこの初期現実認知「原始トラウマ」ですが、
「すっごくあーじゃないか」のようにですね、どこかに感情的興奮を伴うエピソード記憶となっていると、リスクとなる可能性が大きい。
”エピソード記憶”がいかんのじゃないのですよ、
詩的情緒的な感動であれば興奮を伴っていてもメンタルリスクにはならない(デフォルメ係数かかってても対物評価ぐらいのものだから→どこにでもある木や石が誇大視され芸術的存在となっても自我構造の日常にほとんど関係が無い)。

人間関係などにおける(快体験でも不快体験でも)興奮伴うエピソード(或は幼児特有の勘違いによるデフォルメ)、こういったものが「三つ子の魂伝説」なんかのネタ元なんだろうと。
何事もケースバイケースなので(中の人が違えば結果も違う→双子が同じ人格とか無いし)、それが全てって意味でもありません。
「そこにも合理的根拠がある」って類の話です。

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posted by kagewari at 12:09 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月16日

『共同幻想』としての『家族』(社会)の崩壊

シングルマザーが急増しておりまして、
これといったわかりやすいグラフは無いので以下ソースからかいつまんで説明すると
総務省 www.stat.go.jp/training/2kenkyu/pdf/zuhyou/single4.pdf
子育て世帯数 http://todo-ran.com/t/kiji/13533
シングルマザーの現状って世界的に見てどうなの!?
http://shinmama.jp/childcare/1771/

ちょっと古いDATAですが(2010から11年)
子育て世帯総数が約1200万でシングルマザー世帯が約124万なので約1割、
日本のシングルマザー世帯は微増ですが、その一割を占める「未婚のシングルマザー」はここ10年(2010年時)倍増の勢いで、全体として微増のシングルマザー総数を押し上げる主力となっている。

(ちなみに現在日本のシングルマザー総数におけるその原因は離婚が圧倒的。ちなみに婚姻数に対する離婚数という割り算の離婚率は約3割となるが、離婚率ってのはなかなかこれという統計の取り方が無いのでここは参考で。→親が離婚した経験を持つ子供総数の割合統計だと1%とか整合性が取れない数字もあるので誰か整理してください。後述DATAだとシングルマザーの出産率だけでも2.3%なんだが、、)

2016、17年にかけて更に上記傾向は更に強くなっていると思いますが、
世界の傾向は「婚外子の割合DATAが以下」
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1520.html


各国倍増しておりまして、フランスやスウエーデン、デンマークは50%超えてます。
(オランダ、英国、スペイン、米国も40%越え)
●日本も「子供手当」が充実してくれば諸外国に近づいていくと思われです。

理由は簡単で、『共同幻想』としての『家族』運営する場合親の権威性の建て前というか合理性は相続する家督があるから派生するもので(わかりやすく言えば欧米なら貴族、日本なら武家の跡継ぎに始まり、家伝統の農地や商売などの継承)長男総取りなどの男子相続があるから現責任者の男親には物理的な権力が発生し、その権力をバックに権威実力が発現するワケです。
よくサラリーマン世帯の男親が「どんな父親であるべきかわからない」なんて話もよくありますけど、そりゃわからないのでは無くって(笑、家督相続を前提としない家族運営における父親の親権は法律上存在するだけで実行力のある権威は最初っから”何も無い”のです。

■もうちょっと簡単に言えば「跡継ぎの男の子の産めない嫁はクズ」みたいな時代が終わったのだとしたら、『共同幻想』としての『家族』も”結婚幻想”も終わったんだよって事。
(勿論その趣旨は女性差別『共同幻想』の終焉であり、女性特有に広範に見られるメンタル問題である「結婚願望」における”結婚”という言葉に連想される権威的タイトル感の消滅。)

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posted by kagewari at 21:55 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月13日

現代社会の『共同幻想』

『共同幻想』崩壊時代なんて言われていますが、
現代社会だからこその『共同幻想』も存在します。
(軍隊はロボット化AI化が進むまでいつの時代も『共同幻想』が中核なので例外)
今後も残る典型的『共同幻想』は体育会系部活であったり(理由は軍隊と同じでチームで戦う共通認識が存在そのものであるため)、商工会などの一部地域共同体であり(商店街の不動産立地により半ば強制的に運命共同体となるため)、徒弟制度の伝統料理厨房などやはり限られたものになります。

これも残るだろうって部分もかなり怪しくなっており、
『お祭り』→昨今盆踊りの音にもクレームがくる
『企業組織』→ブラック企業批判であり、現在政府が進めている働き方改革、
『労組』→日教組の組織率すら怪しくなっている
『家族』→シングルマザーの増加(右肩上がりのうなぎのぼり)
(注:家族が『共同幻想』として機能するには継ぐべき”家督”がその権威性の後ろ盾として必要であり、父親がいても高度経済成長サラリーマン世代以降の家族はクラス《階級》として既に『共同幻想』としては崩壊し”なんちゃって化”しており、解放予備軍であった。)
文部省がイジメ問題理解の根本的間違いに気が付けば、少人数化に応じて学校もクラス(階級)運営を止めオープン(単位制)化するでしょう。

