実際相談がある時に、根拠となる話として精神分析自体の話をする事がある。精神分析自体の在り方に関わる事なんだけれど、精神分析の本旨は「自我分析」の側面が強く、“自我論”なんだとも言える。
建築家が、一部構造に無理がある建造物の傾きの理由を分析するのに似て、精神分析は補強や補修を当てこんだ物ではない。
背景にしているのは「自我は何で、どうなっているのか?」であって、その派生として心理学がある。悩みに対しての答えは処方箋のような傾向ではない、「こうだから」というレポートに近い。
何故って、個々人は自分自身の自我の建築家であって、実際何処をどうしようかって話は個々人の選択で「こうすべき」なんて常識論が介在すると大変な事になる。そこからの「こうしたいのだがどうするか」については又個別の話になる。
精神分析なんて言葉があるからいけないのかも知れないが、精神分析ってのは「動機は何?」「そしてそれはどうして」を考える『主観でも客観でもない、ある見方』で、
“そんなアイデア”は、悩みに対してというより自分に対してのアイデアなので、精神分析的なスタンスにどう視点を移すのかがテーマなのかも知れない。
自我は世界を測る尺度なのだから、そこに属性過多の主観が入り込むと、世界は均一のキャラクターイメージになってしまう。
これも矛盾する話になるんだけれど、主観なのに「その主となる自分が属性に拠ると主観が成立していない」と言えばいいのか、、
そもそも「精神分析的」なるものが何を見ているのか考えてみようと思う。
2005年05月31日
2005年05月13日
米軍は北朝鮮を空爆するのだろうか
中国の動きから見ると、このボーダーは核実験になりそうだ。
一時アメリカは、中国ロシア(そりゃ北朝鮮空爆となると、陸続きの国が一番困る)に配慮して、柔軟姿勢を見せるんだけれど、これは一定の外交姿勢に見える。
そうなると、核実験=空爆って線が現実味を帯びるのだが、ここのとこのアメリカの路線は、軍事力による民主主義国家の実現に他ならなくて、アメリカの安全保障を考えるときにテロ支援国家になりうる非民主主義国家は危険な存在なわけで、今「世界の民主主義」ってのは=アメリカの安全保障を意味しちゃっている。
事の始まりは、冷戦後「CIA発の軍事政権」であった親米系国家を次々と民主化させて、アメリカなりの責任を取るって動きからきているのだけれど、所謂『旧東側』として取り残された北朝鮮は、政治的な圧力で民主化を促すのが難しい、現実親米系でも軍事政権の国に対しては、米軍の軍事オプションが行われてきたのであって、ロシア(このロシアの民主化にもアメリカは相当不満らしい)や中国(ここは民主国家じゃないし、、)による北朝鮮の民主化が望めなく、反体制派の援助するにも反体制派すら存在しないこの国に、軍事オプションが使われる可能性は高い。
一番その可能性が高くなる背景は「世界的にも批判を受けにくい」からだ、
一般民衆に餓死者のある国に経済制裁しても、元々経済力のある国へのそれとは効果や意味が全然違っちゃうので、意味があるんだか無いんだかもよくわからない。経済制裁の最中国連から食糧援助するのもおかしな話になる、
困った事に、「核はマズイだろ」と文句言いに言ったロシアの高官が、相当嫌な思いして帰ってきたらしく、ロシア辺りも「仕方ネーか」な世論形成が行われてもおかしくない勢いになっている。
何が怖いって、核がテロリストの手に渡る可能性について、危惧するのはアメリカもチェチェンを抱えるロシアも同じワケで、日本は拉致問題があるから北に同情する世論は少ない。
アメリカとしては「民主化」という命題があれば、国内世論に対して整合性が取れる(大量破壊兵器の無かったイラク攻撃が問題だとすれば、自分で「核兵器がある」と宣言している北朝鮮への空爆についてその類の批判を心配する事も無い)。
アメリカの経済力がスーパーパワーで無くなっている今、アメリカをスーパーパワーたらしめているのは軍事力と金融(国際的な市場の自由化も大命題)なのであって、この力が無力であるって「共同幻想」が成立すると、アメリカの実存自体が瓦解する(これは世界的な不安定要因になる)、最近の風潮は「世界におけるアメリカを守るためのアメリカの軍事力行使の容認」てな風景にも見える。
実際EUにも日本にも、アメリカの崩壊を前提にした将来像など無いのであって、、
少なくとも「アメリカは北朝鮮を空爆したい」のは間違いないだろう。
一時アメリカは、中国ロシア(そりゃ北朝鮮空爆となると、陸続きの国が一番困る)に配慮して、柔軟姿勢を見せるんだけれど、これは一定の外交姿勢に見える。
そうなると、核実験=空爆って線が現実味を帯びるのだが、ここのとこのアメリカの路線は、軍事力による民主主義国家の実現に他ならなくて、アメリカの安全保障を考えるときにテロ支援国家になりうる非民主主義国家は危険な存在なわけで、今「世界の民主主義」ってのは=アメリカの安全保障を意味しちゃっている。
事の始まりは、冷戦後「CIA発の軍事政権」であった親米系国家を次々と民主化させて、アメリカなりの責任を取るって動きからきているのだけれど、所謂『旧東側』として取り残された北朝鮮は、政治的な圧力で民主化を促すのが難しい、現実親米系でも軍事政権の国に対しては、米軍の軍事オプションが行われてきたのであって、ロシア(このロシアの民主化にもアメリカは相当不満らしい)や中国(ここは民主国家じゃないし、、)による北朝鮮の民主化が望めなく、反体制派の援助するにも反体制派すら存在しないこの国に、軍事オプションが使われる可能性は高い。
一番その可能性が高くなる背景は「世界的にも批判を受けにくい」からだ、
一般民衆に餓死者のある国に経済制裁しても、元々経済力のある国へのそれとは効果や意味が全然違っちゃうので、意味があるんだか無いんだかもよくわからない。経済制裁の最中国連から食糧援助するのもおかしな話になる、
