2014年08月14日

『共同幻想論』会話編part2

難しい話でもあるので、
前回の続きと補足です。
追記的に『共同幻想論』会話編
http://kagewari.seesaa.net/article/402635704.html

まず大枠をドーンとわかりやすくしてしまいましょうか。
近代以降それが一般庶民に降りてくる訳ですが、その大元の原型って何か?
「中世貴族社交界の会話です」こいつがニーチェも嘆く庶民化商業化大衆化し現代社会の『共同幻想』の会話ってものに変遷してきているのです(現代社会で似たもの探すと「集団お見合い会」だとか)。
原型で考えるとわかりやすい。
「なんらの共有化された社会幻想が舞台化・台本通りの進行化されている空間」において、素の個人が「俺ってさ〜」とかもうご法度な訳です。そういう舞台においても幾分かの本音が交わされるのは化粧室だとかですね(ここでも「風呂とトイレの中だけかよ」って話ですが)、或いはその場で「この後非公式に一杯どう?(オフレコで)」みたいな事になって初めて「1段階ぐらいプライベートな会話になる(それでも『共同幻想』的にはまだ本当の本音では無い)」ってぐらいの話です。
(※更に現代社会におけるオフレコポイントは「喫煙室」でしょうね。)

多かれ少なかれその傾向が「職場」や「学校」や「井戸場会議」や「奥様会(このくだけたバージョンがガールズトーク)」古くは「社員旅行の無礼講バージョン(これでも1段階プライベートになった程度)」、「夫婦の会話(夫婦の会話はガチで『共同幻想』の会話です←ゆえに『単独者』系の個人は非婚系となる)」などなど様々に分化して存在するのですが、
■ここを『思春期・反抗期』の少年少女の典型的な台詞で表すとわかりやすい。
 ↓
「そんな事聞いていない!自分の言葉で話せよ!!」
ことほど左様にですね、『共同幻想』の会話ってのは私語禁止なんです(個人的意見を言う場では無い)。その原型はフォーマルだって事です。ですからそのまんま話をしだすとそれは私語じゃないのだから反抗期の少年少女にとっては国会で官僚の書いた原稿読んで答弁しているのと同じに聞こえます。
いやいや、聞こえるのではなくって、そのとおりなんです。
『共同幻想』社会の会話ってのは私語や私見であってはならず、公式的に情報共有された「その場の論理」を彼らなりに解説するような振る舞いを超える事ができないからです。

■ですからその場で交わされている言葉や認識には「その場を保守する上でのルール」も派生するため(さっきの思春期少年少女の台詞の”逆”なんだから)、「誰一人個人的意見を述べていない」のです。でー
こっからややこやしい話になるんですが、
『共同幻想』の会話の中で「私個人に対してこんな事を言われた」とかの認知も同時に「あ り え な い」のです。
(それを個人的意見として発言した人物が存在しないのですから。)
言うならばその発言ってのは(まーねなんらかの悪態や叱責に類するなんとやらがあったとしましょうか)『共同幻想』全体がですね「この社交場ではこのルールでお願いします、あなた個人に個人的心情や意見としてそれに同意を求めているのではありません。形式的にこういう事にしてください。」みたいなニュアンスが大半な訳。
そんな情報の共有を求められているんだわ。
(まさかその場で個人的見解を発言されるとか誰も想定していないし『共同幻想』的には有り得ない。←この辺を端的に言うと「まさか主語が”私は”で始まる返事とかを誰も想定していない」という以前のエントリーの話に繋がる。)

