2014年09月05日

自己責任論の誤解

責任って言葉からして「受け取る側の意味が大幅に違う事も珍しく無い言葉」である。
心理学における説明時に「自己責任を担保した選択を」なんて表現をよく使うのだが、表現のニュアンス的にはギャンブルにおける”賭け”的な意味です。
この自己責任って言葉は『被(こうむる)』『抗(あらがう)』論の説明がとてもわかりやすい事例のひとつになってます。

「責任」って言葉を
『被(こうむる)』で考えると「責任を取らされる」「誰々の責任だと言われた」とかになりますが、
『抗(あらがう)』で考えると「私が責任者にふさわしい」「私が責任を取ります」となり、
クレームなんかの話になれば、
「責任者を出せ」なんて場合=「偉い人を呼んで来い」となるので、責任が発生しているってのはどちらか言えば「利権の存在」を意味しており、自然に考えれば好ましい部類の話なんですよね。
 ↑
これとよく似ているのが会計における借金です、
『被(こうむる)』だと「借金で首がまわらない」
『抗(あらがう)』だと「資本金を手に入れた」
勿論、住宅ローンじゃないですけれど「多額の借金が可能=信用評価が高い」となるので自然に考えれば好ましい事なんですが(そりゃサブプライム金利で無理な資金調達となればアレですけど)、『被(こうむる)』の状況で考えても「それだけ金策に成功している」って話なワケで(問題は何に使ったのかだとか調達コストの高い借金をしてないかって話で)、『被(こうむる)』なままでも一概に否定的な話しじゃありません。

それだけ『被(こうむる)』というスタンスは「自分は何も関与していない」的な「絶対受益者」の立ち位置となっており、「絶対受益者」なんて一歩間違えば誰でも「絶対被害者史観」になり得るのです。話を自己責任論に戻すと、
「同じ事象なのに、当事者がそれを否定的に見たり大喜びしたり自分の利益と感じたりなど自我スタンスで容易に180度意味合いが変わる」ってところがポイントでありまして、
(話を単純化すると→大波を受けるとなれば大変ですが、波乗りしているサーファーには大歓迎となる。)
どっちが得なの?と問われれば誰でも『抗(あらがう)』側に立つのが有利だと考えるでしょう。
それだけ心理状態が『被(こうむる)』の場合、同じ事象においても否定的な結論を導く事は容易になります=「絶対被害者史観の誘惑」も大きくなるんです。
(脳の原則論ですが、脳は興奮さえあればよいのであり、それが『自意識』に快と分類されようが不快と分類されようがどっちでもいいのですから。)

こうなっちゃうともうね「ひとつのスタイル」なんですよね。
そして『被(こうむる)』の場合には典型的になればなるほど「個性が典型例に埋没化します」。
逆に『抗(あらがう)』の場合典型化は概念としてあり得ない。自由度が高まる事になるので『抗(あらがう)』スタンスが強化される先あるのは個性化となる。
(▲上記項10/21一部編集)
 ↑
ここの意味わかり難いでしょうか。
『被(こうむる)』系人格構造は”ひとつのスタイル(典型例)”なのだから「パターン化する」のです。
『ステレオタイプ化』=没個性です。
そして没個性ってなんぞやと聞かれると「もうその人本人の特性では無く、それは『抗(あらがう)』『被(こうむる)』系人格特性が支配的になってしまっている状態」となるんです。
(平成初期の”マニュアル人間”などの話も同じで、この時は崩壊が進む『共同幻想』を補完するため『共同幻想』適応系の社会がマスメディアや出版物などに行動様式の雛形を求めた現象です。)
実際メンタル問題で悩んでいる人は激しくここ同意しかねるでしょうけれど、
『被(こうむる)』系人格傾向は「驚くほど人格傾向はその典型例に画一化・類型化する方向になり」(そりゃ強迫心理の元ネタが『共同幻想』の共有自我なのですから)「それはあなたの意見でも感情でも無いんですよ(この状況でこのタイプの傾向(スタイルが)ある場合には誰しも全くその同じ台詞を言うのです)」な局面も多くなっていきます。
(▲上記項10/21一部編集と訂正:重要な部分を真逆にコピペしてましたスイマセン。)


「本人」だとか「本当の自分」なんて言うと青臭い話出たかと勘違いされる方いらっしゃるかもですが、極度の没個性化が進行中である状況の対比で考えれば、そのまんま「そんな事をいう自我はいません。それは『被(こうむる)』人格の代表的な決め台詞です」みたいな水準の話だってご理解いただけるのではなかろうかと思います。
■時にフランス方面などで、無意識領域を過大にロマンチシズムな理解を進めようと傾斜する場合もありますが(勘違いしてビートルズがドラッグとかになってんじゃネーかみたいな)、そっちの水にあるのは確かにカオス的な部分はありつつも(そりゃねDOS窓でやろうってんだから)、無意識領域に対して『自意識』がそれをありがたがるかのように『被(こうむる)』スタンスになる時、先にあるのは類型化と没個性化と「自己の喪失」なのだって事ですよ。
自己責任(現在時刻の選択の著作権)の忌避ってそういう意味ですからね。

(▲10/21一部編集あり、文中説明参照。)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
コメント欄に問題となった同趣旨の投稿が続いたため、暫くの期間ブログのコメント欄トラックバックを閉鎖します。閲覧されている方には不自由となる部分もあるかと思いますがご了承ください。(再開までの期間は未定です)
詳しい経緯は下記リンク及びサイドバーコメントリンク表示の説明参照
コメント欄の削除があった件(関係障害について)
http://kagewari.seesaa.net/article/402054291.html



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
posted by kagewari at 19:29 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


comments他

・コメント欄は『公開掲示板』同様に原則削除禁止です
(基本的に削除依頼には応じられません、削除依頼は投稿禁止ワードとなってます)

・SPAM対策として一部キャリアからの投稿がIP規制の対象となってます
(同規制キャリアから登録抜けによる投稿がある場合、投稿は自動削除されると同時に規制IPに追加登録されます)



現在コメント欄閉鎖中 (2014.7.26〜)




kagewari01
タグクラウド
RDF Site Summary
RSS 2.0