2016年02月09日

『被(こうむる)』の諸問題(1)

メンタル問題における「自我スタンスが『被(こうむる)』状態に陥る」って図式は、幾度と無くどころかいたるところで解説してきました。
(※この用語は独自に説明の利便性から使っているものですが岸田心理学において『共同幻想論』全般の中で”認識が共有されない場合”の解説として示唆されているものですが、某心理学のアダルトなんちゃとか甘えのナントカなどとも似た着想の説明上の”略号”です。)
前回の『深刻さ設定』認知シリーズの補完です。
■「『被(こうむる)』か『抗(あらがう)』か」

各所解説にあるように、この略号の中身って言うと、
『被(こうむる)』=パッシブ・リアクション・受身・被害認知・依存性
『抗(あらがう)』=アクティブ・主体的行動選択・攻撃的・能動認知・独立性
などなど、
基本中の基本があやふやな方もいるかと思うので「主に『被(こうむる)』心理」の説明を主眼にちょっと掘り下げておきましょう。
(『共同幻想論』まで話が及ぶとえらい大変な事になるので、ここでは簡略な説明に留めます。『共同幻想論』は過去エントリー各所でかなり突っ込んだ解説やっているのでそれらを参照の事。)

■前述の各言語に関連付けられる概念を更に補足するところからいきましょう。
▼『被(こうむる)』=認知速度として被害認知が先行する
△『抗(あらがう)』=認知速度として外的事実認定を優先する
時に臨床系が「被害妄想」なんて言葉でまとめちゃう場合もあるので、アレなんですが、妄想も何もそういう認知は「誰にでも」あります
そんな「誰にでもある」認知が何故問題化するのかって話です(それだけなら過度でもせいぜいが『視野狭窄』)。
彼らの言うところの「被害妄想状態」ってのは、被害認知速度関連の状況において「認知のエスカレート・現実との乖離」が甚だしく進行した状態と考えればよい。
『認知速度』ってのはですね、
たとえば「眩しいのが苦手な人」が屋外に出た時に(今日のお天気は眩しいだろうかに強い関心事項があるので)「いやあ今日も眩しいぞ」なんて言ってる間に足元の犬のウンコを踏んじゃったみたいな話で、既にちょっとした『視野狭窄』になってますよね。

或いは「色的に青に強い反応ある人」が、アパレルショップで「あまりにもお気に入りの青があった」と喜んで(本来購入目的ジャンルの衣類を失念し)、帽子を衝動買いしてしまったみたいな話でもあります。
更に「肉に目の無い人」が、昼飯時に(昨日の飲み会で胃もたれしているってのに)うっかり「カツどん頂戴」と言ってしまう瞬間の認知現象でもあります。
はたまた、「趣味はバードウォッチングだ」な人が、都会生活通勤時に通常誰もみつけられない小鳥を次から次へと発見し「あ〜もうナントカ鳥の渡りの季節なんだな」と同僚誰一人理解できないワビサビを味わっている様も同じであります。
 ↑↓
勿論のこと「やれ頭がおかしい」みたいな話と”まったく関係無く”ありません。ましてや「被害妄想」などの妄想話でも無い(認知症の「お財布盗まれた事件」も結果論であってそういう”妄想”が固有に存在するのでは無いと考えます)。

●基本は「まず何に目が行くのか」という速度の話です。
どこに目が行くのが早いのか(そしてその加速度は)?
そいいう話なんですよ。
色欲盛んな思春期の男性の視線なんてもろにそうじゃないですか。他が目に入らず周囲の忠告にも聞く耳持たずだとか←メンタル問題時の認知偏向と現象としては”同じ”です。

更に前述の野鳥の会な人みたいにですね、人間はその認知によって周囲から到底理解できない境地に至ることは「し ば し ば」であり、当事者がそれを自認し主体的認知上にあれば(周囲が到底理解できないのうがきを垂れている状況も)何ら問題無いどころか「異質であることが自慢げですらある」。
「俺は目付けが違うからな」なーんて台詞もありますね。

メンタル問題でやっかいなのは、その目付けが無自覚(無意識)的で、「認識速度的にそっち方面に偏るアレが起動中」を当事者がまったく自覚できない場合にあれこれするんです。
「何故回りの人は気が付いてくれない」「何故わかってくれない」とかね。
仮にこの時その視点が自覚的なものなら「俺は目の付け所が違うから、変人扱いされてこそ自慢できる」となる事項なので、その後の反応が真っ逆さまに真逆である事に着目。

「俺は目付けが違うからな」なる台詞と好対照ですよね。
(本来は違う視点、認識を共有せず周囲が理解できない話をしてるところが自慢の筈の認知速度関連のなんとやらが、やれ孤立だ被害者だって話にエスカレートし関連付けられ「現実との乖離が加速」してしまう。)