少々話を有り得ないぐらい極端に誇張してみましょうか。
○「司令部より伝令、明日20時○○部隊は任意に敵潜伏地帯へ前進、○○丘付近に橋頭保を築け」
○「ご苦労、伝令了解した、○○部隊は明日20時より任意に前進を始める。伝令は十分休養を取ってくれ。」
○「有難う御座います。」
△「少尉殿昨日こんな事があったんですよ、私は思うのですが。」
○「、、へ?、、誰なんだ、、おい。」
 ↑
『共同幻想』社会の空間ってのはコスプレ趣味の同好会における決まり事のやりとりのようなもので、個人の実存を捨てて共有化された属性に成り切ってるのであって(職場なら労働者だとか)、更に誇張して言えば『共同幻想』社会適応ってのは「多重人格使い分けるようなもの」なんですよ。
(そんぐらい「風呂とトイレの中だけの私見と『共同幻想』空間で交わされる”台詞”には乖離が大きい」)


話を戻しますか、
■「そんな情報の共有を求められているんだわ。」
 ↑
ここに重大な意味があるのわかります?
基本的に予定調和ストーリーが原則なので「同意以外の選択肢が用意されていない」のです。
簡単に言うとですね、『町内会の回覧板』みたいな情報伝達なんですよ。
予め『共同幻想』への所属と同意が既成概念として織り込まれてるワケ。
回覧板回してる最中に何番目かの人が「これはどういうことなのか」と始まっちゃうとこれ回覧板制度が壊れちゃうんです。
「次の順番の人に回す事が織り込まれていて、それ以外の選択肢は無い」のですよ。

■更に米国社会やらの例で考えてみましょうか。
昭和の日本人が欧米を『個人主義』と勘違いしたポイントがこちらで、特に米国社会では会社でもラストネームで呼び合うなど(日本では名前が”課長”だったり軍隊のように属性名称が個人名化する)一見すると個人主義に見えるんですが(you know文化に見られるだけでなく)彼らはその会話に対してワザワザくだけたとかリラックスしたとやらの意味で「frank(語源的には自由な)」とういう表現使ってますがそれは正に「1段階プライベートになった」オフレコ程度の意味であって、見ようによっちゃ理想主義の押しつけ的な要素も無きにしも非ずで、「全然frankじゃないじゃん」だったりするワケです。
(※口語において、日本人でもちょっとあり得ないぐらいのスラング(slang)がありますが、これは貴族のフォーマルに対して”俗な”という意味だと解すると、それでも決して本音とは言えない(階層的な意味に過ぎない)と考える事もできる。)


さて、再び話は戻りますが
『共同幻想』社会の会話ってものが「この社交場ではこのルールでお願いします、あなた個人に個人的心情や意見としてそれに同意を求めているのではありません。形式的にこういう事にしてください。」みたいなニュアンスが大半だとすれば、
「そんなめんどくさい」と思う方も多数でしょう。
答えは簡単で、
(勿論我こそはと進んで『共同幻想』空間に参加したい意思のある人は別ですが)
「そんなめんどくさい」と思う方どうするかって、
その場で「集団お見合い会」が催されているですぜ?
「あっ僕は参加者じゃありませんから」と超壁の花的に誰も寄り付かなさげなポイントで迷惑そうに苦笑いするか、「僕はスタッフですよ」みたいな顔して雑用係みたいな事でもして誤魔化すか。
誰だって選択肢的には上記みたいなオフなポジションを探す事になります。
繰り返し説明してきた「1段階プライベートになった」場面となる会社帰りの付き合いと呼ばれた飲み会を忌避する人も増え、居酒屋などが「ファミリーレストラン的営業」にしないと凌げなくなったこの現代社会、「1段階プライベートになった」場面ですら所詮カテゴリとしては『共同幻想』会話の範疇だろうし意味が無いとめんどくさがられている訳で、
昭和の『共同幻想』バリバリの頃栄華を誇った「体育会系を頂点とする部活」に対して世代的に「帰宅部」なんてのが登場したのはちょうど僕らの世代から(新人類世代)ですからかれこれ30年以上前の話ですよ。(学生運動世代なら「ノンポリ」)
 ↑↓
■メンタル問題考える場合ですね、なんといいましょうか、
なんとかさんは輝いているのに、私がどうだとかさ、、
全然次元の違う認識が一枚噛んでたりする訳さ。
そういう認識じゃ「体育会万歳」みたいな少し勘違いした保守思想の言いそうな台詞なワケで、
(前述のオフなポジションと比較すれば真逆過ぎでしょ。)
うんでー、その場のやりとりをドーンと大事件みたいな形で引っ張ってきて
「私個人に対してこんな事を言われた」とかの認知バリバリに事の顛末が語られたりするんです。
俯瞰で見れば無茶苦茶だって誰にでもわかることです。
メンタル問題の発現ってのは、言うならば「遅れてきた反抗期圧力の対処に困っている」ようなものなのだから、モデルにすべきは『仮想単独者状態』とも言える「思春期反抗期の少年少女のスタンス」って話だから、この場合「自分の言葉で話せよ」的に予定調和のめんどくさい『共同幻想』社会であったり『共同幻想』会話そのものを忌避するのが(その状況においては)合理的な認識ですよ。
(昭和の典型的思春期反抗期の台詞には「ほっといてくれよ!ひとりにしてくれ!」なんてのもありますね。)

