2016年08月12日

もう少し詳細に「メンタル問題」の”問題とは何か”について

・メンタル問題は心理学的には誰にでも起こり得る様々な自我構造問題であり、
・法的には労災などの事例にあるように障害認定もあり得る問題であり、
・社会的には(一般的に心理学的知見のある人とかいませんから)病気(と説明すべき)、
・昨今力を持ってきた脳外科系の一部からは脳の問題であり、
・文学や哲学的には限りなく個性の幅で認識されることが多く、
・心理学的知見を期待できない精神科にとっては臨床例分類として対処の必要な症例となる。

観察者の立場で変化するじゃないけれども、
●当事者にとっては変化もクソも同じ問題なワケでいったいどうなってんだって事になるワケだが、
そもそも病院案件や障害事例なるものは状況・状態・認識に幅があるもので(風邪のように病院で対処療法しかしないものもあれば、通常は問題の無く放置の肘の痛みもプロスポーツ選手となれば外科手術マターにもなる)、トラブルや問題事案ってものは「主として当事者の判断による」訳ですよ。

思うにメンタル問題における原則論でもある『被(こうむる)』認知や、「強迫心理」事例の背後に必ず関与してくる(これは強迫構造の公式のようなもので)権威性認知などが関係するため、余計にわかり難いよってな話になりがちなワケです(主体的認知が抑制・抑圧されると同時に依存性フラグもある)。

「インフォームドコンセント・インフォームドコンセプト」なる医療現場の判断の場面で言えば、「明らかに癌だけど何もしない方向に決めたので帰ります」もアリアリなのであり、呪い師が跋扈する前近代じゃあるまいし「症状乃至障害乃至問題は悪霊が原因だ、悪いもので解決しなと大変なことになる」なんてことは無いのであって、特効薬が見つかっていて法的報告義務のある感染症を例外に「症例も障害も各種問題もその取扱いはプライバシーです」。
「主として当事者の判断による」訳です。


■どうすんのかって、それは主体的に判断・選択するもので、
メンタル問題の場合、当人が「これは耐えられない」であるとか「これは尋常なことだと思えない」であるとか「どっから考えても詰んでいる」などなど、自らそれを”問題視(メンタル問題として認知)”している。
或は(メンタル問題に起因するのかはわからなくても)どうにもこうにも外形的事実として看過できない状況が(対人トラブルであるとか事件性に発展しそうな勢いのなんとやらなど)あるとか(この場合心理学が関与する可能性は知見や運や縁でばらつく事になるが)、
いずれにしても「諸問題に心理学関係で何かあるのかも知れないと認識した場合に限り」問題になるワケです(と初めて認識される)。


※ちょっと話が逸れますが、上記内容が筋論となるため、自我問題が極めて潜在的で表面的にはなんちゃってでオンザレールな社会適応できてしまう自我の場合、潜在的問題をメンタル問題であると認知する確率が極めて低くなり、心理学との接点可能性もどうしても下がってしまいます。なんとなく現状社会適応できちゃっている自我がラッキーだともお世辞ににも言えないワケで、
なんらかの破綻などからメンタル問題を自覚するに至る自我は「表面的には実トラブルを多く抱えたとしても」、そこはそれ『思春期反抗期』を軸にいずれにしろ「誰もが直面すべき現実アップデート」なのですから、問題意識をしっかり持てることはラッキーな一面もある(”身体の人・生命としての本人”が教えてくれた的に)、
どの状況だからあーだこーだなど考えるのは無意味です(心理学的原則「結果論には全く意味がない」もここに被っています)。


<話を戻しましょう>
分析時の説明にもよく出てくる説明文ですが、
「関係者誰それのそんななんとかにも「強迫心理」が関係しているのでしょう」←この文節には「メンタル問題」との記載は無く、「「強迫心理」が関係しているのでしょう」という説明文になります。
何らかのルートで自己申告されない限り、どんだけ自我問題があっちの方向にいっていたとしても(どれだけ苛烈な「強迫心理」により現実との乖離がトンでもになっていても)当事者がそれをメンタル問題であるとかただならぬ外形的事実と認識していない限り、「そこに「強迫心理」が関係しているのだろうな推定」以外の説明はできないワケです。

(※逆に言えば、その登場人物がプライベートにガチで「自分は精神病かも」などと思っている場合も当然含まれてくると思われるのだとしても、第三者的には当事者の申告あるまで「「強迫心理」介在の可能性」以外言及できない。←この辺は私の「刑法39条批判」にも一部繋がる話でもあります。)


■なかなか納得いかない方もいるかもですが、
脳こうそくなどの後遺症を、どう認識するのか?それは人それぞれですから。
加えて、時に左翼政治思想な人権派が常に取り違える「社会復帰という名の『共同幻想』社会適応をあたかも人類のデフォルトであるかのような喧伝」←これは大間違いであり(各種問題や障害があっても「あたかも”普通の人”などという空想上の概念」を無理やり押し付けているに過ぎない”彼らの自己都合”でしかない)、

実際に、映画のシナリオじゃありませんが、
「この傷は俺の勲章でもあり、整形手術できれいになるのかも知れないが、そういうつもりは無い」などの選択は常にあり得る。
それこそ「インフォームドコンセント・インフォームドコンセプト」マターであり、外野席がとやかく言うべきことでは無い。
●ゴッホの人生をどう考えるのかって(それは当事者問題で)、答えのあるような代物ではありません。


■心理学の原則論としてひとつ明解に言えることは
『歩留り』選択関連になりますが、
「それは私の個性であり、そのままでいいのである」という選択が成立する要件として、
(フロイト的には彼が説明に窮して定義した『昇華』もここに含まれる)
「その問題の存在を当人がある程度の水準で認識している=確信犯的選択である」
ここに尽きるワケです。

