2016年08月06日

先日26日の記事に関する補足「それでも『共同幻想』は楽しそう」な反論について

7月26日の以下記事ですが
『結婚願望』という強迫心理の変遷
http://kagewari.seesaa.net/article/440449073.html


過去にも同様解説しているところですが、
それはともかく以下の部分に関して、
時にメンタル問題がある時、当該自我は自動的に『共同幻想』適応社会の姿や幸福度イメージが過剰化し現実と乖離します。
つまり「普通の人達には全員に恋人がおり、全員が結婚するのだ(私一人が取り残される感)」のような現実から乖離したイメージを抱え込んでしまう確率がとても高くなるわけです。
「普通の人達には全員に恋人がいて青春を謳歌しているように思ってしまう」

結論から言うと、被害認知や強迫性を徹底保守するためなんですが、、

「そんなことはありません。(統計がいかなる数字であろうと)現実がどういう状況にあろうが、”私の現実”は違います(ですから現実から乖離しているんですが…)、それでも私の周囲の知人含めて(それを無意識のスカウティングであるとか強迫心理の取り巻きと呼ぶと別記事にて解説もしているんですが…)それでも『共同幻想』は心底楽しそうにしています。おっしゃる説明は文章としては理解しますが心情的には全く理解できません。説明を求めます」的な反論が必ず出てきます。
過去にこのような押し問答で数万文字に渡るナントカが、、、それ以上言いませんけど。

えー、さて、
そんなワケで、以下の補足説明をしたとしても全く反論根拠となる「私の現実」なるものは揺らぎもしないのでしょうが…。
心理学テキストとしては確かに「楽しそうな彼ら」の背景事情を説明しておく必要性はあります。
てなワケで以下に補足しようと思い立ちました。

ここも過去ログ別項にて説明済みの部分なんですが、
■『共同幻想』の原則論「富の分配とその権限(権威の証明)」
そもそも『共同幻想』の原型は草食動物にみられる安全保障上の群れに始まります。
「生き残るための必然性」からです。
(かといって捕食獣を飢餓により絶滅に追い込む防衛力は無く、自然界では両社の関係が均衡しているのもポイントのひとつで、うがった見方をすれば捕食獣との均衡を保つための安全保障なのだとも言えます。安定的な群れが存在してこそ捕食獣も生き残れるからです。)

人類ヒト科の場合、両手に食糧を抱え保存までした延長に農耕などその後爆発的人口増に至る”生存率”を誇り(多数の動物も絶滅に追い込みつつ)、それでも飽くなき生存可能性を模索してきました。
しかし原始時代ともなれば「学校も無い、寿命が著しく低い過酷な環境」において一部の賢人が発見した高度な知識を文字文化も無いのに伝承することは極めて難しく、
これを(細かい説明や根拠を省き)「とにかくそういうことだから」として文化や慣習パッケージとして残すやり方は効率が良かった(てか他に方法がない)。


そもそも人類社会性の原型である、慣習や習性としての知的情報の種としての伝承は人類に限ったものでは無く(その実現性の点から)「本能と知性」により高度に進化したものが多数自然界にも観察されています(ですから特別な事では無く高度な哺乳類なら誰でも可能な方式である)。

狼の群れの鉄の掟は人間の軍隊さながらの統制力を誇りますし、バッファローのような草食動物の捕食獣とも堂々と体を張って交戦する安全保障体制も目を見張るほどです。
人類に最も近い高度な社会性を持つ霊長類ボノボ(旧学名ピグミーチンパンジー)などは団体で移動するときに海兵隊同様「先頭にポイントマンを置き後方にはしんがりの戦闘要員のオスを配置して移動する」など(他疑似性交を集団間で挨拶や社交行為として行う)驚くべき高度で複雑な習性をもっています。
(ボノボはアフリカ現地で古くは森の人的に人類同系扱いだったりもしていた。)

さて、そんな中でも人類において「群れの安全装置と高度な知見伝承」を率いるのは原始宗教的なシャーマニズムや人類文明化の元祖でもある各伝統宗教でした(いわば知的階層や職能)。
宗教は各種儀式やまじないなどでお馴染みですが、
ある宗教は性行為を事細かく解説し「事実上の保健体育」だったり、
ある宗教の戒律は「食事をする手はこちた、トイレで使う手はこちら、この肉は細菌があるので半生だと危ないから食することから禁止しよう」などなど「公衆衛生」をリードしていたり、
「女性の服装などの厳格化など、性犯罪含めて社会の規範を示す」なんで要素ももあったり、
ある宗教の戒律は「家父長が必ず食事のときにお祈りをした後じゃなければ食べてはいけない」などなど階級社会の下部組織としての家族社会の規律を組み込む「社会学的なんとやら」であったり、
人類の知見とその伝承に多大の貢献をしてきました。
(哲学論争など人文科学的な分野も相当高度な水準であり、大学含めて学問なるもののの始まりは宗教関連であると言っても過言では無いでしょう。)