困った事に、「核はマズイだろ」と文句言いに言ったロシアの高官が、相当嫌な思いして帰ってきたらしく、ロシア辺りも「仕方ネーか」な世論形成が行われてもおかしくない勢いになっている。
何が怖いって、核がテロリストの手に渡る可能性について、危惧するのはアメリカもチェチェンを抱えるロシアも同じワケで、日本は拉致問題があるから北に同情する世論は少ない。
アメリカとしては「民主化」という命題があれば、国内世論に対して整合性が取れる(大量破壊兵器の無かったイラク攻撃が問題だとすれば、自分で「核兵器がある」と宣言している北朝鮮への空爆についてその類の批判を心配する事も無い)。
アメリカの経済力がスーパーパワーで無くなっている今、アメリカをスーパーパワーたらしめているのは軍事力と金融(国際的な市場の自由化も大命題)なのであって、この力が無力であるって「共同幻想」が成立すると、アメリカの実存自体が瓦解する(これは世界的な不安定要因になる)、最近の風潮は「世界におけるアメリカを守るためのアメリカの軍事力行使の容認」てな風景にも見える。
実際EUにも日本にも、アメリカの崩壊を前提にした将来像など無いのであって、、
少なくとも「アメリカは北朝鮮を空爆したい」のは間違いないだろう。
2005年05月04日
久しぶりにTVを見て「憲法改正」についてふと思う。
自室で、休養したいときなんかによく何度も見た映画を観る。(ビデオレンタルってのが下火になり、レンタル店が閉店になったときに何十本か買い込んだ)あまり知られていないが、ヨーロッパ映画の「カサンドラクロス」ってのがある、ソフィアローレンやリチャードハリスが出ている奴、
これを見て触発された小林久三が「皇帝のいない八月」って本を書いてこれが映画化されてるわけ、これがなかなか面白い、カサンドラクロスとは別の意味で秀作。
ここで主演の渡瀬恒彦演じる元自衛官は「憲法改正の悲願のため命を捨てる奴はこの国にいないのか」とクーデター計画で列車をジャックし部隊を率い、鎮圧部隊と戦闘するのだが、、、。
今巷じゃ「改憲論議」でまっさかりで、左翼が目の色変えて大騒ぎしているどころか、今や左翼政党は消え行く存在だ、
まさか自衛隊を軍隊にしようなんざ右翼的発想は自民党右派にも民社の元自由党の議員にも無い。
いかに、ファンタジーとして国体とか軍隊なるものが色あせているかがわかる。今や自衛隊の国際協力をいかに考えるかってスタンスの違いがあるだけで、誰一人軍部独裁なんて話を「嬉しい事」と考える輩はこの国から消えた。
いいとか悪いとかではなく「皇帝のいない八月」を見て、あーほんのちょい前昭和の時代にはこの話がファンタジーになったんだよな〜と、しみじみ思う。
2001年宇宙の旅を2005年に見る感覚とはちょっと違う違和感。
共同幻想のフェイズってのが、今のこの日本ではEUともアメリカとも違う文明化の先にいってるのがわかる。安保闘争放心状態時代のノンポリとか無関心世代とかとは次元の違うフェイズには間違いない。
だから余計に、昨今の中国韓国の反日に『口ぽっかん状態』なのだが、おそらくこの日本は国家ってな概念自体が「日本代表」の時ぐらいしか意味が無くなっていて(実は「日本代表」で盛り上がるときもある意味パロディのノリってか、「今、熱狂してるチームの名前は!日本代表」って感じが大半)、韓流ブームもどこかハイソなマダムの一時の愉しみ庶民ヴァージョンな感じだし(これある意味若いツバメなワケだから、国民的侮辱だって反発あってもいいような気がするんだが、、)
あまり話題になっていないが、共同幻想の崩壊過程は一定のレベルで終了していて、これに呼応しているのが「憲法論議」なんだと思う、なんとなくあるあうんの呼吸のような「憲法改正」へのコンセンサスって9条と全然別個のところにあるんじゃないのだろうか?
これを見て触発された小林久三が「皇帝のいない八月」って本を書いてこれが映画化されてるわけ、これがなかなか面白い、カサンドラクロスとは別の意味で秀作。
ここで主演の渡瀬恒彦演じる元自衛官は「憲法改正の悲願のため命を捨てる奴はこの国にいないのか」とクーデター計画で列車をジャックし部隊を率い、鎮圧部隊と戦闘するのだが、、、。
今巷じゃ「改憲論議」でまっさかりで、左翼が目の色変えて大騒ぎしているどころか、今や左翼政党は消え行く存在だ、
まさか自衛隊を軍隊にしようなんざ右翼的発想は自民党右派にも民社の元自由党の議員にも無い。
いかに、ファンタジーとして国体とか軍隊なるものが色あせているかがわかる。今や自衛隊の国際協力をいかに考えるかってスタンスの違いがあるだけで、誰一人軍部独裁なんて話を「嬉しい事」と考える輩はこの国から消えた。
いいとか悪いとかではなく「皇帝のいない八月」を見て、あーほんのちょい前昭和の時代にはこの話がファンタジーになったんだよな〜と、しみじみ思う。
2001年宇宙の旅を2005年に見る感覚とはちょっと違う違和感。
共同幻想のフェイズってのが、今のこの日本ではEUともアメリカとも違う文明化の先にいってるのがわかる。安保闘争放心状態時代のノンポリとか無関心世代とかとは次元の違うフェイズには間違いない。
だから余計に、昨今の中国韓国の反日に『口ぽっかん状態』なのだが、おそらくこの日本は国家ってな概念自体が「日本代表」の時ぐらいしか意味が無くなっていて(実は「日本代表」で盛り上がるときもある意味パロディのノリってか、「今、熱狂してるチームの名前は!日本代表」って感じが大半)、韓流ブームもどこかハイソなマダムの一時の愉しみ庶民ヴァージョンな感じだし(これある意味若いツバメなワケだから、国民的侮辱だって反発あってもいいような気がするんだが、、)
あまり話題になっていないが、共同幻想の崩壊過程は一定のレベルで終了していて、これに呼応しているのが「憲法論議」なんだと思う、なんとなくあるあうんの呼吸のような「憲法改正」へのコンセンサスって9条と全然別個のところにあるんじゃないのだろうか?
