2017年05月27日

「自由とは何か」(2)

原則論に戻ります。
たとえば身体が硬くて前屈で苦労してるとしましょうか、
トレーニングしてみたり呼吸法を意識してみたりで、身体を延ばす、
自由度が高まる。
しかして、シューシュポスの神話じゃありませんが、アスリートでも無い限りどこまで伸ばすって特段の目標があるワケでも無いですし、この辺でいいかなとトレーニングなり放置すればまた元の硬さに戻る(自由度が後退する)。

故に、現実に抗い自由度獲得のため絶賛ナントカ中の常態とは「硬てぇな〜痛てて」とか言いながらあくせくする様なのであり、その後伸びたか伸びなかったかのか結果論は殊更関係が無いのです(そこに特段の終点みたいなものはありませんしある程度の目標に達しても日々続けなければならないものだし)。「
ラジオ体操を日課とする人は特定の成果を予定していない」みたいに考える方がわかりやすいでしょうか。

ここが主体的能動性における幸福論(快感代謝)として、苦労は金出して買えじゃありませんが、
ハードルを前にして抗(あらがう)様が幸福感の実存なのだって話になるのであります。
(実際に感情が幸福だとかそういう意味じゃないですぜ?心理学的にそういう論証になるって話で、そこに矛盾する何かがあれば、別に心理的問題が有るかも知れないって推定の根拠となるとこが主眼です。)

苦痛が快感マターであるとか、ド・Mなのかって話にも見えますが、
更に便利で楽な(或は効率的な)方法を見つければ、それは『自意識』マターによる戦術論なのでアリアリなワケで(これは知的曲面で抗(あらがう)って事ですから)、
対峙するものが何もなけりゃ「工夫して楽する方法」を考える動機もクソも無くなってしまうワケですよ。

普段たいして感じていないだけで、息するのだって、疲れることで、ましてやごろ寝姿勢から立って歩こうなものなら至極めんどくさいことです。
しかし生きてる実感ってのは正にそこにあるのであって、
散歩が気分転換になったりするのは、重力に抗って歩を進めるからで、行き先はどこでも構いませんがどこやらに行くって自由を獲得するワケです。
その証明は”歩いた感”によって(快感代謝が機能して)確認される。

●達成感なんて言葉がおおよそ疲労度に比例しているのも説明するまでも無いことです。
行き先で思わぬ何かを発見して、おおきな財貨を得たとします(ベタな事例で言えばマツタケみつけたとか)。この場合想定外の興奮も伴って快感代謝はより高まりますが、
高まりますがー、それは非日常ですからオマケみたいなものであるのと同時に、
『インセンティブ』という概念がそこに成立しているだけで、行動欲求の本旨じゃありません。
(そういう思い付きはそれこそ”更なる投資効果(疲労度に比例)”の高い動機形成を行う意味での自意識の戦術論ですから。←ベタな表現で言えばインセンティブとは一種の屁理屈でもある。)

退職後の「ザ・サラリーマン」人格な人が、何が面白いのか「何か仕事はないか」と性懲りも無く求職活動を続けちゃったりする理由です(彼らはお金が欲しくて仕事探しているワケありませんから)。


■「強迫心理下にあると」ここを大きくはき違えてしまいます。
「強迫心理」の原型は、権威性認知の殿堂である『共同幻想』です。
その”建て前”は成果主義や偏差値を根拠とする概念ですが、
これあくまでも”建て前”であって、
社会適応ってものは確かに契約の概念を前提に合意もしているし、権威性認知により承認欲求的な満足も得ているワケですが、それこそ「苦労は金を出してでも買え」的な契約であり、
(前述のザ・サラリーマンだって、新しく見つけた就労先の仕事でしっかり”働いた感”という苦痛を感じているから快感代謝が成立するワケで)
『共同幻想』適応選択において、『共同幻想』社会に適応することは基本的に不快認定されます。
”それでいんです”、てかそうでなけりゃ快感代謝にならんのです。

ですから『共同幻想』適応選択な人は休日が大好きだし、ハードコアな(ド・Mな)ハードワーカーは休日返上も大好きとなる(その苦痛がもう快感だって認知される場合)。
この不快感を受け入れる合意こそが社会適応の醍醐味なんであって、
(強い野球部に入部した時に「さてどんな特訓があるんだろう」みたいな)

歩くことは疲れるから、散歩という快感代謝が成立するのです。
つまり、
メンタル問題を背景に認知の流れが『被(こうむる)』状態にある場合、
被害認知に対して緊張感が派生してますから、論理的には快感代謝マターである『共同幻想』などのメニューに対し(お待ちどうさまこちらが今回の不快メニューです)、構造的に反動係数かかった不快認知が派生しやすい。

●極論ですが、『共同幻想』適応の達人みたいな人たちにとっては「めんどうな人間関係だとか、理不尽な会社のなんとやら」などは、快感代謝に関わる”イベント”であり(難度の高いゲームのハードコースを想像してください)、『共同幻想』適応人格なりの限られたリソースであっても『自意識』マターの出番がきましたよ的な”最もなんとか甲斐のある”面白い事でもあり得るワケですが(苦痛や苦労があらるかこそ)、

ですがー
そのハードなゲームをプレイしたいと自ら選んだからこそそれって成立する世界です。
ゲームの趣味も無い人が、プレーヤー速攻死んじゃうハードコースを無理やりプレイさせられて何か面白いことあるかって、無いワケです。
野球に興味も無い人を、いきなり有名校の野球部の特訓やらせれば、それは単なる拷問と同じです(いじめと認識する場合もあるでしょう)。

故に、『共同幻想』選択ってのは
(反抗期的現実アップデートが完了していることを前提に)
●確信犯的に再選択されていることが”その条件”になります。
なんだか適当に、そうじゃないといけないと思ってみたいな中途半端な強迫性でズルズルと組織に参加する事はド・ナンセンスなワケで、、(得るものは無く構造論的に苦痛しか体感できない)。

「どこそこの社会に参加したらこんな嫌な事がありました」みたいな個別各論をあれこれ考える事には1ミリの意味すらありません(それは予定された織り込み済みの結果論のまた結果論みたいな枝葉末節に過ぎず、本題から論議を離れされるための強迫心理が仕込んだネタかというほど意味が無い)。
まず、それ以前の更にそれ以前に「強迫性そのものが大問題」なのですから。

■原則論に戻りますが、
「身体が硬いからストレッチしちゃおうかな〜」だとか、
「気分転換に今日はちょっと長めに散歩しちゃおうかな〜」だとか、
自ら主体的に(強迫的にでは”無く”)やっちゃおうかなと『自意識』マターにより「行為選択を”賭け”として」そこに自己責任を担保しなければ(掛け金が苦労や苦痛)、「自由は得られない」のです。


(ちなみに『単独者』の場合は、権威性認知の縛りが無いので「何故飛べないのか」だとか「何故100前前後までしか生きられないのか」「何故登頂できないほど高い山があるのか」などなど、直面する現実の”不自由ハードル”を探す事に苦労が無いため《苦労ネタがザックザックある》、よくいえば生きているだけで退屈しない。悪く言えば生き地獄だぐらいにネタに事欠かない流れとなります。)




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