2016年03月02日

社会適応論(1)

さて、まずは広義の話からいきます。広義っても”かなり広義”です。
どこやらで書いてきたと思うけれどメンタル問題だとか総じて神経症などと言われる様々な症例は「社会的説明としては病気」ですが、心理学的には病気ではありません。
ここは「病気の概念とはなんぞや」ってところの話になりますが、
骨折しても病院行きますが、骨折は(骨の折れる機能障害あっても)病気じゃありません。
ガンもある意味老齢化過程で起きれば自然現象ですが(いつかは人は必ず死ぬので)、それを病気として疑う人はいないでしょう。

「その問題の改善に医師免許所有者の介在が無ければどうにもならない」となれば『病院案件』となり、そんな枠組みの中で病気という言葉が用いられていますが、
所謂成人病における生活改善なんとかは「病気の治療なのか」と言われると、むしろリハビリ過程と呼ぶほうが適当でしょう。

メンタル問題だとか総じて神経症などと言われる様々な症例は、少なくともそれを専門とする何らかの介在無しに”なかなか解決しない”症例ですから(尚且つ解決することが約束されてもいない)、他人に説明する時には社会一般側には心理学的知見など無いので「そういう病気です」で説明するべきですが、当人が安易に病気って言葉をベタで使うと問題になる場合があります。
強迫心理にだって自己保存なんとかはありますから(防衛)、当人が無意識に「絶対に解決しない難病だ」的世界のイメージで、第三者の介在を否定する都合のいい理由に使われる場合があるからです。
(むしろメンタル問題はそのリハビリ過程に時間かかるものなので尚更です。←その工程を自分で批判し遠ざけるとかなるとやっかいな話になる。)
心理学的に「どうしてそうなるのか」そして「解決のプロセス」はわかっている事ですからね。

さて、リハビリってものを考えるとなれば「どこを目標にするのか」の論議があります。
「プロ野球選手として完全復活するまで」
「普通に歩けるようになりたい」
行き先は個人個人様々です。
どこを目指すのかってそれこそプライバシーだし、
仮にプロ野球選手のリハビリにしても、
「肩が壊れるほどの剛速球は最初から間違っていたのか」なんてアイデアがあれば、リハビリ後に目指す姿は全く別の技巧派になる場合だってあります。

つーか、メンタル問題だとか総じて神経症などと言われる様々な症例は、自我に関わる問題なので「リハビリのその後」は「回復では”ありません”」。それ以前からして潜在的な問題あったのですから、リハビリ後は「それ以前と別の選択」となってなけりゃプロセスとして矛盾します。
イメージとしては「子供時代からの靴選びがある理由で妙なことになっていて、外反母趾になっていた。」←みたいな話ですから、リハビリ回復後の目標が→「あの外反母趾になるような靴をまた履けること」になっていたら無理があり過ぎというか、話にならんですよね。

※注:上記の話ってのは仮にその外反母趾が先天性であっても以降の話は同じ事になるので、”その外反母趾”が後天性なのか先天性なのかを巡ってなんとやらしてもおおよそ意味が無いところにポイントがある。後天的事情で道に迷うようになっても、先天的方向音痴でも解決を意図するリハビリ過程は同じですから(あらゆる疾病において前提となる生物の自己回復・自己治癒機能は共通であるため)。
 ↓↑
少なくとも発症原因を先天性であると過剰に傾斜してしまうと、症状が慢性化している背景に”現在進行系の問題が介在する可能性”を見落としてしまうため”危険”である。見立てとしてそれは”後天的にも起こり得る”というフラグを優勢に立てておく方がむしろ安全だと言える。
(解決が容易だと言っているのでも無い。また当人がその症状を問題視しない場合『歩留り論』的にそれを個性と判断する可能性も否定しない。)

でー、そもそも論として(広義の病気論じゃないけれど)「社会適応」ってのは『共同幻想』側のドグマであって、簡単に言えば事の始まりは「会社は勤勉な労働者を求めている」みたいな概念です。
そりゃ〜会社としては社員が勤労な方が都合がいいでしょうけれど、同じ『共同幻想』でも会社の側が間違っている場合(賃貸住宅の契約者報告義務じゃないけれど)労働者側からそれはおかしいわって論議も出てくれないと困るんです。
「勤勉」なる言葉の概念になってくるけどさ、
 ↑
何が言いたいのかって、「会社は勤勉な労働者を求めている」って都合の裏には更に別個の目的があるワケです(会社の反映なり、社会貢献なり、オーナーの私利私欲なりさ)。
それ(勤勉)はそんな目的を実存する手段のひとつに過ぎませんから、固有に単独の価値は有していない(道徳的普遍性で言いたいなら”努力”とすべきところでしょう←何の努力なのかは特定しない)。

ところが、全体像を俯瞰で見ない中間管理職としては”目先の勤労性”こそが強く気になりますわね(笑
(「大風呂敷の目的に関係する責任職じゃないから」みたいな。)
事実「そういうたわごとは偉くなってから言え」な〜んて言葉もある。
 ↓
そこは『共同幻想』の原則として正しい。
原始時代の『共同幻想』ってのは、生存競争厳しいから権威性階級が知的資産を独占するなりの因果関係から「とにかくその情報を広く無知な民までいきわたらせるため」、本来の目的の説明は省いてだね「言うとおりにしないと神様が罰を与えるから」とかでもなんでもいいので、最低限度でもいいから完全に情報共有できる拡散性が重要視されるワケです。
(実際宗教改革以前は識字率的にも製本技術的にも聖書は特権階級の秘密で、庶民は読む事できなかった。)
平安時代の星読みがなんとか律令だか発案する時にいちいち庶民に占いのなんとやらまで説明しないワケです。

