2007年06月13日

情報格差と人格構造の関連性

すっかり格差と言えば論議が所得格差って話になってしまっているんだけれども、ついこないだまでの論議の中心はやっぱこれ『デジタルでバイド』つまり情報格差の事だ。この情報格差の時の話ってインターネットそれ自体がボーダレスの存在だったものだから話は「PCが使えるか」とか「ブロードバンドのインフラは」なんて感じに年齢階層や国家レベルの公共工事の話になっていたけれども抜け落ちている論議がある。
”地域格差”だ、

ボーダレスのインターネットに地域格差ってこれおかしいでしょうな意見も聞こえてきそうなんだけれど、これは実際に実存する。
何故って利用者の人格構造とインターネットの利用には相関関係があるからだ。
誰しも経験があると思うのだけれど、それこそコスモポリタン東京みたいな大都会と地方における一般常識にはやはり随分と乖離がある。
「東京じゃ晩婚化は常識」でも「地方じゃ東京の晩婚化は非常識」であるケースはやっぱ多い。
即ち所属している個人が置かれている環境そのものが違っているのであって、当然その母体との関係無しには語れない個々人の人格にキャラクターの違いがある方がむしろ自然だ。
ここいらへんを考えるにあたっては、社会学的に考える方が話が早い。

社会学だと、共同体の分類としてこの辺のキーワードが出てくる。
ドイツの社会学者フェルディナント・テンニースが勝手に命名してるって言えばそうなんだけれど、あまりにも有名。
『ゲマインシャフト(Gemeinschaft):地縁・血縁』
『ゲゼルシャフト(Gesellschaft):近代社会』
言っちゃこれ社会学的な発展形態の変遷の事で、近代以前の封建国家時代には社会の基本構造はゲマインシャフトであって、都市や企業を含む社会の近代化によってこの構造はゲゼルシャフトへ変遷し、構造的に変化するってこの話は定説ってか社会学の基礎。

ところが、社会なんてものは一糸乱れる民族大移動みたいな話にはならないんであって(むしろこの傾向は第3世界の方が顕著)、地域差ってものが生まれる。
これを「地域格差」と呼んでしまうとあたかも経済的な発展に遅れをとって同時に社会構造の変遷も起きない社会はランクが低いかのような誤解を与える、なんせ本来経済や社会の文明的進歩などというものは、当事者の選択によるものであって、この際経済的利得とはそのインセンティブであるに過ぎない。
つまり、地方には今でもゲマインシャフト的社会の色彩が色濃く残り、都会で社会といえばゲゼルシャフトが常識である現実は否定できない。
さて、ここでインターネットなるものの利用形態ってどんなの?と問えばネットcafeのそれでわかるとおり「断然個室=個人利用」であることは言うまでも無い。
つまりインターネットの利用頻度と個人主義には関連性が深いのであって、ゲマインシャフト的社会にあっては、インターネットの利用に関わる期待値が「都市部のそれほど大きくない」実情がある。
これを格差と呼ぶのは本来問題なので、言い換えるなら地方と都市部との間にはインターネットに関してのリアリティーに実感として差がある事になる。
その結果無意識にデジタルデバイドは広がり、地方と都市部の共同幻想的なファンダメンタルの乖離が激しくなる可能性もある。
20年ほど前に「新卒大学生が地方へUターンする」のが流行した事があったけれども、最近の国政の論議でも地方分権が叫ばれている。ここで強調されるのは地方独自のアイデェンティティーをむしろ鮮明にする事こそそこで暮らす社会にとって効率がいいって話だから、その方向性はより強調されていく可能性も高い。

そうなると社会学者テンニースが予測したように、全ての社会がゲゼルシャフトへ速やかに変遷するとはちょっと言い難いのじゃないか。
共同幻想の崩壊過程が速度としても都市部と地方とでそこに格差があってもいいのだし、キャラクターを買えて保守的再編成が地方レベルで行われる可能性もある(これ国家レベルで行われるとファシズム)。
こうなると個人の独立と、その実存にとって重要な鍵となるインターネットの利用の内容そのものが共同幻想的な枠によって「なんとなく消極利用となる」なーんて要素も考えなくちゃいかんだろう。
都市部で急速にメディアとしての力を失いつつあるTV媒体も、地方ではまだまだ主力となる可能性もあるのだし、この”地域格差”って部分は、今後も重要視しなくちゃいかん部分なんじゃないかと思う。
一見都市部は病んでいるなんて話は何十年も前からあるけれど(これはゲマインシャフトから営利的社会ゲゼルシャフトへの批判)、その実情都市部にはガス抜きっていうか少々人格構造にガタがあってもむしろ自然でもある都市特有の暮らしやすさってものもある。そこから逆算すると精神的な悩みには地方ローカルって地理制そのものが不快要因を付加する可能性は否定できない。
posted by kagewari at 19:10 | Comment(2) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


この記事へのコメント
何となく分かります。 都会は田舎のように血縁とか他人とかよそ者などの感覚が薄く、そういう面でストレスを感じることが少ないから過ごしやすいと思います。 ある意味田舎よりも人情味を感じます。 (ただ東京に何度か訪れた時に 人がせかせかしてる感じや建物の密集性、自然が少ない部分でストレスを感じましたが) でも地域の人との付き合いも交流が深まったり、楽しいと思う部分もあります。 TVも一昔前の雰囲気が漂ってる感じであまり好きではなくて、 普段はネットで情報を得ることが多いです。 でもローカル番組はその地方の文化や習慣を番組で流れてたり、その地域独特の雰囲気が番組に出ていたりして愛着を感じます。 良いものは残り、そうじゃないものは自然淘汰されると思いますが。
Posted by 匿名希望 at 2009年05月05日 20:53
地域のアデンティファイを決するのも人ですから(地方分権における民主主義)、地方におけるモチベーションの低下(いたずらに回顧主義的焼き直しに依存すれば集団心理におけるノスタルジーとなって肝心要の保守構造の”時制”が退行化する)には、様々な問題があります。

その原型が中央集権的経済モデル(地方の公共投資行政の実権を中央官庁が握る構造)にあるのは言うまでも無く、
この時期に地方の「判断や思考」というようなものが霞ヶ関との経済依存(保守政治家にも族議員として利益誘導だけを求めた)によって『思考停止』状態に陥ったことが最も大きいでしょう。

皮肉な事にその中央官庁の人材は全国から選抜される特定大学の学閥の元にあるのですから、この中央集権はヘゲモニー的要素も無ければマキャベリズム的意匠も無い。
名目「それがなんとなく合理的なんだろう」のような発展途上国型のテクノクラート主義への心理的社会依存(盲目的な進学主義)に始まっているのであって、国家全体を俯瞰で見れば『無意識な自作自演』の側面(この思考停止の原型は戦前の軍国主義)があったのは確かです。

結果として、この構造の中地方は(経済成長モデルとしても)疲弊し、政治的問題を地方債の形でまさに目に見える形で負債として背負ったのであり昨今の知事職の意義拡大(中央と対立するための頭目としての位置づけ)は、そんな地方のストレスが生み出した現象です。
一時的にナンセンスな指導者も選出するでしょうが、地方が知事によせる期待は「地域独立の方向」にあるのであって、過去の『利益誘導の期待』から変質しているのは間違いない。

本質的な独自色(地域の本音)が自立的に立ち上がるのはそんな政治へのモチベーションをきっかけとしていくような気がします。
Posted by kagewari at 2009年05月06日 22:05

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