2018年03月01日

現代の『共同幻想』適応 「確信犯的選択」を考える

現代社会は社会学的変遷で言えば『共同幻想』崩壊時代です。
特にオンザレールで(環境調和的に)『共同幻想』普通の人志向でいけちゃっている人は、「就職後3年間のモラトリアム」であるとか、昭和世代であれば「老後に直面する『単独者』状態」などに岐路というか自動的に(この道は何の道?これから行く道はどうするの的)選択を迫られる事になります。

その選択が確信犯的選択というもので、
古くは前述のように”それぞれの分岐点”で自動的に迫られるものでしたが、
根本的に『共同幻想』崩壊時代ともなれば、勢い(政治家の常在戦場じゃありませんが)津に日頃からこれからどうなっちゃうの?的な権威性認知の不安や崩壊・或は正統性への批判ってものが認識されます。
この場合、環境に迫られる場面を待たずに「俺はかくかくしかじかの考えでこの道を選ぶ」ことも自然です。

■更にその選択は(崩壊時代においても)『共同幻想』を再選択する事も可能となるのです。
(確信犯的『共同幻想』再選択)
この意味なんですが、
流れ的には実に簡単なものです。
『共同幻想』が文明化に従って崩壊する理由は
「そもそも論として保守や『共同幻想』の概念ってものが、文盲率も高い庶民に対し坊さんや思想家や貴族階級やら当時の高等教育を受けることができる階級が、神話や詩人やら様々のインセンティブをくっつけて、”こういうことだから”鵜呑みでどうぞ」と周知したもので、
そこに社会的合理性があったのですから、所属『共同幻想』のコアとなっている権威性の内容や哲学を所属メンバーは語れないし知らないって前提なのです。
(古い時代で言えば、庶民は文字が読めないだけでなく、聖書も出版されていいないので、高位を自称する坊さんなどの講和をありがたく聞くみたいなのが始まり→ルターの宗教改革で最も強烈なのは「聖書の出版」)

つまり、話の発端となる『共同幻想』の根拠となる権威性の裏付けを学問のように知り、中世時代で言えば坊さん役の補助要員程度の知識に至れば、大衆に唱えるための幻想では無く、
オリジナルの(現代で言えば文化としての)「かくかくしかじか」が語れるようになります。
自らが権威性の裏付けを知り、自己決定でその文化の愛好者を自認すれば、それは幻想では無いし崩壊する事も無いと、こういう話です。


●日本において、最初にこの再選択を大規模に唱えた人物が長嶋茂雄です。
(平成生まれの方には馴染のない人物かもですが、スポーツニュースなどで耳にする事多いと思います・著名なプロ野球選手であり読売巨人軍の象徴的存在。)
彼が引退式典においての発言が、昭和の代表的名言となっておりますが、
それがこちら
 ↓
「我が読売巨人軍は永久に不滅です」
(いやいやいやいや今考えてもどこからこの台詞が出てきたのかとても不思議で)

まさに、長嶋茂雄こそ「幻想から確信へ」(引退を期に)この一大選択を衆目の中で高らかに宣言する訳です。

■時に、この状況を「宗教と同じじゃね?」と思っちゃう方いらっしゃるかもですが、
それは逆で
「むしろオンザレールな『共同幻想』適応こそ宗教みたいなもの」なのです。
つか、前段説明で『共同幻想』の始まりを宗教における古代の布教事例で説明していワケだし、
(ドグマである教義の裏付けや哲学を一般信者は語れずに、なんとなくありがたいと同調圧力の中、指導者格の人物や年配者の言う通りに従う。)


●長嶋茂雄がやったのは
「自らの巨人軍選手としての幻想は選手であることで疑いようのないものだと信じられてきたが、引退するこの時、その権威との関係をどうするのか考えざるを得なくなり、彼は巨人軍を”我が”と呼び(我思う故に我あり)引退後も自らの忠誠を永遠に誓う」というような事を表現したワケです。
 ↑
後にこの言葉は、原監督により「ジャイアンツ愛」と翻訳され、今に至るワケですが、
(「ジャイアンツ愛」とは現役・コーチ・OBに関わらず読売巨人軍に人生を捧げる生き様の総称)


■この手の生き方ってものは、何も新しいものではありません。
伝統的お祭りのあるような地方においては、地域において「何何祭りを中心に生きている」という強力な「確信犯的再選択型のローカル『共同幻想』」が存在します。
選択者は、祭事にまつわるあらゆる事象に精通し、歴史伝統バックグラウンドまで語れる知識を持ち、社会適応するというような参加意識では無く、「伝統の担い手」として明解な当事者意識のもと(巨大なモチベーションを保ちつつ)強い動機形成を発動し生きていきます。

正にそれは「パスカルの賭け」って話で、
前述の「○○祭り人間」なんてのは、所属の神社の神話の正統性とかそういう話をしてんじゃないのです(本当に神様見たのかみたいなことじゃないんだと)。
「このような文化伝統に裏打ちされた(保守的正統性)幻想では無く実体としての○○祭りってものに、当事者として俺は生きるのだ」
なので、選択なんです、人生を賭けるんです。
ベットする事に意味があるんです。
(なんとなくポーカゲームに参加しているのではなくって、掛け金”人生”で勝負に出る)

この場合(即興演奏でお馴染みの)『単独者』ってモデルにはならないですから、
ベースとなる既存の”憑代”が必要になります。
必然的にそれは『共同幻想』から選ばれる事になるので、
「確信犯的『共同幻想』再選択」と定義しているワケです。
 ↑
この話は、現代社会の”ネオコン”的な現代保守政治思想の構造にも関連していると思われますね。
(ちなみに左翼『共同幻想』思想は再選択されてもダメダメなのは”別の要因”なので説明省きます。)



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