■話のメインはここではありません
残り続ける『共同幻想』とは、組織ではなく”概念や文化”としての『共同幻想』です。
「文化や慣習法としての道徳心」だとか
「言語(地域方言も重要項目)」や
「国籍(=民族を意味しない「国としての伝統や文化」)」など
そして「民主制による統治(多数決を是とする仕組み)」もそうかもしれません(『集団的安全保障』もその延長上にある)。
 ↑
政治のとこに違和感ある人いるかもですが、
昭和を代表する『共同幻想』のひとつに「国民的大歌手」という存在があります。
映画スターもそうでしたが、国が豊かになるにつれ大スターは(国民の趣味性が多様化するなか)どうしたって分散化によりスケールが縮小化し、アイドルが握手会するに至るのですが、
握手会の代表選選手と言えば政治家ですからね。

ざっくり言えば、『共同幻想』が組織や集団を束ねる状況は限定的なものとなり、
現在残っている状況も早晩滅びていくのだと思いますが、その”概念は残る”。
●確信犯的『共同幻想』保守選択は滅びの過程の中でもまだまだ存在し続けますが、社会帰属性を目論むような選択は母数の崩壊により難しくなる。
注:『共同幻想』社会が形成されなくなるのではありません。権威的に共通認識のある組織を意図的に運用するような仕組みが崩壊するだけで、ナチュボーンで共通認識のある個人が集まれば(志願制の)『共同幻想』社会が形成可能ですから(軍隊や体育会系部活などと同じパターンです)。
 ↓
結果として将来の『共同幻想』選択とは「ダイレクトに組織に所属したりなど社会帰属性を意味せず、伝統保守思想を支持する生き様や政治的スタンス」のようなものになるのかなと思います。

即ち『共同幻想』は社会システムとして崩壊後も保守的選択系「哲学」として残り続ける。

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posted by kagewari at 04:08 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月02日

DV問題における「関係性」について解説しておこうと思う

DV問題ってのは、心理的にどうしてそうなっちゃうのかって部分無しに理解できない。
関連する事項は説明するまでも無く『共依存』関係の可能性です。
『共依存』は恋愛がらみの局面において、メンタル問題系の典型事例のひとつであり、
(※静の典型に『引きこもり』があるとすれば、動の典型に『共依存』があると考えてもよい)
中でもDV関連の相談事例として「次の男性もDVですか」みたいな状況があれば、『共依存』事例であり具体的状況の前にその「関係性」を分析しなければ全体像を見失う。

よく似た状況としてメンタル問題当事者が過去イジメ関連など人間関係の経験がありながらも「何故なのか(確信犯的選択無しに)『共同幻想』社会に半ば強迫的に関係し、またイジメ被害に合いました」のような現象があり、決して少なくない事例です。

悪循環の解決を優先させるのであれば『共依存』の理解が不可欠となる。

■話が少々複合的になるので限定的にイジメ問題のおさらいしますが、
集団が登場人物として関係しないと(社会的問題としての)イジメ現象は100%不可能です
極論、ひとりではイジメ問題を引き起こすことできない。
階級や組織として形成されている社会や集団には『共同幻想』が存在します。
仮に、その反対となる社会を定義するなら特定集団化を伴わない「烏合の衆状態」でありながらも”テーマや利益関係”で集散している状態となる。
典型例では無いけれどもわかりやすい事例のひとつが2chなどのオープンなネットワーク社会。
イントラネットとインターネットの対比で考るとわかりやすい。
(■■■同じネットワークでもSNSは仮想『共同幻想』なので趣旨が真逆であり要注意■■■)

2chなどでは日常社会以上に罵詈雑言が飛び交うが(ある意味どうしてなのかが明解に言語化されるので)何がどうしてこうなったという事実関係も明確なので(ガチの闘争は起きるが)イジメの構図にはならない(不快なら退出すればよいだけだから)。
 ↑↓
逆説的に言えば、イジメ問題対応初動の鉄板法則は「まず当該社会との関係を絶つこと」となる。

『共同幻想』は血の掟じゃありませんが、共通認識や権威性認知の共有により成立するため(構成員としての忠誠や組織に対する帰属愛)、組織加盟意思の曖昧な個体が参加するだけで集団心理として組織的不安に陥り(典型例が左翼運動の内ゲバであり裏切り者がひとりいる系ドラマ)、集団的防衛反応を引き起こすため、メンタル問題当事者が強迫的に組織に参加した事だけで(極論参加の噂があるだけで)イジメフラグとなると考えておくべき(そもそも『共同幻想』はそういう性質の概念だから)。