2005年04月17日
ここのとこ論議になる事が多い「報道」について考える(2)。
実際に中国残留孤児の焼き直しキャンペーンが、北朝鮮拉致問題とも言える。報道のスタンスが非常に良く似ている。
感情報道といえばいいのか。
「具体的な事実関係、政府に対する責任の追及、残された問題への戦略的な取り組み、とりわけ6者協議の枠組みをどうするのか」この辺の“実際の問題”はおざなりで、ワイドショー的報道が中心となる。
そこの端っこに、反日報道があるように感じる。
どうしても左翼的な論調に終始したジャーナリズムは、日本の教科書問題で主役級のキャンペーンを張った時期があり、その論点はアンチ文部省であり、日本の教科書が大問題と随分と喜屋武ペンを張った。
この報道が、韓国などに逆輸入の形で報道され国際問題になるのだが、この時に『他の国の教科書は?』的な詰めは行われなかった。現実、教科書問題を考えていた保守系のインテリが時々他国の例を挙げて問題視しても「仕方のない言い訳」のような扱いで、もっぱら問題提起は日本の教科書だった。
歴史の授業は「ほとんど現代史をやる時間が無いのに」だ。
方や「なくよウグイス」で大騒ぎしている現場にあって、ジャーナリズムサイドは現代史の問題で「きゅうきゅうと文部省批判をやった」、日本の自虐史観が「責任逃れ(天皇の責任追求を回避するガス抜きであり、もっぱら実際の戦争責任は世論にも多々あった)」の典型で、今更現行政府の文部省をつっついて「自分は平和主義者だ」的ノリで一方的に盛り上がられてもそれは、マスメディアのマスターベーションのような形でしかなかった。
つまり
反日教育の問題提起(反日教育)は、これまで報道されていなかったワケで、
突然反日問題を報道されても、「小泉の靖国」ぐらいしか背景に浮かび上がらない。
「何を怒ってるんだか、気味が悪い」的な反応が、この報道の結果で、各国の教育が反日を利用しなければならない側面の冷静な報道が中心になっていない。
特に中国は「文化大革命」なんかによって、伝統的保守が飛んじゃっていて(明治維新じゃないけれど)、ナショナリズムが適正規模に収まるのか非常に危険だった。韓国の場合には日本の占領による教育制度や、アメリカの軍事独裁政権設立なんかで文明化の基礎部分が構築さてしまっているのが、適正保守の存在を阻害し、不安定要因になっている。
◆これまで自分が日本の教科書を批判していた事と話が被ってしまってジャーナリズムサイドには、ヤバイわけで、、
あまり問題視されなかったが、そりゃ安保で大騒ぎしていた時期には映画監督(大島渚あたり)がよく裁判で表現の自由で戦ったが、「バトルロワイヤル」規制についての報道はとんだ腰砕けで、昔の表現の自由報道に腰が据わっていなかった事を証明してしまっている。
実は「ジャーナリズム」というカテゴリーや、このジャーナリストを志望する動機を持つ人物の人格傾向ってのが有る。
ジャーナリズムは、文明化が進む時のスクラップアンドビルド時の批判勢力(保守的思考の問題点と、リベラルサイドの主張の報道なんだが、もっぱら保守的思考に対する批判勢力である場合が多い)なのだが「自分自身で何かやっているワケでは無い」ので、これを中和するために『報道の中立性』が謳われる。
言い換えると「ジャーナリストへの志望動機自体、結果として特有の人材だけを報道機関に集めてしまう」。
これまでは、形だけ中道左派に置けば「なんとなくジャーナリズムっぽかった」しかし、これがねじれた。
村山政権だったり、
北朝鮮の拉致だったり、
小選挙区制による派閥解体だったり、
小沢が野党になったり、
巨人軍の人気凋落だったり
ジャーナリズムは自主的判断をする独立性を求められた。
しかし、今完全に取り残されている。
本音が行き交うネットの論議にとても追いついて行けないのが現状で、そりゃライブドア(Seesaaがエイプリルフールで茶化すぐらいブログに力入れているしね)が怖いわけだ。
感情報道といえばいいのか。
「具体的な事実関係、政府に対する責任の追及、残された問題への戦略的な取り組み、とりわけ6者協議の枠組みをどうするのか」この辺の“実際の問題”はおざなりで、ワイドショー的報道が中心となる。
そこの端っこに、反日報道があるように感じる。
どうしても左翼的な論調に終始したジャーナリズムは、日本の教科書問題で主役級のキャンペーンを張った時期があり、その論点はアンチ文部省であり、日本の教科書が大問題と随分と喜屋武ペンを張った。
この報道が、韓国などに逆輸入の形で報道され国際問題になるのだが、この時に『他の国の教科書は?』的な詰めは行われなかった。現実、教科書問題を考えていた保守系のインテリが時々他国の例を挙げて問題視しても「仕方のない言い訳」のような扱いで、もっぱら問題提起は日本の教科書だった。
歴史の授業は「ほとんど現代史をやる時間が無いのに」だ。
方や「なくよウグイス」で大騒ぎしている現場にあって、ジャーナリズムサイドは現代史の問題で「きゅうきゅうと文部省批判をやった」、日本の自虐史観が「責任逃れ(天皇の責任追求を回避するガス抜きであり、もっぱら実際の戦争責任は世論にも多々あった)」の典型で、今更現行政府の文部省をつっついて「自分は平和主義者だ」的ノリで一方的に盛り上がられてもそれは、マスメディアのマスターベーションのような形でしかなかった。
つまり
