2008年03月13日

クイズ嫌い

何が嫌いって馬鹿馬鹿しいからだ、
それを一番意識したのが中学だったか小学だったか記憶は定かじゃないけれど、テスト期間前に仲良し小集団で行われる「暗記問題の当てっこ」やら、「謎謎系のネタ」やら「引っかけ問題的ネタ」やら全般に嫌いなのだが、一番気にいらないのは「答えが決まっている」事だ。
当然ここは学校教育のテストなるもの全般に関わってくる、

この辺の話をなかなか面白く書いているブログある
『住まいの心理学』の方のRSSフィードしているWIRED VISIONの中にありながら全然気が付かなかった奴なんだが(無責任すぎるだろお前)、読んでみたら面白いんだよなかなか(笑
書いているのが法政大学社会学部准教授の白田秀彰氏なんだが1968年生まれという事もあって世代的に近いってのも俺が面白いと感じている一因かもしれない、
まー、そんなこんなで彼のエントリーから一部抜粋すると(かなり引用長いよ)
白田秀彰の「現実デバッグ」
教育制度批判 その前に
私は、「教育制度批判」のなかで、「受験に対応した学校教育はクイズに過ぎず、くだらないので止めて良し!」と断言している。私はそう信じているから。無意味なクイズ教育で破壊された子供達の将来と可能性を思うと、私は心が痛み吐き気がしてくるほどだ。その社会的損失を考えるなら、いち早く学校教育を停止したほうがマシであるとすら思っている。

おそらく、「ペーパーテストが公平だ」という思い込みこそ、学校教育のなかで我々に設定された洗脳だと思う。現在の学校教育制度では、ペーパーテスト向けの知識を伝達することにしか対応できていない。すると、学校教育制度を擁護したいと思う人たちは、学校教育制度が対応し得る評価軸である「ペーパーテストこそが最も優れた評価軸だ」と主張しつづけるしかない。もし、他の評価軸で人間の価値が測られるようになったら、学校という機構の価値は低下するか、あるいは無に帰すだろう。みんな気がついているでしょ? 学校での勉強の出来と、人生の幸福がまったく無関係であることくらい。むしろ、最近の学校は、人間を不幸にする制度になっていると私は思っている。

まず、言語で問題を書かれた紙を前に、言語を用いて筆記具で想定された正しい答えを記入する、あるいはマークする、という手法が、そうした種類の作業を得意としない人にとっては不利だ。またそれは、「想定された正しい答え」が正しいか否かを疑う、高い知性と哲学的素養を持つ人にとっても不利な作業だ。ペーパーテストで設定し得ない問題の解決能力が優れている人には、その能力を発揮したり反映したりする機会すらないではないか。

人間の平等と公平は、可能な限り人間の評価軸が多様化し、相互比較が極めて困難になることによって、初めて達成されると考える。人間の幸福のあり方が多様化し、それぞれがそれぞれの目標を、それぞれ達成するよう努力することが、多くの人間が共に生きるこの世を修羅の世から解放する唯一の道だろうと考える。私には、現在の学校教育制度が、私たちの人生の評価軸を極めて限定していく作用しかしていないように思われてならないのだ。だから、私は現在の学校制度を批判している。 まして、「同じ年代の全ての子供たちを同一のテストで一斉に評価するから平等だ公平だ」などというような入試制度を疑わない知的怠慢を批判する。
(2008/03/05)

これだけでも「おーわかってんじゃん」
とかなり共感大なるところで、
次のエントリーではより踏み込んだ発言となる
ここも抜粋するとだね(ここも引用長いから)、
教育制度批判 その前に その2
しかし、私は人間の全体的な能力や価値は客観的に測定される必要がまったくない、と思っているのですよ。個々の能力、たとえば計算が速いとか、漢字を良く知ってるとか、足が速いとか、そういうことなら客観的に評価されてしかるべきだし、我々は、可能な限り能力を高めるように努力すべきだと思う。だから、そういう個別能力の達成度評価にペーパーテストを用いることに反対するものではない。しかし、そうした個別能力の向上というものは、基礎教育の水準で考慮されるべきもので、それが、高等教育とくに大学教育における評価軸だとされていることを批判しているのです。