であるべき状態で、
「やれなんとかさんは輝いているのに、私がどうだとか」、、
こりゃね『適応強迫』以外にどう説明しろって話です。
あなたねどうしたいの?って。
(逆説的に言うと、何をやろうとしているのか心理学的に無自覚なプロセスでも走ってなけりゃ論理的に発生しない話です。)

そもそもその場は誰にとっても個人的な評価みたいなものが発現される場では”無い”オンなフォーマル空間な訳であってさ(しかも無意識に「そうでなければならい」的にこれを強く肯定しており)、誰もが私語禁止で「なんとか幻想の調和になんとやら〜」みたいな場面な訳ですよ。裏では誰もが「あー疲れた早く帰りたい」とか言っておる訳で、もうねその場面で「なんとかさんは輝いている」だとか「誰々は素敵ななんとかに」なんて認識している人「誰もいませんから」。
この段階で、完全に現実認知が倒錯してしまっている。
■この論理矛盾を私は「『共同幻想』社会の私的占有を試みる違反行為」と説明する場合もありますが、無理筋もなにも「どうしたいのか」が無茶苦茶なんですよ。
端的言えば「そんな現実認知じゃ無理筋過ぎて、どうしたいもなにも”どうにもなりゃしない”」のであって、
この現象を『関係障害』だとか呼ぶのも間違いなんじゃないのかってぐらい話がよれちゃってる。
(素で考えれば、そもそも「集団お見合い会に参加する目的が全然間違ってる」のだし。輝くも何もさ、状況理解している人ほど「恥ずかしくて早く帰りたい」んだから、、。)

前述のところに戻ると、
■逆説的に言うと、何をやろうとしているのか心理学的に無自覚なプロセスでなけりゃ発生しない話
 ↑
この現象の発生要因を考えない事には何も解決しません。
結論「適応強迫」なんだけれども、少し補足的に説明加えてみましょう。