反日教育の問題提起(反日教育)は、これまで報道されていなかったワケで、
突然反日問題を報道されても、「小泉の靖国」ぐらいしか背景に浮かび上がらない。
「何を怒ってるんだか、気味が悪い」的な反応が、この報道の結果で、各国の教育が反日を利用しなければならない側面の冷静な報道が中心になっていない。
特に中国は「文化大革命」なんかによって、伝統的保守が飛んじゃっていて(明治維新じゃないけれど)、ナショナリズムが適正規模に収まるのか非常に危険だった。韓国の場合には日本の占領による教育制度や、アメリカの軍事独裁政権設立なんかで文明化の基礎部分が構築さてしまっているのが、適正保守の存在を阻害し、不安定要因になっている。
◆これまで自分が日本の教科書を批判していた事と話が被ってしまってジャーナリズムサイドには、ヤバイわけで、、
あまり問題視されなかったが、そりゃ安保で大騒ぎしていた時期には映画監督(大島渚あたり)がよく裁判で表現の自由で戦ったが、「バトルロワイヤル」規制についての報道はとんだ腰砕けで、昔の表現の自由報道に腰が据わっていなかった事を証明してしまっている。
実は「ジャーナリズム」というカテゴリーや、このジャーナリストを志望する動機を持つ人物の人格傾向ってのが有る。
ジャーナリズムは、文明化が進む時のスクラップアンドビルド時の批判勢力(保守的思考の問題点と、リベラルサイドの主張の報道なんだが、もっぱら保守的思考に対する批判勢力である場合が多い)なのだが「自分自身で何かやっているワケでは無い」ので、これを中和するために『報道の中立性』が謳われる。
言い換えると「ジャーナリストへの志望動機自体、結果として特有の人材だけを報道機関に集めてしまう」。
これまでは、形だけ中道左派に置けば「なんとなくジャーナリズムっぽかった」しかし、これがねじれた。
村山政権だったり、
北朝鮮の拉致だったり、
小選挙区制による派閥解体だったり、
小沢が野党になったり、
巨人軍の人気凋落だったり
ジャーナリズムは自主的判断をする独立性を求められた。
しかし、今完全に取り残されている。
本音が行き交うネットの論議にとても追いついて行けないのが現状で、そりゃライブドア(Seesaaがエイプリルフールで茶化すぐらいブログに力入れているしね)が怖いわけだ。
2005年04月13日
ここのとこ論議になる事が多い「報道」について考える。
ライブドアとフジの話によく登場したのが「ジャーナリズムとして大手メディアは機能してるのか」って問題定義で、ここのとこ「問題は深刻になってきた」と思う。
俺がそれを意識したきっかけは、ヤクルト阪神の野村監督のファンだった事から始まっている。元々が、天邪鬼が性分なのでメデイァが左翼寄りだった頃は、右寄りの評論家びいきだった。
そもそも野村の存在が、メディア論になっている。
野村の「月見草論」は、長島をヒマワリに喩えるところから始まるのだが、パ出身で最近哲学的なコラムを書いている豊田辺りから見ると「野村は月見草ではない」。パ・リーグの三冠王であり、野村が月見草なら、パリーグの「唯の選手はどうすんの?」、
つまり「野村月見草」を造り出したのはメディアだ。
メディアと相性の悪い人物ってのはいるもので、千葉すずだったり、サッカー中田だったり、、野村もそのひとり。
前にも書いたが、サッチーバッシング報道はあまりにも偏向だったため(そもそもヘリを飛ばすほどの事件では無い、商業報道のピークで、嫌気をさした報道部出身のキャスターが呆れて降板したほどだった)「メディア自爆したな」と思うきっかけとなった。意外と知られていないが(てか俺の分析なのだが)、このサッチーバッシングの元々は「月見草で、後にアンチ巨人的ヒールに過ぎなかった野村が、阪神の監督という表舞台に出たから」だった。象徴的事件はNHKの特集が「野村野球」を取り上げた瞬間。
この時、月見草野村は終わった。
激しい反動が起きた、それが「サッチー報道」、
鬼畜米英、大日本帝国連戦連勝報道を続けた体質になんら変化は無く、日本のメディアは予め報道内容(ストーリー)を自立的に決められないという特徴がある。
「横並びしているというより、自立性が無い」
「北朝鮮拉致問題報道」(北朝鮮を悪者としてガンガンやるのだが、これを解決する手段についてはサッパリしている。印象先行の報道)
「巨人中心報道」(現実として人気が凋落しているのに、なんとなく巨人中心の報道を変えない)
「アメリカなんとなく悪者報道」(とりあえず、コメンテーターにはアメリカに批判的な意見を言わせて、反権力のノリでアメリカをなんとなく悪者レッテルで引っ張る)
「村山政権いい人報道」(阪神大震災で、自衛隊出動の遅れをまったく批判できず、腰が折れたまま終わる。これができなかった理由が以下になる)
「小沢悪者報道」、、、
こういう偏向性(みな「同じ論調」が妙だと言っているので、殊更報道内容を個別に批判するつもりはない、「同じ論調」が妙だって話。)に、うんざりしている人は2chに流れた。
そして「ライブドア堀江悪者報道」
世論調査の結果だと、フジの論調に迎合する芸能人(大手メディアの論調と同じなワケで)に、世論は批判的だ。これをメディアはどう考えるのか?
そして「巨人がダメならメジャーリーグ」に変わり身するやり方(メジャーやるなら、日本人選手以外の報道がもっとあるべきでしょ)。
本当に伝えるべき情報を発信しているんだろうか?