■『共同幻想』系の集団組織化って概念自体、古代から近代までの話であって、現代の先進国社会の場合(部活や軍隊などの確信犯的志願制の組織を例外に)既に通用しない話であり(プライバシー保護的観点からみてもNG)、現代社会の先進国においては積極的に『共同幻想』崩壊を前提に考えなければならない代物で(故に現代社会においてイジメやパワハラやセクハラやブラック企業などの問題としてそれが表面化している)、存在そのものからして問題視してもいいスケールの話になる。
ですから、無理筋の関係者を何らかの技術で仲良くしましょうみたいな発想は完全な”ド間違い”。
 ↑
見方を変えると、現代社会における『共同幻想』とは(そこに存在していれば)既に「社会強迫的概念」と捉えることもできる(現存することそれ自体が間違いであり「ブラック企業」の原因)。
(※企業の組織編制もそうですが、本来文部省はクラス《階級》編成による学校運営をとっととやめて大学などにおけるオープンキャンパス的な運営に切り替えないとこの問題は根本的に解決しない。)

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posted by kagewari at 18:10 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月20日

心理学における空間的な認識

この話は試案であり、何か結論めいたものも導き出せていないので、
思考中のメモ書き的に残しておこうと思う。

たとえば、地下鉄や電車内でお馴染みの迷惑行為小集団を見つめるその他大勢の暗黙の視線なんて状況ありますよね。
さて、この時”なんとなく”周囲のその他大勢に認知されるのは「某集団を包み込むような空間(雰囲気とも呼ばれる小世界)」、極端に言うと「そこだけ異国のような違和感」みたいな?
確かにそう認知される”境い目のある特定空間”が存在しているのは事実。

さて、その空間が主体的に実存しているのか、無意識に、或は周囲の観察認知により後発的に実存しちゃうのか?様々な視点はあると思うのだが、心理学にとっての関心事項は「当事者自我にとって何であったのか」なのだから、それぞれの自我からどうなっているのか考えてみる。

その他大勢の観察視点の場合、
見えているのは間違いなく迷惑集団の『共同幻想』空間であり、その『共同幻想』そのものが異質なのでは無く、電車内などの公的空間の場合そこに私的空間を持ち込む事は不文律的にタブーとされている(車両内でのメイクにあれこれ批判があるのもこれが原因)。
何もこれは堅苦しい慣習の話では無く、元をただせば法治国家のルールであり、まさか電車内で下着の着替えをするものがいないように(時にわいせつ罪にもなり兼ねない事例もあるのだし)、プライバシーは保護されると同時に、公共の場で披露するのは(広義の解釈をすれば)その反対に”違法”なのです。
つまり、その他大勢の視点が見たものは
「おいおいどっかのトンチンカン集団が身内の論理(プライベートな)『共同幻想』を公共の場に持ち込んでるぞ(電車内は花見の公園じゃネーよ)」となります。

持ち込まれたプライベートな『共同幻想』単体を批判しているのでは”無い”。

では、同時者である迷惑集団の視点はどうか
感じられているのは間違いなく派生しちゃった(視野狭窄も含む)『共同幻想』ルールの優先性(個人の勝手な判断は許されず組織に追随協調しなければならない)に押され、優先順位のジレンマの中で「あたかも車両内という海にプライベートな『共同幻想』の屋形船が浮かぶように」周辺だけに限定される小空間に限れば(グループ内向き視線で外郭を視野外にすれば)的判断が無意識に進行し、結果として「優先順位のジレンマが空間として実体化してしまう」→なんとなくここだけ浮いている感触はわかっている(わかっているから迷惑集団がDQNの場合同時に喧嘩腰の防衛行動も発令されるワケで→「何見てんだよ!」)。

■素朴にこの現象の謎解きすると
電車などの公共の場では(組織を制度的に強要される修学旅行じゃあるまいし)プライベートな『共同幻想』を派生させるような構成の団体行動は本来抑制的でなければならないワケです。
(ここは一般車両と新幹線や遠距離の特急指定席など”明らかに”持ち込み度合は使い分けられてる)

極端な事例で言えば「図書館にどこやらの不良グループがいつもの”彼ら”の『共同幻想』の日常を演じただけでトンでもの迷惑行為になる」ことからも確認できる。
■大事な事は『共同幻想』や社会適応を慣習的に是としてきた歴史のある日本であっても、どこでもここでも下層ヒエラルキー『共同幻想』(友達関係や家族社会などの私的『共同幻想』)の露出を禁じており←いやいや説明するまでも無く『共同幻想』ってのは権威性認知を背景とする階級社会(ピラミッド型ヒエラルキー)を前提とするのだから→上部構造空間にそれを持ち込めば自らが下部構造として所属している階級社会構造に対するソフトなテロになってしまうのだから、説明するまでも無い話。

(欧米などの『共同幻想』と日本の”世間様権威社会”との違いは、欧米はバレバレにその上部構造がダイレクトに教会であるため、日本のように重層的な階層構造になっていないため。であるから公共の場でもかなり大胆にプライバシーを披歴する欧米文化圏の人間も「教会の中でも同じように騒いでもいい」という感覚は”無い”。彼らにとって公共の場とは「異教徒すら存在する無法アリ地帯」な解釈も可能なので一見個人主義に見えたり私的『共同幻想』の披露に遠慮が無いかのように”見える”のだが、『共同幻想』適応選択者は常に宗教上の慣習・道徳感により無意識に拘束されている。)

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posted by kagewari at 17:56 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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所謂臨床系の言うところの行動療法ってほど堅い話ではありませんが期待感あるアプローチだと思います
自我と時間』参照

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