■「適応強迫」ってそもそも何か?
まず、想定されている権威者がいないと始まらない。
(軍で言えば”超上官”の存在)
次に、自分の実存が(深層心理で想定されている)権威に認知されるって事が=「社会適応」と認知されており(『被(こうむる)』で認知されると「(権威に)認められる」って概念になる)、そうならなければ(=実存不安で)何をやっても無駄じゃないかだとか、何をやっても意味が無いだとか、全く生きる意味が無いみたいな話になってちゃっているんですよ。
(構造上その前提だとそうなる。)
ともろがだね、
この話が成立するためには、権威それ自体の証明が無いとさ「空理空論」になります。
「その認めただとかの当事者は権威的に誰のことですかいの?」となった時に、答えが無い。
(それこそどこの馬の骨かわからん人気に認められても迷惑なだけなんだから。)
だから、こういう時には以下のような前フリが必要不可欠になる。
 ↓
「なんとかさんは輝いているのに」みたいな勘違いだよね。
(言われている当事者自身は、全然認識違うワケでさ、、「風呂とトイレの中の本音」としちゃ大多数が「早く帰りたい、休日が大好き」なのだから。←軍人で考えりゃ一番早いよ「誰よりも早く戦争が終わって欲しい」と思っているんだから。)
 ↑
だからさ(ヘルシングの”少佐”みたいなwarmongerなら例外だけれども、、)
女王陛下でも何でもいいんですが、想定されている超権威は何ですかって。
まさか”幻想”である『共同幻想』そのもの程度の話ですかい?となるとさ、
「鬼ごっこに負けると、本当に生きている意味が無いだって」みたいな話をおっぱじめているのとそう違わない水準の現実認知の倒錯なわけだ。
たとえばさ、
某集団が組織立って「鬼ごっこ」をしているとしますよ。
その場面で勝率高い奴は輝いてみえるかも知れないけどさ、、そりゃ単に「鬼ごっこ」なる『共同幻想』のインセンティブとなるポイントを切り抜いただけの話で、より重要な事は「必死で鬼以外は必死に逃げてね、鬼になった人は全力で追いかけて」って共有・共同化された競技の趣旨への理解と同意・合意という大前提があるのさ。その前提に組織が奉仕するように動くから勝者って概念も成立するんで、たとえばその競技中に「なにちんたら走っているの、鬼ごっこの意味わかっている?」とかの声掛けがあった場合さ、それ私語でも個人的意見でも無いよね。
その『共同幻想』の場面説明なんだよ。
(いちおう参加者は志願してってその場にいる人は思っているから。←何か特別「いえいえ私は参加者じゃ無くて競技スタッフです」だとか「裏方の雑用がかりなんで参加意思は無いですよ」とかの申し送りがなけりゃ参加者は同じ志願した参加者同士・同志だと思うよそりゃ。)
そしてさ、
こうなるんだよ。
「なにちんたら走っているの、鬼ごっこの意味わかっている?」がさ、
 ↓
「私個人に対して酷い事を言われた」とかの認知バリバリに事の顛末が語られたりするんです。
そして「すわ、何をやっても無駄じゃないかだとか、何をやっても意味が無いだとか、全く生きる意味が無い」みたいな話になってくる。
(こうなると認識のズレっぷりが収拾つかない水準になってしまってる。)

無論話のオチは、
■「想定されている権威者が家族強迫社会時代の某人物が、更に現実から乖離した形で脳内に取り込まれ無意識下でイメージ化・象徴化されている空想上の存在」なんだけれどさ、、
(実際の”某人物”とやらはさっぱり権威の象徴なんて話に似つかわしくない人物像だったりもする。) ↑
そして、この深層心理に固着が発生している遠因は『快不快原則』だよね。
当時の『依存系の興奮』が快不快原則で再現反復されている、
(家族の紛争やらがあたかも「ハルマゲドンかジハードか」ってスケールになっていた時代の話です。だからこの話の周辺で「何をやっても無駄」だとか「生きている意味が無い」だとかの認識が呼び出される。)
興奮の水準(感情の高まり)に比例して起きている現実が「凄まじい大事件であると(結果から)脳が錯覚する現象」。

誰しもさ、子供時代は近所の公園遊具紛争が世界大戦並に認知されていたり、
学校とやらが世界全体的に認識されたり、閉鎖空間の中で概念として内向系の状況があるのだけれど、大人になって訪れてみれば「あの公園のみすぼらしいことって」などなど驚いたりする訳です。
小学生だからの時代にスキーで大恥かいた田舎のしょうもない山なんてさ、当時はエベレストかアイガー北壁かって思っちゃっているワケでさ、
(こういう認知は誰にでも普遍的にある事)
『強迫心理』のネタバレってのは、「あーあーあーあー、なんだかな〜」って今の大人の自分から見た時のスケールダウン感半端無いって過程を派生させるから効果的なのであって(効果的ってかネタバレにより『強迫心理構造』は自壊する)、