俺がそれを意識したきっかけは、ヤクルト阪神の野村監督のファンだった事から始まっている。元々が、天邪鬼が性分なのでメデイァが左翼寄りだった頃は、右寄りの評論家びいきだった。
そもそも野村の存在が、メディア論になっている。
野村の「月見草論」は、長島をヒマワリに喩えるところから始まるのだが、パ出身で最近哲学的なコラムを書いている豊田辺りから見ると「野村は月見草ではない」。パ・リーグの三冠王であり、野村が月見草なら、パリーグの「唯の選手はどうすんの?」、
つまり「野村月見草」を造り出したのはメディアだ。
メディアと相性の悪い人物ってのはいるもので、千葉すずだったり、サッカー中田だったり、、野村もそのひとり。
前にも書いたが、サッチーバッシング報道はあまりにも偏向だったため(そもそもヘリを飛ばすほどの事件では無い、商業報道のピークで、嫌気をさした報道部出身のキャスターが呆れて降板したほどだった)「メディア自爆したな」と思うきっかけとなった。意外と知られていないが(てか俺の分析なのだが)、このサッチーバッシングの元々は「月見草で、後にアンチ巨人的ヒールに過ぎなかった野村が、阪神の監督という表舞台に出たから」だった。象徴的事件はNHKの特集が「野村野球」を取り上げた瞬間。
この時、月見草野村は終わった。
激しい反動が起きた、それが「サッチー報道」、
鬼畜米英、大日本帝国連戦連勝報道を続けた体質になんら変化は無く、日本のメディアは予め報道内容(ストーリー)を自立的に決められないという特徴がある。
「横並びしているというより、自立性が無い」
「北朝鮮拉致問題報道」(北朝鮮を悪者としてガンガンやるのだが、これを解決する手段についてはサッパリしている。印象先行の報道)
「巨人中心報道」(現実として人気が凋落しているのに、なんとなく巨人中心の報道を変えない)
「アメリカなんとなく悪者報道」(とりあえず、コメンテーターにはアメリカに批判的な意見を言わせて、反権力のノリでアメリカをなんとなく悪者レッテルで引っ張る)
「村山政権いい人報道」(阪神大震災で、自衛隊出動の遅れをまったく批判できず、腰が折れたまま終わる。これができなかった理由が以下になる)
「小沢悪者報道」、、、
こういう偏向性(みな「同じ論調」が妙だと言っているので、殊更報道内容を個別に批判するつもりはない、「同じ論調」が妙だって話。)に、うんざりしている人は2chに流れた。
そして「ライブドア堀江悪者報道」
世論調査の結果だと、フジの論調に迎合する芸能人(大手メディアの論調と同じなワケで)に、世論は批判的だ。これをメディアはどう考えるのか?
そして「巨人がダメならメジャーリーグ」に変わり身するやり方(メジャーやるなら、日本人選手以外の報道がもっとあるべきでしょ)。
本当に伝えるべき情報を発信しているんだろうか?
2005年03月27日
ライブドアVSフジに「今何が起きているのか」心理学的に考える
堀江氏の年齢層に顕著な傾向って実は前々から感じていて、この世代特有の雰囲気ってのがある。
「勝ち組み負け組み」ってな、一時期経済界で流行った言葉を世代として認知している層で、おそらくこれって一番働き盛りで世相に敏感だって部分から来ていると思う。
実際この世代の仕事振りは凄まじくて、高度経済成長時のサラリーマンよりハードに仕事しているのじゃないだろうか?
バブル崩壊以降、成功の夢ってのはビルゲイツを頂点にしたITってカテゴリーでは生き残り、この特徴的な構造が古い団塊の世代から見ると「勝ち組み負け組み」に見えた。ニワトリと卵の話じゃないが、この「勝ち組み負け組み」論はもっぱらこの若い世代に受け入れられ、IT系の会社の隆盛に加速度がつくことになる。
実際それは経済のあるべき姿なのだろうけれど、『勝ち組み負け組み世代』が、今時代をリードしている。そして、世代間闘争のように、プロ野球参入⇒テレビ媒体への進出(フジが狙いなのは明らかだから)、が表面化しているってワケだ、
今使っているこのSeesaaブログの機能拡張もハイスピードで、この『勝ち組み負け組み世代』の持つバイタリティーとスピードの恩恵にあずかっている人は多い。
彼らに対する一部の反発は(意外とライブドア支持に団塊世代が多いのは、「勝ち組み負け組み」ってな言葉の言い出しっぺだからじゃないか)、そのスピードと破天荒な言動に対してで、その仕事振りに対してではない。ヤフー楽天ライブドア無くして、今の日本のITが語れないのは事実で、「堀江が個人的に嫌いだ」とか「外資に日本は食い物にされている(日本の金融が力不足だって意味だもの)」とかは瑣末な事だと思う。
ライブドアがどうのとか、ヤフーがフジへの覇権を握るのかとかの話は別にして、ここ10年放送メディアにおける放送内容に2chじゃないがネットの世界からは強い反発があった、フジが買収を阻止しただけで「フジが勝った」なんて話しにはならないだろう。
「勝ち組み負け組み」なんて、デフレ下における成長産業を見た風景の事で、現実に勝ったり負けたりするのでは無いのだから、誰が勝ったとかの論議自体ナンセンスなんだけれど、
『勝ち組み負け組み世代』から見ると今回の買収劇は「勝つか負けるかの大勝負」で、堀江氏の「命がけの勝負」って言葉に嘘は無いと思う。
「勝ち組み負け組み」ってな、一時期経済界で流行った言葉を世代として認知している層で、おそらくこれって一番働き盛りで世相に敏感だって部分から来ていると思う。
実際この世代の仕事振りは凄まじくて、高度経済成長時のサラリーマンよりハードに仕事しているのじゃないだろうか?