高度な慣習や文化を(細かい根拠や説明を省き)「そういうことだから」と権威性を裏付けとして(異論や反論をNGとして)まとめちゃうことを『共同幻想』と定義しています。

■そんな『原始共同幻想』が強い権威・権力を保持し続ける原泉はどこにあったのか
「欲求の管理と分配の権限」です。
酒はいつ飲めばいいか(いつ飲んではいけないか)
性行為はいつ行っていいか(いつ行ってはいけないか)
どのような性行為は禁忌か(性行為はこのようなものでなければ認められない)
わいせつ関連や宗教批判など禁書の規定(読むべき図画の指定と芸術家の囲い込み)
そもそも識字能力を与えない(権威者のみが識字可能)
率先して国語教育(特定言語以外を認めない)
交友関係の規定(異教徒や不信人者は殺してもよい、いや殺すべき。)
結婚などの儀式を一元管理(宗教権威の許可無しの自由恋愛や事実婚を禁忌とする)
葬儀などの儀式を一元管理(異端や異教徒の遺体は犬でも食わればよい)
生まれた瞬間祝福関係で赤ん坊を認知するのは宗教権威(異教徒の子供は人間では無い)
かくかくしかじかの理由でこのときは断食せよ(それを守るものはその後お祭り騒ぎをしてもよい)

その代わり、なんとか祭であるとか、見たことも無い壮麗な儀式であるとか、聞いたことも無い見事な合唱部や楽団など、酒池肉林の分配と奇跡にも似たスぺクタルを分配する。
「いう事聞く子らには、決して悪いようにはしませんよ。」

現代新興宗教にいたってはもっとあからさまであり
「結婚相手(性行為対象者)の強制的な斡旋」だとか、
「政教分離ギリギリの政治権力の奪取」だとか、
テロ国家に至っては、
「異教徒を強姦するのは正しい行い」なんて話もあります(しかし戒律違反は速攻拷問し断頭)。

●エディプスコンプレックスを利用し(権威性認知)、
●奇跡のような快楽も提供する(ぶっちゃけ権力を握っている)、

『共同幻想』社会は「個人で好き勝手に幸福追求するとか許さん」ワケです。
「幸福の定義を決める権限も『共同幻想』が持ち、自由な発想は許さない。」
 ↑
当然の如く、権力を市民に取り戻す血みどろの内戦・内乱だったフランス革命に始まり、文明化が進めば進むほど(そもそも『原始共同幻想』の正当性は古く人類は文字も読めず無学な民衆を束ねて高度な経済力を確保する社会性にありましたから)、古代権威の力は相対的に市民社会と相克状態になります。各種の革命的な闘争や独立戦争などを経て、近代まではダイナミックな『共同幻想』崩壊を人類は経験してきました。

原始宗教も「社会文化としての存続と世俗化」のトレンドにあり、
「政教分離と法治国家」→「先進国化と高学歴化」などの段階を踏んで『共同幻想』の崩壊は社会に織り込まれてるのが現状です(時にそこに保守的反動が起きて「原理主義の台頭」もありますが)。

■さて、そんな歴史的背景の中で、
現代においても『共同幻想』適応人格な人には共通する強迫心理があります。
「巷間伝わる”それってダメなんだよね””悪いことだね”」のような罪悪感です(或は権威に依存する自我ですから「不安感」の場合もある)。
昭和の中ほどまで「旅行は団体で」
戦後GHQがほどこした自由恋愛などのあれは「破廉恥」
食事といえば「みんなで楽しく(ひとりは寂しくみじめである)」
(※儒教系な過度の家父長制でお馴染みの某国の場合、そもそも外食をひとりで行うことも禁忌であり、来日してそこをうらやましがれるほど。外食は複数人が当たり前で個人で入店すると追い出されるなんて文化があったりします。)
夏といえば、冬といえば「何」という行楽の定義(それ以外はさみしくみじめなんだよね)
年末は「家族で紅白歌合戦」

●「なんとなくそいうことなんだよね」な枠に入って初めて快感を得る許可が出る。
『単独者』のようにひとりで好き勝手に欲望のおもむむままに『自意識』全開で動機形成することは『共同幻想』適応人格には”できません”(自我構造論として違反すると不安感などが発現する)。