自分から進んで「なんとかさんは輝いているのに」みたいな勘違いの前フリをして、突撃するって行為はさ「もうネタバレへの否定と同じ」なのであって(やっぱり「自分の過去は伝説の偉人級のトンデモな阿鼻叫喚の世界だったのだ」かのような)、強硬に元ネタのスケールアップを試みているような事になる。『強迫心理』を保守点検して再構築してどうすんだよって。
確かにそりゃ自己保存欲求的に保守的反動が出るのも織り込み済みではあるけれどさ(こういう事はこのサイトなりの注意事項に記載あるように心理学なら一丁目一番地で説明されているし、心理学やってんならそれ説明しないといけない)。
事前の説明があるのに「場合によっちゃ激しくそれを否定して『強迫心理』の再興を画策する行為に自分で気が付かない」←こうなるとさ(事前の説明受けているのであれば)自意識もわかってやってると言わざるを得ないよね。
末尾の「行為に自分で気が付かない」って部分は「付け焼刃の理屈で違う話になっている」だけであって、行為なり論理の全体像がまるで認識できないなんて事は無い。
(少なくとも周辺にはその現実倒錯状況が「バレバレ」でわかる)


■あなたねどうしたいの?って。
心理学は宗教でも占い師でも無いので、行動選択にイチイチ答えがあるような事を言いませんから、予測の範囲でやれこれはガチだから完全な選択ミスなのでこっちにしてくださいみたいな話になりません。勿論話の筋に問題アリ感あれば、考えられるリスクの説明であるとか意思の確認はできるけれども本人意思が「やれこうだから」と言うのであれば(自己責任担保の事実積み上げも重要だから)「はいそうですか」って話になる。
(そこはさ『共同幻想』系のトンチンカンが「社会適応ありき(実態は『共同幻想』適応)」で、あっちの世界の話によれてくのと好対照なのであり、)

心理学の警告水準的に「同じ事例がもうかれこれ何度も反復されている」など統計的に『強迫心理』の介在がガチ論証可能な状況になって、「それは選択ミスの水準の話では無く、完全に強迫心理的に選択されている(自意識による自己責任担保可能な選択とは言えない)」って説明になる。

超能力者じゃありませんから(経験からある程度の認識は事前にあるとしても)、
「それ確信犯的な自意識マターによる選択なのか?言っている話は付け焼刃の理屈であって深層心理の意図が違う話で強迫時代の再現をやろうとしているのか?」←この違いも何もさ、最優先すべきは本人意思だから、本人がやれこうだからとそういうなら心理学は基本的に「はいそうですか」だし、そうであるべきなんだよね(インチキセミナーじゃあるまいし)。

そして事後に引き当てられている筈の担保された自己責任(選択決定の著作権)、これに応じて、
「あなたねどうしたいの?背景説明するとこんな事になってちゃっているんだけど。」の流れになる。

■根本的なとっかかりの『共同幻想』の会話に戻るけど
「業務命令や情報伝達による情報や概念の共有」をベースにする『共同幻想』の会話に対して、
所謂自意識の本音で語られる話は内容的に正反対なのであり、
(「やれ私はこうだから」などの話は後者だから。)
そもそも論的に、『共同幻想』社会においてさえ「1段階プライベートになった」オフレコの場(個人的付き合いや友人関係)に重きを置くよね。それこそ「やれ私の生きる証がどうのこうの」って話はこっちジャンルであって、間違っても「自分が『共同幻想』社会に適応している様」とか全然関係無い訳だよ(極端なコスプレ趣味で「労働者を意識してみました」ってなら別かもしれないが)。
更にもう一段プライベートって事になれば(『共同幻想』適応人格の場合究極が「風呂とトイレの中でひとりの状態」になるけれど)『共同幻想』ワード的には「親友関係」だったり、社会学的には自分の中の『単独者』的なる時間なり空間なりの発現する時って事になる。