その典型事例は、
・「芸術家や文豪や哲学者やプロスポーツ選手などの尋常では無いモチベーション(当人鬱病を自認している事例も多数アリ)」
・「強度の権威職(高級官僚・医師・弁護士・いわゆる社長職など)や政治家などに見られるトンでもな理想や目標」
・「風評的に変態にも分類される、特殊な性的趣向や性倒錯」
・「上記関連でもある各種のフェチシズム」
・「変人・マニアとも評される尋常では無い関心性のある趣味世界」
 ↑
この周辺の人生(動機形成)には「現実との乖離」抜きに説明できない部分が多数あって、
同時にそんな「いやはや俺はこうなっちゃうんだよね」な特徴をガチで自認している。
端的に言えば「そんな風に僕は普通では無く特殊なワケで」と、その個性を才能として自認している可能性も含まれる。

●メンタル問題化する事例との大きな決定的差異は
「『自意識』の抑圧と、無意識下にある「強迫心理」の構図(や構造)」となります。
上記と類似する事例は「オンザレールな『共同幻想』社会適応する自我」となりますが(皮肉な事にメンタル問題に固有の名前を付けるとすれば「空想概念としての”普通の人病”」なのかもしれない)、その症例のなんと申しましょうか病理性なるものは(岸田教授の見解にもあるとおりで)認知の共有により(共通認識により)あたかもその現実が仮想的に存在することになってしまうため(乖離では無く”常識”だと当該社会内において全会一致的雰囲気の多数決権威により成立してしまうため)、外形的事実の合理性にまとめられることで(マスキング効果)、当該保守社会が存続していいる限り(その病理性は)認識されません。
 ↑
『当事者が問題だと認識しない限りそれは個性であり問題では無い原則』じゃありませんが、決定的差異は「内容というより認知される可能性」だったりするワケですよ。
 ↓
それに比してメンタル問題化する事例の場合、
基本構造はオンザレールな自我と”ほぼ同じ”ワケだが、統計学や数学的分散として共有化され”なんちゃって合理化”されないため(破たんが織り込み済みの)偏向として露見しているのであり、

端的に言えば、
個性派として認識が共有されない事が(自分だけ違う特殊な判断をしていると)是認されていれば「問題視されない可能性(派生ストレスも縮小する)」もある。
だからと言ってトンでもな状況が無くなるワケでは無いので、それが好ましいとかそういう話じゃありません。認知されるか否かの話ね。
●ここがセンシティブなポイントのひとつ。

そして『単独者』選択した場合、ザックリひとまとめにほとんどのメンタル問題が解決してしまう論理的根拠でもある(しかし当人の選択なので『単独者』選択が正解だとかこうあるべきみたいな結論では無い→理論的にはそういう公式になるって話)。
「個性化か空想上の普通の人概念か」のせめぎあいが問題を複雑にすると同時に、
なんでもかんでも『個性化』としてとめちゃうのも(実態は『歩留り』選択で「強迫心理」を温存している事に違いが無いケースも)強引過ぎる話です。

「俺はゴッホでありたいとか無いから」な人の方が多数だろうと、


■たぶん以下の誤解があると思われ
「『単独者』ってのはトンでもない個性派で、異能にも近い”何らかの”能力者であり、『歩留り』選択ってのは(社会的に偉い人や芸術家もいるけれど)奇人変人の類でしょうか?」
 ↑
これは大間違いです。
『単独者』ってのは、捕食獣や食料の安全保障の必要性の無い人類ヒト科が単独行動を自由きままに始めた場合何をするのか?→「風任せで誰にもわからない」って話であるのと同時に、生物としての動物行動学的な非合理的欲求を超えるモチベーションの発現は”無い”ってのがミソで、
(※人類ヒト科固有の直立歩行などに由来するトンでも性向は普遍的だけれど。)
確実にヘンテコなモチベーションを温存するのは『歩留り』選択の方ですから。

但し、処世術として、
自認される個性差・個体差は『単独者』が最大であり(注「実にたいしたこと何もしなくても」そうなるとこがポイント)、現代社会で過半数割れこそすれ多数派の『共同幻想』社会との折り合い的に、最大個性派の振る舞いのような模索が必然的に派生しますから(仮想世界の”常識”をまったく肯定していませんので)、あれこれ変わった人として悪目立ちするのが『単独者』なのは事実。
(※自我に抑圧リミッターがかからない自我構造なので、常在火事場のクソ力への躊躇も無いため、保証の限りではありませんが物理の運動量的意味の仕事量を通常以上に発揮できる可能性を有する。←もちろんその気にならなければ一生発現しないのだが。)

また、流れ的に、
メンタル問題からの離脱過程は、
その後『単独者』選択か、『歩留り』選択か、現代的意味の確信犯的『共同幻想』選択となり、メンタル問題なところから「オンザレールな『共同幻想』選択」となる事は論理的にあり得ない。
(ある特定の病理性偏向から更に別の病理性偏向へシフトするような芸当は不可能であるため。→「自律神経失調症から鬱病にシフトしたい」みたいな話と同じ。)

「オンザレールな『共同幻想』選択な自我は現代社会の場合メンタル問題予備軍」に位置づけられる階層であり(当該『共同幻想』が崩壊プロセスに入っているため)、自我選択の発現時期の差異があるだけで、オンザレールな自我の”その後”も『単独者』選択か、『歩留り』選択か、現代的意味の確信犯的『共同幻想』選択となる(昭和時代あたりからそれは「老後の選択」みたいなニュアンスで顕在化していた)。

(※「確信犯的選択」というのも誤解の出やすい話かなと思うので、これは後日書きます。)


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タグ:強迫心理
posted by kagewari at 05:08 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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