ですから、典型的な『共同幻想』適応者がいわゆる団体で何かをして嬌声あげている様は心底楽しげに見える状況があるのも事実です(極端な事例は暴走族の暴走行為)。

しかし「紅白歌合戦の視聴率」じゃありませんが、
憲法にも規定されている、個人の権利であるとかプライバシーの保護、
端的に言えば「個人の自由」ってものが周知されていくなか、『共同幻想』の強迫性や神通力みたいなものは時代が進むにしたがって減衰していくのは自明です(そのための血みどろのフランス革命でもあったのですから)。

●いかにも『共同幻想』適応人格なナイスミドルが語るカッコいい休日の過ごし方は?
「携帯電波も届かない静かな保養地で”読書”でも」←なんちゃって『単独者』モードのことですね。
●現代の緩い『共同幻想』再興でもあったSNS利用者の世論調査は?
「6割がやめたい」
●強固な女子会の存在に対して定義されたアンチテーゼは?
「おひとりさま」
●男性誇示マチズモ的社会観に対するアンチテーゼは?
「草食系」
いわゆる『共同幻想』適応系文化の”トレンド”そものもが『共同幻想』社会特有の隠れたストレスを表しています。

彼らも決して好き好んででは無かったのですから(そういう時代の必然性がもう瓦解しているのですし)。
言うならば旧来の『共同幻想』適応選択は「自分の欲望を人質に取られていた」のです。
(※勘違いされては困るのですが、私は『共同幻想』を間違っている的方向で批判しているのでは”ありません”。郷土愛のように確信犯的選択としての『共同幻想』適応選択だって”大アリ”なのですから。そこには現代社会だからこその「どういう構造になっているのか」の知見を踏まえ、強迫的な動機では無く、自立的判断による選択であることが現代における伝統文化としての『共同幻想』の姿になるでしょうって話をしているのです。)

大人の確信犯的選択では”無く”、オンザレールでなんちゃって社会適応してきている自我の場合、彼らの楽しげな様子の背景を”汲み取ってこそ”(苦しい面や構造的不安感など)彼らに対する合理的な理解になります。

それこそ、
「本当にうらやましい(原理原則を知りもしないで←実は自分の強迫性のネタに利用しているだでしょう)」
そんな感想でまとめられたら、
彼らにとっても心外であり「ほめ殺しの嫌味」以外の何物でもありません。

だからこそ、
大概の『共同幻想』適応人格な方はですね、
「イロイロ大変なんだね、頑張ってますね」な投げかけにより少し楽になって、その後饒舌に「いかに大変なのか苦労自慢が始まったりするのです(いかに権威的に正しい方向に頑張って”苦労”してきたのか)」。

■強迫心理などの説明において「現実との乖離」を抜きに話を進めることは不可能であり、
(論理的根拠あっての話ですし鉄板で論証もされています)
「違います、乖離なんてしていません。私の認知は本当なんです」となれば、
それは間接的経路で「強迫心理なんてありません。私の悩みに心理学の出番などどこにも無いのです。」と言っているのと同義であることを忘れちゃ困ります。
そこで、心理学を相手に「現実との乖離も強迫心理も無いのです」と反論することは「三回転ぐらいの論理矛盾」になっちゃいますからね。

何がしたいのかって、俯瞰で見れば、
おのずと結論は「被害認知や強迫性を徹底保守するため(メンタル問題を温存したい)」となり。
『歩留り』選択を真剣に考えているならまだしも、
「やれ誰それが悪い(自分を含めて)」みたいな話に終始するなら、何がしたいのかって問いの答えは更に深刻となり依存性以外に答えを見つけられなくなる(この興奮を継続したいのだと)。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
コメント欄に問題となった同趣旨の投稿が続いたため、暫くの期間ブログのコメント欄トラックバックを閉鎖します。閲覧されている方には不自由となる部分もあるかと思いますがご了承ください。(再開までの期間は未定です)
詳しい経緯は下記リンク及びサイドバーコメントリンク表示の説明参照
コメント欄の削除があった件(関係障害について)
http://kagewari.seesaa.net/article/402054291.html


■私のミスで時折記事のコメント欄などが承認制になっていたりしますが(或いは昔の記事など)、現在のブログ運営方針が「コメント欄トラックバックの閉鎖」なので、仮に投稿があっても内容に関わらずもれなく削除となりますので宜しくお願いします。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
posted by kagewari at 23:09 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


comments他

・コメント欄は『公開掲示板』同様に原則削除禁止です
(基本的に削除依頼には応じられません、削除依頼は投稿禁止ワードとなってます)

・SPAM対策として一部キャリアからの投稿がIP規制の対象となってます
(同規制キャリアから登録抜けによる投稿がある場合、投稿は自動削除されると同時に規制IPに追加登録されます)



現在コメント欄閉鎖中 (2014.7.26〜)




kagewari01
タグクラウド
RDF Site Summary
RSS 2.0