まったく社会適応(『共同幻想』適応)関係無いんだから(←これは食い扶持のスタイルや手口に関わる外形的事実に過ぎない=洋服と同じ→だから『共同幻想』適応となれば同時にユニフォームだとかが関係する。)。
■■■黒澤監督の『生きる』1952年(昭和27年)の頃から鉄板の話じゃん。

何故個人的世界観なりを語る”自分自身”や(『単独者』志向ならこっち)、
『歩留り』的に一段落ちるけれど(『共同幻想』適応に被る状態ならこっち)、それを語れる『共同幻想』社会に対して”非公式”となる友人関係の構築の方が優先されていないワケよ。
 ↑
個人的な快不快原則の正式所属はこっちなんだぜ?
(社会の場で”それ”おっぱじめると「公衆わいせつ罪」になるんだっての。場所間違え過ぎ、←だからその行為を説明する場合「『共同幻想』社会の私的占有を試みる違反行為」とかになるんだってばよ。←究極無理筋じゃん。)

何故子供達は「自分の部屋」が貰えると喜び、
何故思春期の少年少女は「都会の独り暮らし」に憧れ、
何故昭和の『共同幻想』適応サラリーマンが「一国一城の主」を求めて自宅購入を夢見て、
何故小説家は編集者に「締切間近にホテルに缶詰めにされるのか」、
何故作曲家は「一人孤独に譜面に向き合うのか」、
何故舞台芸術では「ソロのパートが花」なのか、
何故バンドは解散して「各人ソロになりたがるのか(或いはビッグバンとに対するJAZZコンボ)」
何故誰もが「相部屋より個室が高級」と思うのか、
何故「バスよりタクシーのが高級」なのか、
何故個人にとって大事な「趣味の時間は休日や仕事がオフの時」なのか、
何故現代社会は「非婚・晩婚・おひとりさま」な時代へ変遷してきたのか。

中学校における現代社会の基礎知識的なことがさ、目先の視野の外側に存在していることがすっ飛んでしまっていやしませんかって話さ。

■自分にユニフォームが似合うのか?なんてのが一大事になるのは(何故昭和の学生は制服を着崩したがるのか?考えてみって)、コスプレ趣味愛好家の場合に限るって話です。
『共同幻想』的会話の真骨頂はさ、
「撃ち方始め」を「うちーかたーはじめー」と海軍固有発音で言う時みたいなだね、そういう”趣味”がなけりゃ単なる共有化された取り決めに過ぎない。←個人の実存とか全然関係が無い。
(『共同幻想』社会の会話ってのは私語や私見であってはならず、公式的に情報共有された「その場の論理」を彼らなりに解説するような振る舞いを超える事ができないのだから。)

仮になにがしかの権威に認められたとしても、
「あなたは立派な兵隊さんですね」になるのであって、「あなたは立派な人ですね」という意味とは違う。
『共同幻想』適応志願者であるって思想信条が確認されるだけの話なんでさ。そりゃ同じ所属ならナショナリズム的にそれは賞賛受ける場合もあるだろうけれど、そこにあるのは組織の論理であって「休みと帰宅が大好きな所属メンバー」の風呂とトイレの時間は全然違う人なんだから。。

更にこのバックグラウンドには『共同幻想』社会の末端組織である『家族社会』が、『共同幻想』適応を促す職務上のキャラクターってか末端組織としての使命感みたいな(下請け業者のなんとやらというか)機能性があるって要素が関係しているのは確かだけれど、反抗期ってのはそこんところからして一度反抗して再構築されるプロセスであり(「僕が後継者だなんて誰が決めたのさ!!」だとかね)、再構築後にどうなるのかはともかくだ、盲目的に・あるいは漠然としたままに「社会適応」が是とされるって心理は『強迫心理』以外の何物でも無い。

