2016年01月28日

エスカレートの構造 深刻さ認知

<前回エントリーの続きとなっております>

「大事なことだからね」
或いは
「きっとこれが大事なことに違いない」
この辺の認知に関係しているかなと、
勿論、本筋の『深刻さ認知』には「とんでも無い目にあったものだ」な経験則がメインであることは間違い無いのですが、
前回のエントリーでクローズアップされている→エスカレート認知の構造に関わる人格傾向としての「深刻さ判断が恒常的に”深刻だ”にブレがちな人」を考える場合、経験則の一般論では語れないでしょう(数学的確率上あり得ない)。
特定条件の深刻な実経験に対応しているのでは”無い”からです。
 ↑↓
ここがまた論議になるのですが、
エスカレート認知の構造に関わる人格傾向としての「深刻さ判断が恒常的に”深刻だ”にブレがちな人」、当該人物は明快に「経験として深刻体験が実際に凄い頻度で連続している」と主張することになります。つまり、客観的事実関係と認知される事実関係はこの段階で既に乖離してしまう。
 ↓
当人の人格傾向が(軽微な状態なら「単に真面目な人」水準なのでしょうけれど)「深刻さ判断が恒常的に”深刻だ”にブレがちな人」なのですから、「一般的事象に対しても本当に深刻な問題だと認知しちゃっている頻度が高い」のであり、更に「認知における深刻さ認知は=大事な事分類」になりますから、この状況を「たいしたことではないだろう」などと周囲が指摘すると当人は「道徳的反発」により激怒し否定しちゃう流れになります(当事者認知上では一大事なのですから)。
(注:説明するまでも無く、人類の日常生活に異様に深刻な自然現象が誰かに固有に”偶発”する数学的確率は皆無である。)

上記の括弧書き内容がまた微妙な話でありまして、
●「深刻な事象が連続する」これを当人自我も流石に自然現象に関連する事は無い。
上記がとても重要なポイントなんですよ。
自我に『深刻さ認知』に過剰傾向があったとしても、自我の現実認知に”意識的偏向は無い”証明なんです(簡単に言うと”機能的な問題が無い”証拠)。
自然現象の発生頻度と深刻性の確率は十分に理解しているので、仮に『深刻さ認知』傾向が自我に存在しても、それは日常の自然現象において表面化することは”無い”のです(自分でも誰かに特別深刻な状況や大事な問題が偶発するなんて起こるとなどとは思えない)。

■ですから『深刻さ認知』過剰傾向が派生するのは「蓋然性(がいぜんせい)状況に限られる」。
「自分のここがこうだから」「誰かのあの行動はあーだから」「自分は何々っぽい人に特に関係しやすいので」「自分にはかくかくしかじかの固有状況があるから」「自分はとにかくミスが凄く多い」などなど、
メンタル問題においてそれが代表的に現れるのが『醜形恐怖』です。
『醜形恐怖』のような設定さえあれば、自分が関係するあらゆる事象を蓋然性から「深刻な、大変な、大事な問題が連続している」として認知可能で(重要なポイントは当事者自我には現実認知判断に何ら機能的問題が無くても可能となるところ)、前回の法則と組み合わせると「深刻な状況だ判断が連続するため=機会的に”この程度だろう認知”が働かない状況が派生しやすい」のであり、
現実との乖離発端となる「誤解や勘違いや憶測」を数学的確率論として派生させやすい状態が恒常化するワケです(後は時間の問題的な)。
お察しのように『醜形恐怖』は(人の美意識など所詮相対的なものですから)「言ったもの勝ち」的に、誰でも容易に始められる”設定”です。
(その始まりは今回の論議とは別のなので深く掘り下げませんけれど)

つまり、
■全ての人類誰にとっても、自我は蓋然性となる設定があれば『深刻さ認知』過剰傾向を自由自在に発現可能なのです(前回記事で言うところの現実との乖離「認知のエスカレート」を引き起こす条件)。
そこで
「大事なことだからね」
或いは
「きっとこれが大事なことに違いない」
なる背景に立ち戻って話を展開してみます。
何の話をしとんのかと言いますと、
(あえて軽微な事例から)所謂真面目な人ってのを評する時「大事な事が多い人」とも言えるだろうと。人間の現実においてやたらと大事な事が偏る事はありませんから(ここは前段で論証したとおり)、何気に物事を大事に扱う人を「責任感の強い人」と呼ぶ場合もありますが、ここのポイントは人格傾向としてこの人物は「同じ事象であっても、当人主観がそれを”大事な事”として認知する頻度が高い」って部分で、外的事実が大事な事やそうで無い事に切り替わるのではないってところです。
(「同じ外的事実に直面していながら”その人物だけ”が真面目な人の風評を得る」現象そのものが、その証明。)
仕事上の鬱フラグに「昇進」があったりしますが。この場合も「管理職になった」など社会的地位が外形事実を大事な仕事が増える(責任が重くなった)と理解されるからで、「昇進」がトリガーとなって潜在的な”真面目さ”が過剰化した場合などに鬱症例が派生するという流れです。

勿論「事の大小」の認知からして(原則として偏差値認知ですから)それは「権威性認知」であり、『共同幻想論』的なカテゴリーです。
(『単独者』系自我に絶対鬱症例や神経症系の問題が起きないって意味ではありません。『共同幻想』世界から完全にその関係を断絶する『単独者』ってのは無人島設定でも無い限り難しいからです。)
■つまり、その認知は、
「大事なことだからね」
或いは
「きっとこれが大事なことに違いない」
などの”認識や概念”として獲得されてきたものとなりますから(ある意味”設定”的な認知)、
 ↓
●更にここで典型例『醜形恐怖』も交えて考えます
 ↓
ある種の「トラウマ論」として、冒頭記載の以下ケースを考えてみましょう。
>本筋の『深刻さ認知』には「とんでも無い目にあったものだ」な経験則がメインであることは間違い無いのですが、
誰にでもあるこの”本筋の深刻体験”が、当該人物に何らかの事情で「凄く強いストレスとなる不快であった場合」、大事どころかその再現は悪夢でしかないので”非常に強い不安要因”となります。
そこで「不安原則」を考えると→人は耐えられないほどの不安がある場合「対象が確定的な恐怖の方がよりマシ(具体的対処を考えられる)」となりますから、発端となった事象や事件を無理やりにでもストーリー仕立てで解釈してしまう事があります。
その代表例が「私が悪かったから(或いは誰かが極端に悪い人だったから)」のようなものです。
「その原因が何々が何々だったから」というような筋立てです。
(そのひとつの典型として「容姿が醜いから」などとなると、醜形恐怖に発展してしまう。)
ところが、この手法で不安から逃れようとすると→途端に『深刻さ認知』の過剰傾向に転じることになますから(不安どころか不快事例が蓋然性として高い頻度で派生する設定になってしまう)、

大 悪 循 環 ですよね?

やれ『共同幻想』がどうとかの問題じゃなく、
トラウマ論的な、ひとつの認知上の対処が自動的に『深刻さ認知』の過剰傾向に転じ、現実との乖離を引き起こしかね無い。てか、前回の論議で言えば一度何かのきっかけで「誤解を発端にした憶測」を派生させると、ほぼ100%現実との乖離を引き起こします。
そこに「(具体的な失敗体験などの)反動形成」が起動すれば認知のエスカレートに至る(そしてそれは止まらない)。
■大事なポイントは「自我の機能的に誰にでも起こりうることだ」ってところです。

(ちなみにこの悪循環の解決策は簡単で、実は発端となる「トラウマ論」が鍵となっており、、と、この話やりだすと長くなるので次回にしましょう。)


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