だ、け、れ、ど、も、
(それこそ病気論被るけどさ)先進国病とも言われるメンタル問題だとか総じて神経症などと言われる様々な症例は、一度アウトサイダーになっちゃうわけですよ。
そして、原始時代や近代までの『共同幻想』と違って、先進国なんですから文字も読めれば原典も手にできる。『共同幻想』の方便を中間管理職の事情がどうこう関係無く「その目的は何よ」ってところまで考える事ができるし、考えなくちゃいかんワケ(考えなくちゃ根本の問題も解決しない)。

何故「考えなくちゃいかんのか」って言うとだね、
■『反抗期過程の話』から説明していくと
「反抗期とはなんぞや」
大まかに言えば「(脳内テストDATA)現実アップデート」であり「自我デバック」です。
一般的にその反抗の対象は「直近の権威性認知の対象者である親や教師などの職種になる事が多い」というだけで、何か殊更親と殴り合いの喧嘩して紛争になるのが確定しているみたいな話じゃありません。
それ以前の自我における権威性認知の裏付け(後見人的位置)となっている象徴的存在全てに対して、反抗が「いきがかかり上連動する」だけの話です。

わかりやすくするために無茶振りの説明してみると、
「詐欺にひっかかりがちの自我を問題視した当人が、自己分析(自我デバック)により、あれもこーだよなみたいに過去を省みている時に、そういえばあの時あの話も詐欺みたいなものじゃないかと”自己都合の追体験”により、唐突に古い知人に対してあの野郎〜みたいな状況に」←みたいな話。
 ↓
現実アップデートに連動する反抗の対象は「親や教師だけでなく祖父でも祖母でも兄でも姉でもひょっとしたら出来のいい妹や弟でも、カリスマ的友人でも、社会全般でも、所属ローカル『共同幻想』でも、社会観全体でも」権威性認知の裏付けとなり得る概念や人物などなどあらゆる可能性がある。

でー、
現代社会における「新卒会社員3年で3割辞職」のDATAがあるように、
先進国における自我ってのは、原始『共同幻想』社会じゃないのだから、高学歴が呼応するように『共同幻想』の元ネタであるとか本来の目的って奴に対して「自らはどう思うのか」って(神様の罰がどうこう的中間管理職的理解では無く)、確信犯的理解を”社会学的変遷”として求められるのであって、
そこは「民主主義における投票行動」にも連動しているワケ。
(先進国になれば、政策本旨に対する理解を前提に投票行動してくれないと困るワケだよ。)

医療界における「インフォームドコンセントやコンセプトも同じ」でしょ。
(第三世界の医療では無理な事ですよね。先日のアフリカのエボラの時なんざ国境の無い医師団が悪魔の使い的に襲撃されてたりするんだから。こういう状況の時は『共同幻想』的に「いかにそういうもんだの鵜呑み」的な”目先の認知”を優先して拡散させるのかの方が重要だから。)

■逆さに言えば、
確信犯的理解など及ぶ事も無く、何気にオンザレールで予定調和の社会適応しちゃっている自我は、たとえるなら「昭和までのタイプ」に属するので(それがいいとか悪いとか古いとか新しいとか言ってんじゃありません)、3年3割やメンタル問題に至る自我などに対し構造的に「世代間ギャップと似た関係性」になります。
何気にオンザレールな自我が昭和的『共同幻想』を神輿に担いでお祭りをやっている時に、
ふらふらっと3年3割が「伝統文化としてのお祭りとはなんぞや」などと考えてつつやってきて、両者が合意形成求めて話し合う必要性を感じる人っているでしょうか。

無理なく自然に考えれば「それぞれの考えで是非頑張ってください」ところになりゃしませんか、
どうしてもそこで(野党連合じゃないけれど)意見の集約が必要になれば「お互い自制して大人の対応で合意」以外あり得ないでしょ。所謂政治判断としての妥協点をなんとやらみたいな、
何かの拍子でぶつかり合う事になれば(どちらが正しいとか関係無く)論議は紛糾するだけでしょう。

キリスト教徒とモスリムがガチでぶつかり合うと、その合意形成から新しい宗教が生まれるとか通常考えませんよね(笑、世代間ギャップも似たようなものです。

(※勿論双方が目に見えてその世代間ギャップを認知できていて、前述のような大人の政治判断もOKな場なら→「若い人は自由に考えていんだよ」だとか「古い人には守るべきものがあるのだから」など双方が背景事情を推し量って、大喧嘩にはならないだろうけど、この合意からして「水も油も混ざらず互いを尊重」って話だからね。)

そんなこんなで、
メンタル問題だとか総じて神経症などと言われる様々な症例にある時、
回復の結果目標として「漠然と社会適応はあるべしだな」などと考える事は”大きな間違い”です。
(結果として社会適応を再選択するのも大いに結構だが、考えも無しに「そういうものだから」調で流れてしまっては本末転倒になる。「僕は自分の自我を昭和時代にタイムスリップする事と決めた」なんて話をおっぱじめても物理的に実現不可能だから。)

はてさて、そうなんだけれど、
”彼ら”を相手にするのは大変な事なので、
■次回は何気にオンザレールで社会適応しちゃっている自我タイプな人とはなんぞやって話を深めてみようと思う。
(感情的に対立ばかりしても建設的じゃないし、疲れますからね。前述の「背景事情を推し量る」とこが容易な方が双方にとって楽ですから。)


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