バブル崩壊以降、成功の夢ってのはビルゲイツを頂点にしたITってカテゴリーでは生き残り、この特徴的な構造が古い団塊の世代から見ると「勝ち組み負け組み」に見えた。ニワトリと卵の話じゃないが、この「勝ち組み負け組み」論はもっぱらこの若い世代に受け入れられ、IT系の会社の隆盛に加速度がつくことになる。
実際それは経済のあるべき姿なのだろうけれど、『勝ち組み負け組み世代』が、今時代をリードしている。そして、世代間闘争のように、プロ野球参入⇒テレビ媒体への進出(フジが狙いなのは明らかだから)、が表面化しているってワケだ、
今使っているこのSeesaaブログの機能拡張もハイスピードで、この『勝ち組み負け組み世代』の持つバイタリティーとスピードの恩恵にあずかっている人は多い。
彼らに対する一部の反発は(意外とライブドア支持に団塊世代が多いのは、「勝ち組み負け組み」ってな言葉の言い出しっぺだからじゃないか)、そのスピードと破天荒な言動に対してで、その仕事振りに対してではない。ヤフー楽天ライブドア無くして、今の日本のITが語れないのは事実で、「堀江が個人的に嫌いだ」とか「外資に日本は食い物にされている(日本の金融が力不足だって意味だもの)」とかは瑣末な事だと思う。
ライブドアがどうのとか、ヤフーがフジへの覇権を握るのかとかの話は別にして、ここ10年放送メディアにおける放送内容に2chじゃないがネットの世界からは強い反発があった、フジが買収を阻止しただけで「フジが勝った」なんて話しにはならないだろう。
「勝ち組み負け組み」なんて、デフレ下における成長産業を見た風景の事で、現実に勝ったり負けたりするのでは無いのだから、誰が勝ったとかの論議自体ナンセンスなんだけれど、
『勝ち組み負け組み世代』から見ると今回の買収劇は「勝つか負けるかの大勝負」で、堀江氏の「命がけの勝負」って言葉に嘘は無いと思う。
2005年02月26日
『記憶』(4)そして「自分の」
記憶に登場する人物のなかで最も延べ登場回数が多いのは「自分」、なんたってこの「自分」が体験したものや感じた事が記憶なのだから。その関わりが薄い話でも「自分」が見え隠れしない記憶は無い。アイデェンティティーは、結果としての自我の形を表すことだと言えるが、記憶はその『根拠』として関わる事になる。
「僕はこんな人間さ」
「嘘付けよお前、一度だってそんなだった事はないぜ」
ま、よくある会話だが、このギャップは記憶の解釈差だと考えてもいい。
○友人が仕事のトラブルで行き詰まっていたので僕は「こうしたほうがいんじゃない?」とアドヴァイスした。
○俺は仕事の壁にあたり、ひとり打開策を考えていた。お調子者のアイツがのこのこやってきて「こうしたほうがいんじゃない?」と、考えの邪魔なんだよ、「ああ、そうかもな」と言った。
上記の両者の記憶は随分と違う。
事実関係は『友人同士が、仕事上の会話をした』に過ぎないが、その記憶の重要な部分はそれぞれの“印象”によっている。
一体どちらが正しいのか?
記憶に正しいも正しくないいも無い、違いがあるだけだ。
この違いを決定付けるのは事実関係の背景事情の解釈(仕事に行き詰まっているのか?越えなければならない仕事の壁を自力で越えようとしているのか?)になるので、大事な事は『情報』になる。
『記憶と情報』
ドグマ(教義)のように、そう簡単に解釈の変更が難しい(たいがいこの記憶の解釈論争になると、言い合いになる)記憶に対して、情報に抵抗のある人はいない。
そもそも情報って何か?
これ「資料」のようなもので、特徴は「自分の関わりが無い」事で、『妙に客観的な話』とでも言えばいいか、、
そしてこの情報次第で記憶の解釈は逆転する
「バカ言ってんじゃねーよ、あの話で営業サイドからもOK出てんの!課長がなんか物足りないからもう一度やんなおせって言ってんだよ」
楽観論と悲観論が同じ事にあり得る訳だから、如何に『解釈』で話のストーリーが変わってしまうのか、実は大概の人が経験で知ってるのであって、この両者の違いを分けるのは『解釈のアイデア』であり、これは情報と同じで『自分とかかわりの薄い妙に客観的な話』に違いが無い。
アイデンティテイーと『妙に客観的な話』
これが同時に存在していないと、自我は不安定になる。
皮肉な事に『自分の意見』という言葉を良く考えてみると、あえて「自分の」と付け加えていないといけない事に気がつくだろうか?
意味ワカランかな・・・
『意見』は必ずしも自分のものではない場合もある言葉だから、「自分の意見」として、「自分の」をくっつけなければならない。そしてそれは単独で『意見』でなければならない。
『気持ち』にも同じ事が言える、「自分の気持ち」
◆客観性が後退するって事は、自意識が過剰であるを意味し、この時「意見」や「気持ち」と認識されているものは「自分の」では無くなる。
余計に意味ワカランかな・・・
もうちょい考えて、次回わかりやすい話にならんか書き直してみようと思う。
「僕はこんな人間さ」
「嘘付けよお前、一度だってそんなだった事はないぜ」
ま、よくある会話だが、このギャップは記憶の解釈差だと考えてもいい。
○友人が仕事のトラブルで行き詰まっていたので僕は「こうしたほうがいんじゃない?」とアドヴァイスした。
○俺は仕事の壁にあたり、ひとり打開策を考えていた。お調子者のアイツがのこのこやってきて「こうしたほうがいんじゃない?」と、考えの邪魔なんだよ、「ああ、そうかもな」と言った。
上記の両者の記憶は随分と違う。
事実関係は『友人同士が、仕事上の会話をした』に過ぎないが、その記憶の重要な部分はそれぞれの“印象”によっている。
一体どちらが正しいのか?
