2016年04月06日

自己分析について「主体はひとつか」

(※自己分析の危険性という話の背景事情として、用も無いのに『共同幻想』適応系人格な人がフロイト心理学や精神分析関連に接すると通常は自我構造上の事情から「無理解と防衛的批判」で終わるところが、意固地に理解しようとすると危険な場合があるのは各所で書いてきているのでここでは省略します。)

『単独者』系人格タイプや、メンタル問題を発現している自我の場合「論理的に精神分析などに耐性がある」と考える事ができると同時に、心理学の書籍などを読んで自己分析に至る場合も少なく無いでしょう。
(てか心理学が好きだったり接点ある人は「何らかの角度なりで自己分析をする」でしょうよそりゃ。占いの本読む人が真っ先にやる事何かって大概が”自分の占い”でしょうからね。)

さて今回は自己分析単体をどうこう話のネタにしようってのではありません。
某2chのネタになっていた「哲学科の友人が面接でブチ切れ」みたいな話が面白かったものだから、
統合上の問題も何も「自我論としての主体はひとつなんだろうか」ってテーマで考えてみようって話です。
(就職の面接で担当者から自己分析の項目は気軽にこたえてくださいと言われてたが哲学科の友人は「気軽にに自己分析など出来る筈が無い」とブチ切れしたみたいな話。)

■「自我における主体は『自意識』ひとつだけか」
結論「違います」。
これで終わってしまっても仕方が無いので、えー心理学的に説明しましょうか。
個人の特定というか、考える人は『ひとつの自意識』なので自覚される主体としての自己はひとつですが、ハムレットにおける脳内の善悪の人じゃないけれど昔から”中の人”の設定は必ずしもひとつではありません。
いつの時代の小説でも、
「その時、もうひとりの私が」なーんて台詞登場するじゃないですか。
以降は心理学のメインストリームからも若干外れる個人的推測も含む話なので(勿論個人的には推測では無く鉄板でそうだと思っているワケですが)、いちいち細かい事気にする人は今回のエントリーはスルーでお願いします(笑


■殊更哲学的な意図のカオス論をどうしようとも思いませんが(てか哲学におけるカオスなんとかのことなど知りもしませんが)、自我は常に統合されている存在かと聞かれば『否』であり、常態は場当たりカオス(混沌)状なのだろうと思っています。
ですから私はジキルとハイドのような多重人格みたいな話を「ほぼ全般的にマユツバである」と考えており、そもそも『共同幻想』適応系人格な人など「日常的に複数の人格を自由自在に操る人(お父さんになったり課長になったり飲み屋では社長になったり)」ですが、果たしてその統合も案外ちゃらんぽらんだと思っているのです。
(※それが多重人格として観察される理由は別のところにあると考えてます「統合というより辻褄だとか整合性の問題でしょう」。)

自分で言うのも何ですが、
文章など書いていると、そりゃ随分昔に書いたもののことなど詳細に覚えている筈もありません。
原稿の中にはその都度調べてる部分もあるので余計です。
で、時に何かの事情で過去自分で書いた記事を読むことありますが、
「この人面白い事書いているよ」と心底本気で思ったりします。
おおよそ自分が書いた自覚などとうの昔に失っているってワケです。
(※この現象「卒業文集に何を書いたか」ネタとして多数の方が体感されているものだと思います。)
んなね、完璧な自我の連続性なんてものがありますかっての、
「ある筈が無い」
(だいたいが飲み屋の話をすっかり忘れている人はどうすりゃいいのさ。)

■確かに自分だと自覚されている『自意識』はひとりです。
しかし、その時その時の自分ってな優柔無碍と申しましょうか都合のいい使い分けが誰にでも可能であり(その使い分けができなければ構造的に人は嘘がつけないことになる)、
統合失調ってのは「適当な事情でいい加減に自我を使い分ける事が”ある意味できないから”こそ問題として自覚されるのだ」と考えてます。
「そういう使い分けは許されない!」みたいなさ(ある意味強迫心理なワケだが)、


或いは
「自意識では許しがたいとされるような自我の使いワケを(トラウマ論的事情やコンプレックスなどにより)強行突破するような格好で無理強いする局面が(結果それが破綻状況として)ある」だとかね、
言い換えれば無意識に『視野狭窄』となる構造的な事情(=無意識的・無自覚的となる)などなど、
そっちのがポイントでしょう(連続性に空白がうまれますから)。

今回は自我統合問題の話じゃ無いのでこの話はここまでとして、
本題に戻りますが、
ことほど左様に「自意識はひとりだが、その自意識が調子よく自分を使い分ける」結果、
「どれが本当の自分かしら」なんて漠然とした問いにすっと答えが出てこないのが人間です。
(ちなみに本当の自分って概念のネタバレは”好き勝手に自由意志が担保されているか?”の事。)