本質的に自覚のある選択的な視点偏重は「俺は目の付け所が違う」ように意図して習慣化された個性と自覚される選択事項のひとつ。←この意図や視点偏重の企画部分に『抗(あらがう)』が動機形成として関わる(自覚的に狙ってそうしたものである)。
そこが、
■『被(こうむる)』の場合、常に受身なのだから勿論自覚は無く(自分で選んだつもりも無く)、何に着目する以前に(或いは結果として何に着目しても)、スタンスが被害認知の図式まんまなので、おかしな事になるんです。

●重要なポイントですが日本語がおかしくなる場合も珍しくありません。
「他人の視線が気になる」←本来この言葉って気にしている当事者は自分ですから、主語は自分であって、国語的に校正すると→「自分は他人の視線を気にする」とならなければならない。
と こ ろ が、
『被(こうむる)』自我スタンスに起因する「他人の視線が気になる」って言葉は、
あ た か も、
「自分が他人の視線の被害者である」かのように”脳内”では認知されるんです。
(日本語の文法からも乖離しちゃっている。)
『被(こうむる)』認知に陥ってしまうと、どんな視点偏重の結果でも(主語が”自分”であっても)、速度的に常にそれを上回る被害認知で上書き解釈されます。

※ここで「他人の視線が気になる」とかでは無く→「いつも誰かからジロジロ見られて監視されている」となってしまえば”妄想”となりますが、現実との乖離が”甚だしく”現状説明の辻褄すら保てなくなった結果と考える事ができる。←この水準となると会話自体困難となるため精神科などの投薬抜きに対応できなくなります。心理学的には「被害認知に対する依存状態」であり→現実を認知する”ものさし”が被害認知だけになってしまっている状態。


■もう一度両者のその過程を整理してみましょう。
1)視点偏重(『視野狭窄』水準になっていても)それ自体は単なる自我機能の一部なので何も問題は無い(それが必要な場面すらあるでしょう「アウトコースに目付けをしろ」とかね)。

2)わかりやすく鉄板の深刻な状況「戦場」で両者の差異を考えてみる。
・『被(こうむる)』パターン
斥候と連絡が取れない危機ストレスを『被(こうむる)』でパッシブで受け取り(この段階で被害認知)、彼岸感情など極度の不安に陥り『深刻さ設定』をイメージしてしまう→「敵兵力は目前であり、斥候二人も死んだのだから小隊の全滅も有り得る(部隊の被害拡大に対する視野狭窄)。司令部に報告と同時に即時撤退しなければ(被害が拡大してしまう)」→被害イメージは更にエスカレートも有り得る。
・『抗(あらがう)』パターン
斥候と連絡が取れない危機ストレスを「新たな外的事実として」『抗(あらがう)』スタンスで即時これに対応する行動選択を動機形成→「まず通信障害の可能性を確認しろ。それから斥候が戦死したのだとしたらゲリラかスナイパーが居るはずだ、確認を急げ(視野をゲリラ・スナイパーに対し選択的に索敵に絞れ「意図して視野狭窄でよい」対スナイパー訓練を思い出せ)。司令部へ報告「○小隊は敵兵と接触の可能性あり、現在確認中」急げ。」→危機に対処する行動選択が行われ「現実」認識はそのものへ集中される。

3)ここまで説明しても『被(こうむる)』系の方からありそうな批判
「敵兵力が本当に大部隊だったらどうするんですか。前者の方が対応としては安全だと思います。」
大兵力である場合、敵方の斥候をいきなり攻撃とかあり得ない。(自分が大兵力なのだから)斥候の存在を確認したところで偵察部隊を派遣する事になる。
更に、大兵力の場合その攻撃も大規模なのだから銃声含めてそれとわかる反撃が行われている筈。

「そういう当たり前の戦術が取れない、それこそ敵方の指揮官が『被(こうむる)』みたいな人の可能性もあるかも知れないじゃないですか。」
敵司令官に『被(こうむる)』などの問題がある場合、斥候を失った○小隊が熟練の用兵が可能であれば(敵方は被害認知が先行しているのですぐには動けない)、ゲリラかスナイパー索敵時に大部隊を発見し同時に敵方は偵察部隊の派遣どころか慌しく防御陣形を整える動きを発見する事になるだけで、何ら問題が無い。

「敵方の司令官が『被(こうむる)』でも、鬼軍曹のような熟練の部下がいるかもしれません。」
そのままです。軍曹の偵察部隊編成の具申は却下され、軍曹が自らの部隊だけに限定的命令として(敵兵力は小規模だと思うなど)注意を与えてもその心構えができるだけで(仮に○小隊が大部隊をフェイクするような攻撃をしてもパニックとならいだけ)、先手を打つ対応はできない(そういう軍曹がいても○小隊に有利な点も不利な点も無い)。

※何度も説明しているとおりで『被(こうむる)』状況になると自分の発言している日本語の理解からして現実と乖離してしまうので(自分の言っている事と心象からして乖離している)、エスカレート認知の構造で説明したように「パチンコの借金が雪だるま式」的に、現実認知の合理性は確実に破綻しますから、後からどのような反論をしても話が支離滅裂になるだけです。
それは現実認知の先端である目先の具体的事実になればなるほど乖離している(目先の話より原理原則論のほうが「幾分現実との乖離は”近い”」)。