先の「評価軸の多様化」を是として考えれば、ある人Aさんにボロクソに叩かれている人物Xを、別の人Bさんが高く評価する社会のほうが、多様で安定していると私は考えている。私を除くみんなが「妄言暴言野郎白田氏ね」と言い出す社会。「えぇー、白田ってああ見えてけっこうイイ奴なんだぜ!」ということ自体が憚られる社会。全体主義っぽくて怖いじゃないですか。したがって、私は、A学校が「よい」と判断する学生と、B学校が「よい」と判断する学生は、可能な限りバラバラである方が望ましいと思う。

現在は、センター試験という一つの評価軸で、私立大学までが単線的な評価軸に並ぶ時代だ。正直、私はぐったりした気分になる。

学校の個性化というのなら、極右や極左の教育方針を掲げる学校があってもいいじゃないですか。古典教育しかしない学校、いいじゃないですか。 MITのようにイッてしまった技術オタクだらけの学校、いいじゃないですか。朝から晩までスポーツしかしてない学校、いいじゃないですか。全員が銀行員みたいなマジメ君の学校、いいじゃないですか。そうした多様な選択肢があって、それらの学校に能力を認められて、その大学の発行する学位をもらい、卒業した人たちが、どのように社会で活躍するのかしないのか、それによって学校の価値が自ずと淘汰されていけばよいではないですか。

なんだか美味しそうなラーメン屋に行けば、人がズラリと並んでいる。日本人って、並ぶのスキだよな。そりゃ、誰かが作った道の先頭には「誰か」がいるさ。そりゃ、みんなが並びたがるところの列は長いだろう。それなら、並ぶのやめようよ。

誰も通ってない道を自分で作りなよ。自分が食べたラーメン屋に列を作らせる側に立ちなよ。Aという価値観を無に帰してみなよ。Bという価値観を作り出して普及してみなよ。世界は、君たちが思っているより簡単に一変するよ。オジサンやジイサンたちがガッチリ守ってる席がなんの意味もないことを明らかにしてみなよ。それこそが「創造」なんだよ。そういう意味で、私はサブカルチャーやオタクカルチャーを高く評価しているのだ。誰にも評価されないことで先頭にたつことの困難さと勇気を賞賛するのだ。

今のこの社会を作り上げている「思い込み」は狭くて脆い。ものすごくたくさんの「もう一つの世界」が可能性として存在していることに気がつくことが、私は人間の成長なんだと思う。そうした若い君たちがもつ「世界を変える力」を、安っぽい妄想や出来あいの夢に浪費しないようにと私は訴えたい。
(2008/03/12)

そのとおーり(笑

ま、思うにね共同幻想の崩壊過程においてこんぐらい言わないとインパクトも無いってか少々喧嘩腰にならなくちゃいけなフェーズってものはある。
特に結構ベテランな世代になってくると(俺も知らない間に40越してるし)、その発言の責任っていうか「これじゃヤバイだろう」って話をグダグダ文句言ってるだけじゃ仕方が無いのであって、何らかの発言なり情報の発信なる意識を持ってなくちゃやってられない部分ってものがあるワケだ。
馬鹿馬鹿しい事は、馬鹿馬鹿しいのであって、妙な保身で根拠不明な共同幻想に追従していたら自らの存在意義ってものに(それこそ40も越してりゃ存在してくちゃ困るぜなる話のひとつやふたつあるんであって)ガタがきちまうというか、中抜けするというか自分が腰抜けに見える(笑
(実際『住まいの心理学』なんか書いている時には、ビビリながらも「これ書かないとダメだろう、ここ突っ込んでいかないでどうするお前」みたいにネジ巻いて書いているケースも結構多い)

実際メンタルな関係の世界にあって、この白田秀彰氏の憂いってものは、社会において心理的な問題からの脱却にを随分と足引っ張ってくれている部分なので「負けんなもっと行け白田秀彰氏!」と応援したくなるんだなこれが。
実際「何をすんのか」的な動機形成の世界にあって答えなんてものは自分で出すものなのであって、それがあたかも予め決まっているかのような世界観は単なる邪魔に過ぎない。
確かに治安の維持やら秩序って国家が関わる基準は必要だけれども、それは公正な市場の保護のように自由に参画可能なベースラインとセイフティーネットは維持しなくちゃいけない。しかしそれは自由な意思表明のための場の確保といったもので、意志の在り様をスポイルしたりいわんや強迫観念を助長されたらかなわないのだ、

「答えはな〜んだっ?」

知るかそんなもん。



この白田秀彰氏のブログは出色なので、
「沖縄分室とかにフィードすっかな」等考えてます。
posted by kagewari at 03:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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