更に自分が複数いるネタは続きます
■「無意識的な自分」
(完全に無意識だと夢遊病者になっちゃいますから”無意識的”としてます。)
時に、他人の様子をずっと凝視してしまう人っていますが、
周囲が「おいおいジロジロ見ているとアレだよ」などと指摘した時、
非常に高い確率で当該人物の反応は
「え、全然ジロジロ見るとかしていない」と言うでしょう(よく気がつく人でも驚いて「あっいけね」的な)。
何故って無意識的にそうしているからです。
誰だって、或いは動物行動学的にも「他の個体をジロジロ見る」って行為は、ガン飛ばすじゃありませんが、喧嘩売ってんのかって状況になることなんとなく理解していますからね。
そして、ぼーっと何かを凝視していても(ぼーっとしているからこそ)自意識当人には良く見えていないというか、実際何を自分が見ているのか意識していないって状況も存在します。

さて、この無意識の人って誰?って話になりますわね。
勿論それも自分なのですが、こういっちゃ何ですが「自意識は一々なにからなにまで目を配らせるとかしていない」のです(案外怠けものであるというか)。
行為の全てが『自意識マター』じゃ疲れちゃいますし、小脳自動プログラム化されている行動に至っては(歩くとか自転車乗るとか車の運転など)ことこまかに今自分が何をしているのかとか意識されちゃ困るんです(すっ転んだり事故るだけです)。

だとしたら「ヒューマンエラーって自意識が余計な事をしたからか?」考えちゃいますよね。
確かに一利あると思います。
ルーチンでやるような行動は(仮に声出し確認していても)あまりに自意識出張るとワケわからないことになる場合も多く、
不安神経症なんてものの正体は(不安感が自意識をしょっちゅう呼び出すものだから)お呼びじゃないのに出てきた自意識がわかりもしないのに場を荒らすみたいな代物でしょう(故に自意識過剰と評される)。

困ったことに、自分と認識される『自意識』はあたかも余計者みたいな話になってます。
『自意識』の活動局面って何かと言えば、
特に何もしていない余裕のある状態で「ちょっと待てよおい」と戦略・戦術的なところを考える場面です(「僕はそこで”手を止めて”考え始めた」)。

個人的意見ではありますが、
自分を自分と認識している唯一の存在『自意識』ってのは、存外に「生命としての自分総体から一歩引いた外れたところにいるのじゃないか」と思ってます。
そもそもが観測者・観察者・第三者のポジションなのではないかと。
(つまり『自意識』の力を最大限発揮するには、第三者視点の確保が必須なのだろうという推定です。)

■至極簡単な話ですが、なので「自己分析は可能だし有効である」。
さて、ここでもう一度自分ってものを考えなくちゃいけません。
何が何って、他者の視点です(ある意味俯瞰で見た時の生命としての自分の実像)。
よくこの話をします→「録音した自分の声を聞くと誰もが違和感を感じる」アレである。
話を「無意識に他人をジロジロ見てしまった場合」に戻します。
たとえ、あなたがその時無意識にそうしていたとしても、
その時ぼーっとしていただとか、無意識だったとか、いわんや酔っていたなどの事情は、その場にいた他人には全く関係の無いことだし、「いやいやその場でジロジロ見ていたのはお前で、冤罪だとかって話じゃないだろ、誰も何も間違いなくそれは歴然とした(他人である僕が知る)お前そのものだよ」って話になります。

観察者の話じゃないけれど、
メンタル問題などといえば「困っている人物そのものは間違いなく『自意識』である」のも事実、
そこんところをどう整合性つけて考えればいいのか。
困った事になっているのは案外『自意識』以外の自分であって(『自意識』が事実関係知っているつもりで実は全部は知りえないギャップも問題なのだが)、その典型は自律神経失調となる。
時に心理学的知見の無い『共同幻想』な人はこう言います。
「君は考えすぎなんだよ」
(全然そういう事では無いのだが)ある面でそれも事実なところあるだけに性質が悪いんだが、、
「『自意識』はどこまでやればいいものなのか」と考えれば整理しやすいと思う。

■集中力発揮している状態ってどうなっているのだろう
寒さで震えが始まるギリギリのところで平常心で保持する時みたいなのあるじゃないですか。
学生時代ガンマニアだった経験的には、その代表はエアライフルの照準合わせて呼吸整えている時の「意図して”無心”ならぬ”無神経さ”を保持する時」だったり、
考える人としての『自意識』では無く、
集中力の時の『自意識』は完全に(交感神経の)手綱を握る人だったりします。
この時こそ「人馬一体」というか、『自意識』と生命としての本人がなかなかどうして統合している感がある(しかしこれ長時間続かないし疲れるところがまたポイントでしょう)。


●「あれこれ考える事を先に済ませておけ(それが『自意識』の仕事でしょうが)」
こういうことなのじゃないかしら。
そして、「無意識的な姿を含む、生命相対としての自分も自分であるという認知」。
無意識的な自分の姿が存在するとこって、特にメンタル問題が宴たけなわな時に忘れがちなところだと思うのですよ(それこそ『自意識』出張って大騒ぎの時ほどね)。

つまり、自己分析する時に『自意識』の『自意識』による『自意識』だけの自己分析に留まっていては何も解決しない。
主体なんてものが、実際のところアバウトでいい加減な代物であるからこそ、
『自意識』は一拍置いて(無意識的な自己も視野に入れつつ)、なんだかな〜と考えることができるのだと思います。


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posted by kagewari at 15:56 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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