記憶に正しいも正しくないいも無い、違いがあるだけだ。
この違いを決定付けるのは事実関係の背景事情の解釈(仕事に行き詰まっているのか?越えなければならない仕事の壁を自力で越えようとしているのか?)になるので、大事な事は『情報』になる。
『記憶と情報』
ドグマ(教義)のように、そう簡単に解釈の変更が難しい(たいがいこの記憶の解釈論争になると、言い合いになる)記憶に対して、情報に抵抗のある人はいない。
そもそも情報って何か?
これ「資料」のようなもので、特徴は「自分の関わりが無い」事で、『妙に客観的な話』とでも言えばいいか、、
そしてこの情報次第で記憶の解釈は逆転する
「バカ言ってんじゃねーよ、あの話で営業サイドからもOK出てんの!課長がなんか物足りないからもう一度やんなおせって言ってんだよ」
楽観論と悲観論が同じ事にあり得る訳だから、如何に『解釈』で話のストーリーが変わってしまうのか、実は大概の人が経験で知ってるのであって、この両者の違いを分けるのは『解釈のアイデア』であり、これは情報と同じで『自分とかかわりの薄い妙に客観的な話』に違いが無い。
アイデンティテイーと『妙に客観的な話』
これが同時に存在していないと、自我は不安定になる。
皮肉な事に『自分の意見』という言葉を良く考えてみると、あえて「自分の」と付け加えていないといけない事に気がつくだろうか?
意味ワカランかな・・・
『意見』は必ずしも自分のものではない場合もある言葉だから、「自分の意見」として、「自分の」をくっつけなければならない。そしてそれは単独で『意見』でなければならない。
『気持ち』にも同じ事が言える、「自分の気持ち」
◆客観性が後退するって事は、自意識が過剰であるを意味し、この時「意見」や「気持ち」と認識されているものは「自分の」では無くなる。
余計に意味ワカランかな・・・
もうちょい考えて、次回わかりやすい話にならんか書き直してみようと思う。
2005年02月09日
写真について
実際仕事で写真を撮る事が多い。子供の頃から写真を撮るのは好きだったが、俺の育った環境はお金持ちとはおおよそ言えないものだったので、「カメラはオヤジのもの」だった。
中学の修学旅行の時だっただろうか、当時出だしの自動焦点のコンパクトカメラを貰ったのだが、「現像屋に出す」ってとこが引っかかった、子供の頃から単独行動が主体の俺にはそういうことが妙に気になって、カメラは押入れの置くとか、物入れの置くに置きっぱなしになっていき、モバイルPCを買ってHPをキックオフする段になってデジカメを買うわけだ。
こいつが性に合っていた、
その場で絵を確かめられる上に、現像の必要が無い。少々ドジ分でも画像ソフトで修正できるって技は、カメラの扱いに関してド素人の俺にも都合がいい、それからというもの仕事でバシバシ写真を撮る毎日なのだが、自分を撮ったり写ってしまう事が今でも苦手だ(物心ついてからというもの、自分の写っている写真はほとんど無い)。
アメリカンネイティブじゃやないけれど、どうも自分の写真を撮るの事に抵抗がある。その違和感は、おそらく「本人と自我の乖離(自分の声を録音した時のあの違和感の事)」なんだと思う。自我で考える事の多い俺には、自我自体の主体性が意識の上ではどうしてもいつもの自分で、、
まあ、自分の客観象は人から見たときの自分で、殊更自分で確かめてどうするって気もするのだが、この“苦手は”生涯ついて回る事は間違いない。
中学の修学旅行の時だっただろうか、当時出だしの自動焦点のコンパクトカメラを貰ったのだが、「現像屋に出す」ってとこが引っかかった、子供の頃から単独行動が主体の俺にはそういうことが妙に気になって、カメラは押入れの置くとか、物入れの置くに置きっぱなしになっていき、モバイルPCを買ってHPをキックオフする段になってデジカメを買うわけだ。
こいつが性に合っていた、
その場で絵を確かめられる上に、現像の必要が無い。少々ドジ分でも画像ソフトで修正できるって技は、カメラの扱いに関してド素人の俺にも都合がいい、それからというもの仕事でバシバシ写真を撮る毎日なのだが、自分を撮ったり写ってしまう事が今でも苦手だ(物心ついてからというもの、自分の写っている写真はほとんど無い)。
アメリカンネイティブじゃやないけれど、どうも自分の写真を撮るの事に抵抗がある。その違和感は、おそらく「本人と自我の乖離(自分の声を録音した時のあの違和感の事)」なんだと思う。自我で考える事の多い俺には、自我自体の主体性が意識の上ではどうしてもいつもの自分で、、
まあ、自分の客観象は人から見たときの自分で、殊更自分で確かめてどうするって気もするのだが、この“苦手は”生涯ついて回る事は間違いない。
2005年01月28日
ブログのジャンルを今ごろ知った
考えてみたが、「ジャンル何かな?」と見回してみたのだが、どうも適当なのが無い。健康とかの中に『心理』は無いし、いろいろ眺めて『文芸』こりゃどうかな〜とも思ったが、そもそも『神経症』(心理的問題の総称)なるものが医療っぽいジャンルで取り扱われる事に(心理学的に)問題もあると考えているので(所謂医療には含まれる症状は『症状として』ある)、文芸でいいか、、とも思う。
特に会話というか言葉(言語だけに限らない)に拘る精神分析ってのの土壌は、「かなり文系」で、およそ理系とは言えないので、それでいいのかも知れない。医学の分野には昔から「東洋西洋」の区分けがあったが、「文系理系」の区分けが無い、なんとなく精神分析は「人文系」になってる。ここんとこよく考えてみっと、「抑圧された心理を分析する精神分析」というのは(普通の世界の話じゃないが)何か悩んでいる人にだけ当てはまるもんじゃなく、深層心理なんてな言葉があるように、「抑圧された心理を分析する精神分析」なんであって、誰にせよあんまし愉快な話じゃない(抑圧するぐらいんなんだからなんか理由があるワケで)。そのスジとか事情通からパージされて、ちょっと脇に寄ってるのも「精神分析が精神分析」だからで、人によっては「それ(精神分析)はヤバイものだろう」と訝っても不思議じゃない。