※追記補足
偶然パッと見た報道でやっていたのだが、ホームレス支援団体の話でホームレスに対する襲撃事案の大半が「子供か若者」との事(言うまでも無く誰でもそういう印象だと思うけど)。
つまり「社会不適応状態を生きているだけ無駄だのなんだの」という視点は(社会適応導入真っ盛りの)子供や若者に多い”特有の現実乖離”であり、強迫や強要されていない大人の考える事では無いって証明のひとつです。(『強迫心理』とは反抗期アップデートによる現実適応証明(ダメ出しや再認識)されないままに、子供の心理特有の現実との乖離性(子供特有の誇大性)が残ったまま成人後にも(その誇大性に比例する効果で)自我を強迫する「過去の認知や認識」の事。)
『適応強迫』状態の自我が自分自身をやれ生きている意味がどうたら述べる時、それはあたかもホームレスを襲う子供や未熟な若者の論理性の根拠となる「事実関係認識の現実乖離っぷりが共通」なんですよ。
(社会適応していなければ生きているだけ無駄だのなんだのって←現実乖離)
どう考えてもそれ(適応強迫)は無理筋(現実倒錯)の話だから。


<■8/15 もう一項目だけ追記しておきます>
>何故個人的世界観なりを語る”自分自身”や(『単独者』志向ならこっち)、
>『歩留り』的に一段落ちるけれど(『共同幻想』適応に被る状態ならこっち)、それを語れる『共同幻想』社会に対して”非公式”となる友人関係の構築の方が優先されていないワケよ。

そもそも論として
仮に「誰か(どこかの権威)に認められる」だとかの概念が実際にあるとしますよ。
その時、上記引用のように”自分自身”ってものだとか、歩留り共同幻想論なら”語らい合う友人”だとか抜きでそれが「社会適応」だけで語られるならばさ、
「そこで認められているものは何なのか?」ってところにぶち当たる。
個人的世界観なりを語る”自分自身”でも無く、歩留り共同幻想論として”語らい合う友人”という大前提がすっ飛んでいきなり「社会適応」になるのであれば、
適応しているその人物は何者なんだよ。
「社会適応する様を実現しているだけで、中身は空っぽか誰かの受け売りコピー人間」になってしまうじゃないか。
優先されるべきはどこやらの社会適応がどうたらだとかそんな些末な話では無くって、
何故個人的世界観なりを語る”自分自身”や(『単独者』志向ならこっち)、
『歩留り』的に一段落ちるけれど(『共同幻想』適応に被る状態ならこっち)、それを語れる『共同幻想』社会に対して”非公式”となる友人関係の構築が優先されていないのであればさ、
■主体的に自立独立している個人ってものが最初に認識されないのであればさ、
「どこの誰だか知らないが、社会適応する様を実現する誰かの様子が、誰だか不明な権威者者に観測されているだけ(確認されている)」に過ぎない。
主体性や自立独立する個人ってものを後回しに「適応強迫」だけが優先されるのだとしたら、
究極の論理矛盾になる。
それは自分自身の存在に対する否定以外の何物でも無いからだ。


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コメント欄に問題となった同趣旨の投稿が続いたため、暫くの期間ブログのコメント欄トラックバックを閉鎖します。閲覧されている方には不自由となる部分もあるかと思いますがご了承ください。(再開までの期間は未定です)
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提携ブログの『住まいの心理学』にまで同様書込みが発生する状況で(あっちは法人管理責任的に全然別の系列なんだけれど)、自分が一括編集ミスったのもあるんで”ぢぎょう〜ぢとく”なのすが、web管理上ある程度の規模でブログ全体の体制を変えていかないと整合性取れないから前回の編集と合わせて両ブログ総数600本以上の記事編集とかもうね「罰ゲームかよ」って状態になってます。そもそも「kagewari精神分析ブログ」は日常系ではなくコラムに近い読み物を意識しているので「コメント欄とか無くてもいんじゃね」と思う部分もあり(SEO的にはイロイロあるんだろうけれど)、今後このままコメント欄無しで行く可能性もあります。

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posted by kagewari at 17:19 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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