2017年09月02日

用語解説『歩留り』選択の補完

(当該記事リンクは基本用語まとめ『歩留り』選択記事にも貼っておきました)

前回の引越し足枷論を考える中、発見したところあり、
『歩留り』選択を補完するテキストをアップする事にしました。
何に気が付いたのかって、あれこれ「抗い拘る『自意識』の視野から外れるどうでもいいこと」がその歩留り論の特徴で、頑なに抗い続け(音符まで否定する音楽論のように)そもそも概念として意味の無い領域までいっちゃうパラドックスとの比較です。

民族差別問題は例外事項なので横に置いておくとして、
●人種や生まれた土地にすら強硬に抗い?
こうなってる段階で「それは強迫的思考であり『歩留り』論にならない」ワケですが、
(『歩留り』論成立要件は、用語解説テキストにあるとおりで基本『単独者』的である事)
付け加えると「そのどうでもいいID帰属関連の事象に悪感情は無く、むしろ好意的に認識している」事になります。→それ故に「どうでもいい事」として『自意識』の関心事項から外れる。

そしてこの素朴な好感の延長にナショナリズムなどもあり得るのだと
元ネタを自己愛と定義する事もできると思いますが、
心理学的には「どうでもいいこと」「そこに興奮を伴わない」「悪い気はしない程度の好感水準」などから”自己愛とは違うだろ”と考えるワケです(あり得るとするなら広義の自己愛みたいな話でしょ)。

たとえば、
■海岸沿いの街に生まれ、ベタベタする潮風は慣れた環境の一部であり(セーフハウスのような概念を連想させるフラグ)、別に潮風が大好きとかそういうのは無いが(日常なので感嘆や勿論興奮することなどない)、「故郷と言えばあの潮風を思い出す。」
(なんだが言語学のメタファーがどうしたみたいな論になってますが)
 ↑↓
これに対して、潮風に何の因果も無いのに強硬に解消すべくまい進し、潮風の無い海岸に大規模公共工事を行った場合、その海岸を連想させる有為な個性は排斥され「ここはどこですか?」状態となってしまう。
「これは個性の否定であり、、、」

『歩留り』論における「静かな好感」はすべからく(自己愛では”無く”)、日常性(自己実存を成し得ている生存環境)に対する肯定感でしょう。遠回りしていますが自己実存の肯定感に通じる鍵です(故にあり得るとすれば”広義の自己愛”)。
自己の生存を肯定することは説明するまでもなく「至極自然な事」なので、『単独者』的に現実を自然に認知している場合、取り巻く環境に対する”静かな(『興奮』を伴わないの意)肯定感”として『歩留り』事項もそれなりの規模で発現する”筈”で、、、

●さてここで論理矛盾です
『単独者』の概念とは『自意識』による自由獲得のため現実に対し抗(あらがう)様ですが、
おのずと『歩留り』事項も発現する(敵と味方を分類しているワケじゃないけど)。
前者は自分の色が拡大しているのに対し、後者は自分の色が縮小してもいい枷(保守性)が拡大している。
『単独者』の概念として、この両者はどこで合理性が成立するのか?

政治意識における「保守リベラルなリアリスト」そのままですね(笑
「保守・革新どっちなんだ」みたいな、
そこはそれ、保守リベラルの政治意識として”リアリストである部分”が合理性の鍵なのだろうと。


●たとえば今が図画工作の時間で風景画をデッサンしようとしている
「さてあなたが鉛筆引く線はどことどこ?」
これ100人いれば100人違いますね。
ここが『歩留り』論における個性差です。
目の前に展開しているモノや気象などを無視したら(どこかの港町の代表的な橋がテーマなのにやおら富士山の絵を描いてしまうような)風景画としての概念が壊れるパラドックスになりますわね、
しかし眼前の風景に対し”こことここ”みたいに鉛筆引く線として重要だと思う自然な着眼性は誰にでもあります。
(まずはこのデッサンの時間を肯定している事が前提ですが)
自由に描く事を重視した場合、この鉛筆線の基本構造は枷であり自由度を損なうものにも思えます。
且つ、ラフスケッチやデッサンをする上で「えーとまずこうこうなってこうか」と引く線は何か特別の思い入れや興奮を伴うものでは”無く”、どちらか言えば”お題(JAZZで言えば前奏テーマとなるコード進行部分)”であり、本題では”ありません”(絵画の場合もJAZZの場合もその後から「よしっ」てな具合に自由度の表現が始まる)。

■かくかくじかじかで
この「どうでもいい好感」みたいな『歩留り』性の個体差ってのは、
まさに個々人で適当に違うので、そこに法則性もクソも無く(笑
「ナチュラルに”いい加減に”受容されている外的事項(『自意識』の関心事項から外れている)」って事なのでしょう。

絶対の確信はありませんが、
『歩留り』的個性差の無い『単独者』などあり得ないのではなかろうかと、
ひょっとすると、この『歩留り』性が存外に人の個性差を決定しているのかも知れません。
(全く同じ寸分違わぬデッサンを描く人などあり得ません。←同じ楽曲に対する演奏も、同じ振付に対するダンスの場合も同じ。)

その世界の延長上に「上手く描く」とか「更に上手に踊る」とかの概念もありますわね(ここから本番ですみたいな意味の『自意識』関心事項=『抗(あらがう)』開始の号令)、
勿論、この時に絵画や舞踊などの概念まで否定するとか「あり得ない」。
 ↑
果たして、ここが今回のテーマである合理性の答えなのかわかりませんが、
どこかに深く関係している要素なのだと思います。

『歩留り』論は難解なので、思うに「まだまだ考えるべき要素は多く残されている」のでしょうね。


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