バッチシのジャンルが無いのが又『精神分析』らしいとこだと妙に納得する。
しかし『文芸』ってな、それはそれで高尚で似合わない気もするね〜
書いてる自分が、そのつもりが全く無いのだが、、、ま、いっか。
次は『記憶』について考えてみようと思う。
特に会話というか言葉(言語だけに限らない)に拘る精神分析ってのの土壌は、「かなり文系」で、およそ理系とは言えないので、それでいいのかも知れない。医学の分野には昔から「東洋西洋」の区分けがあったが、「文系理系」の区分けが無い、なんとなく精神分析は「人文系」になってる。ここんとこよく考えてみっと、「抑圧された心理を分析する精神分析」というのは(普通の世界の話じゃないが)何か悩んでいる人にだけ当てはまるもんじゃなく、深層心理なんてな言葉があるように、「抑圧された心理を分析する精神分析」なんであって、誰にせよあんまし愉快な話じゃない(抑圧するぐらいんなんだからなんか理由があるワケで)。そのスジとか事情通からパージされて、ちょっと脇に寄ってるのも「精神分析が精神分析」だからで、人によっては「それ(精神分析)はヤバイものだろう」と訝っても不思議じゃない。
バッチシのジャンルが無いのが又『精神分析』らしいとこだと妙に納得する。
しかし『文芸』ってな、それはそれで高尚で似合わない気もするね〜
書いてる自分が、そのつもりが全く無いのだが、、、ま、いっか。
次は『記憶』について考えてみようと思う。
2005年01月19日
「まるきし時間が足りない」を心理学的に考える
実際どうなのって、表向きの(本業は精神分析だと常に思っちゃいるのだが)仕事がハードすぎて完全に右手の人差し指と中指が腱鞘炎になっている。
これいかにPC(スティックのポインティングデバイスのせいなんだが)使っているかって事なのだが、とにかくPCを閉じている余裕もない、FIVAはリサイクルの大型バッテリー使用で5時間はもつんだけれども、バックアップで残量の心もとないノーマルバッテリーがコートの内ポケットに入っている始末。
このバッテリー二本差しで、「充電できるとこネーかな〜」なんだからそりゃ指もいかれるってワケだ。
昔の文明批判の典型に(チャップリン辺りがはじまりか)「人が機械に使われる」な表現があるけれど、実際どうなんだろう。
本人は「マシン使い倒してる」つもりで、「よく壊れネーな〜(実際壊れているのだが、、、)」なんて思っている。
昔の文明批判があたらないと思うのは、組織のオーダーで使っているのじゃなく、自分が勝手にハードに使って自分でヘバってるってとこなのだが、ヘバッてる事に違いは無く、どうもすっきりとしない。
自我にはバシッと「ここまで」とブレーキかける力が弱い特徴がある、何故ってそれは『本人マター』で、疲労がストレスとして自我に情報を与えるワケで「我疲労を思う」的に「ダメダメ」と自我主導で動くって事はあんまし自我の本職とも言えないからで、こいつは意識的に(超自我的に)「自己管理」なーんてものが出張る話なんだが、超自我の干渉をほとんど受けないだけ自我が前面に出ると「益々ブレーキかける力が見かけ上後退する」
これが又皮肉な話で、意思の器官である自我に「自我もほどほどに」って意思を持つってなー内的矛盾なので合理化(精神分析的には「辻褄を合わせる」の意)すんのがやっかいだ。等といいながら、又PCを使い倒して「指痛ェ〜」とか言ってるワケで何をしてるんだか、、
「自我もほどほどに」
これいかにPC(スティックのポインティングデバイスのせいなんだが)使っているかって事なのだが、とにかくPCを閉じている余裕もない、FIVAはリサイクルの大型バッテリー使用で5時間はもつんだけれども、バックアップで残量の心もとないノーマルバッテリーがコートの内ポケットに入っている始末。
このバッテリー二本差しで、「充電できるとこネーかな〜」なんだからそりゃ指もいかれるってワケだ。
昔の文明批判の典型に(チャップリン辺りがはじまりか)「人が機械に使われる」な表現があるけれど、実際どうなんだろう。
本人は「マシン使い倒してる」つもりで、「よく壊れネーな〜(実際壊れているのだが、、、)」なんて思っている。
昔の文明批判があたらないと思うのは、組織のオーダーで使っているのじゃなく、自分が勝手にハードに使って自分でヘバってるってとこなのだが、ヘバッてる事に違いは無く、どうもすっきりとしない。
自我にはバシッと「ここまで」とブレーキかける力が弱い特徴がある、何故ってそれは『本人マター』で、疲労がストレスとして自我に情報を与えるワケで「我疲労を思う」的に「ダメダメ」と自我主導で動くって事はあんまし自我の本職とも言えないからで、こいつは意識的に(超自我的に)「自己管理」なーんてものが出張る話なんだが、超自我の干渉をほとんど受けないだけ自我が前面に出ると「益々ブレーキかける力が見かけ上後退する」
これが又皮肉な話で、意思の器官である自我に「自我もほどほどに」って意思を持つってなー内的矛盾なので合理化(精神分析的には「辻褄を合わせる」の意)すんのがやっかいだ。等といいながら、又PCを使い倒して「指痛ェ〜」とか言ってるワケで何をしてるんだか、、
「自我もほどほどに」
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