●『被(こうむる)』自我スタンスで当事者が得することなんて(マゾヒストの趣味があるなら別ですが)何も無いワケで、おかしな事にしかなりません。現実から離れちゃうんですからね。
 ↓
そりゃ話の発端となる『被(こうむる)』スタンスが主に反抗期以前の子供の自我に見られる認知傾向であり(能力や法的権利的にも自活する前提を欠くので被保護者としてどうしても受身的人生になる)、『抗(あらがう)』スタンスは反抗期により獲得された(よってその傾向は反動では”無く”「反抗」)、外的事実に対して個人で主体的に存在(攻撃性や生産性)する大人(自然界の動物としては通常営業)の自我だからです。

※勿論の事、メンタル問題における『被(こうむる)』状態は、何らかの原因で反抗期が完全にプルーフ(通過証明:現実認知のアップデート)されていない場合に起きる自我構造だからです。

●自我スタンスが『被(こうむる)』状況であっても、四六時中自我が『被(こうむる)』スタンスに固定される事は無いので、『一拍置く』だとか『(タバコなど)一服する』などにより『被(こうむる)』状態時の認知を振り返ることは可能(「省みる(かえりみる)」)。
厄介なのは、前項の3)で説明した「『被(こうむる)』系の方からありそうな無理筋の批判」で、「ちょっと待てよ」な再認知を自分で否定してしまう事が珍しくないってところでしょうか。
(自分の自我スタンスが『被(こうむる)』だって事に自覚が無いのだから、パニック時の認知を当人は殊更正しい判断だと思ってしまう。←本当にその時の感想はそうだったのだから。)
 ↑
カウンセラーなどの第三者の介在が必要となる根拠はここ。
(「いやいやいやいや、違うから」と言う人が介在しないとなかなか『深刻さ設定』を解除した現実の再認知が進まない。=『被(こうむる)』が構造化しているケース。)


他にも関連する対比をザザ〜っと挙げておくと以下のような形になります
▼『被(こうむる)』=ストレスへの反応が受身で後追いリアクション型
△『抗(あらがう)』=ストレスへの反応はタイムラグ無しに「ストレス値と対を成す行動選択モチベーションが展開」

▼『被(こうむる)』=(被害認知速度の影響で)ルサンチマン的アイデンティティー(=『共同幻想』社会適応=アイデンティファイ(帰属)が呪縛的に暗示される)
△『抗(あらがう)』=アイデンティファイ(社会帰属型)への反抗を経た(離脱した)、個人の主体性がアイデンティティーとなる(社会に対して個性化された立ち位置がIDであり身分証明)

▼『被(こうむる)』=(ストレスに対してパッシブであるため)結果論的に私小説的・主人公的シナリオに追い込まれていることに当事者が無自覚的である(無意識にそうなってしまう)。
△『抗(あらがう)』=群像的(市井的)シナリオ「自分もそんななんちゃらの”ひとり”だが」のような自覚。
※この場合のシナリオは「何かを策定する時の方針・指針」のような意味もある
※東京地検の「シナリオありきの操作」などの”シナリオ”も同じ用法

▼『被(こうむる)』=依存性・交感神経系
△『抗(あらがう)』=独立性・副交感神経系
※アクティブで攻撃性が特徴の『抗(あらがう)』が副交感神経系分類であるのに疑問感じる方もいるでしょうが、『抗(あらがう)』スタンスはストレス信号に応じて行動が企画され(ストレスがモチベーションに転じる)不安や興奮などによる緊張状態にはなっていない(リラックスしているとさえ言える)。

「毎朝ランニングを続ける旺盛なモチベーション」←おおよそ緊張や興奮状態の図ではありませんね。そういう意味です。更に付け加えるとスポーツなどのメンタルトレーニングなんかでもそうなってます(本番でいかに普段どおりの力を出すか)。
神経関連の説明では「交感神経」を活動時のものみたいな説明になっている場合もありますが、時系列全体で言えば『抗(あらがう)』スタンスは副交感神経系となる。
ストレス認知(朝だ○○)→即「よしっ」→ランニング
(本来ストレス信号の意味ってのは行動のキッカケとなるスイッチみたいな機能です。過剰なストレスってのは”冬休みの宿題が山済み”のように、行動企画に転じられなかったストレスが蓄積される状態。)

●勿論、上記関連から『被(こうむる)』心象が自律神経失調などにも影響を与える事は自明。
(『深刻さ設定』から認知のエスカレート、そして現実との乖離により「現実と乖離したストレス」を自ら供給し続けてしまうからです。→「現実と乖離したストレス」を「そのまま行動企画化する」なんて物理的にできませんから→ストレスが恒常化・慢性化しやすい。)


などなどつらつら書いていると、
「幼児期の自我に原型があると言うが、そんな事なら子供の自我は全員大変なメンタル問題になっているのでは無いか?」などいう疑問を持たれる方いらっしゃるでしょう。

十分過ぎるぐらい長くなってますから、次回にしましょう。

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