2013年06月12日

最近では聞かなくなった「天使と悪魔がいて」話

自然に考えれば「こころの中に天使と悪魔がいて葛藤を」なーんて話をバラかせば、
”昭和”の場合、それは天使が『共同幻想』で悪魔視されているのがこれに抗(あらがう)『自意識』って図式なんでしょう。
(心理学的に言えば『超自我』と『自我』そしてバックグラウンドに『エス』)
現代もその傾向続いてますが、『共同幻想』は道徳や常識を司る権威の総称でもあるんで、自動的にこれに抗(あらがう)者は悪魔になっている寸法で、
一種のレトリックによって、この脳内葛藤を図式化すると「悪魔だからな〜」みたいな枷が発生して、なんだか『共同幻想』に抗(あらがう)『自意識』は悪者みたいな話になって表現されたり、想像されたりしたってオチです。

これは「エゴイズム」に対するレッテル公式と同じもので、
(前段の構造的に「あれれ、だったら『自意識』は悪魔か」論法の式)
『共同幻想』一般用語では「エゴイズム」って利己主義だとかニュアンス的に我儘みたいなね、そういう語彙になってちゃってますが(笑、
まーここは説明するまでも無いわな、
しかしこのレトリックはバカにならないもので、古く言えばフロイドの「性欲的力動論」への権威社会からのしっぺ返しというか猛烈な反発ってのは似たところあるんだわね。
(『共同幻想』としては「ネタバレしてどうする」ってことでしょう)
宗教哲学ですら「公共性認知やら利他主義言ってもそれをよしとする判断は個々人でやっていて、それが美徳という名の”徳=得”なんだから厳密な利他主義なんてものは悟りを開いた(←これ心理学的にあり得ない仮説なんだが)自己と他者との区別すら喪失したワイズマンが判断して始め有効」って事であり(それ以外は「オマエラ黙って教義に従っていればいい」的な)、
基本は「迷える子羊(全員エゴイスト)」って認識なワケですよ。

うんで、文明化の果てに学問やら高学歴(=就労年次の減少)やらで(これは前世期なら出家して高い徳の学問やった級って意味になる)、「言われた通りにしていればいい的な概念パッケージ」をインストールするのでは無くって、
個人が自立的に考え「俺は自分の美意識なりでこう思う(勿論伝統保守的道徳であってもいい)」というような感じで「自覚的(確信犯的)認知」が社会に進み→『民主主義』なるものの根拠となる。
『民主主義』は仮想上「プライベートな時間においては『単独者』でいてねヨロシク」のような随分都合のいい想定で成り立っているんだが、

以上これらのレッテル公式的な表現の世界ってのは各所で矛盾しておりまして、
(だから近代以降政治の舞台はトルコのデモじゃないけれど世俗主義的に「政教分離」したんだからさ、)
■ここはこうだけどここはこう的な「切り分け」や「使い分け」的ご都合主義で成り立ってきたに過ぎない。
社会学手的に乱暴な表現すると、
民主主義政治において頻繁に語られる「民主主義においてはその国民の民度に応じた政府しか選べない」なんてーのはさ「プライベートな時間における『単独者』覚醒率に応じて民度は決まる」と言っているのと同じなワケだが、
(保守派的には怒るとこだと思うね、)
『共同幻想』にガチに適応なり依存なり宗教的心酔しちゃっている人格の場合「はたして風呂とトイレの中では”悪魔”でいられるか?」という命題になっちゃうんだね。
ある意味さ、そこまで開放的というか(風呂とトイレで)ぶっちゃけられる人って、それなりに心のどこかに『単独者的自我』を保持(当面適応している『共同幻想』下位フォルダだが)する、言うならば二面性を「切り分け」「使い分け」で運用している人格になるので、状況が変われば『単独者』としてカミングアウトする潜在層って意味になる。
(エジプトのジャスミン革命じゃないが、)

更に心理学的に言えば、
抑圧された『自意識』の残骸なりがエスをひとつの概念として「強迫心理」なるものに複合化且つ固体化みたいなさ「概念化されたエス」とでも言うべき「強迫心理」という現象があるわけで、
「天使と悪魔話の由来」には、昭和なりには明確に認知されていなかった「強迫心理」も『自意識関連』で認知されていたって背景もあんでしょう。

時代変遷で言えば、
近代は『共同幻想』と『自我』の相克であり、
現代はさしずめ『(道徳哲学なりも高学歴で織り込んだ)自我』と『強迫心理』の相克って事だわな。(『自我』で考える場合には『自意識』の選択を『単独者』『共同幻想適応』など分類する必要は無い。『自我』のが上位概念だから。)

誰にだってあるワケですよ「強迫心理」。
見分け方はある意味実に簡単で、
「え、本当にそうか?(それが何の目的で自分の私利私欲になるん?)」
この疑問で、「えーっと本当かと聞かれると、あれれれれ?」になれば全部「強迫心理」だわね。
「じゃーそのアイデアなり企画なり方針はどこからきたの?」
この疑問で、脳内に無いモノが出てくるワケネーんだからさ、自動的に「潜在意識にそういう設定なりこうなればこうなる的パッケージとしての概念がある」つーのが証明される。
しかも『自意識』口ぽっかんな知らないとこで、
(※これは動機形成論における反動形成認知の発生なんかも同じで、反射的な対称性認知みたいなね、不安ってのは”不安定”であり、対称性っーのは”天秤を水平に”のような反対の概念が自動的に台頭してナントカするみたいな着想的認知のこと。)

■そこいら辺を考えるときに「いいこと聞いたわ」なネタがありまして(笑
自慢話じゃありませんが、俺は自転車乗るのが苦手です。
(まー経緯はいろいろありまして、泳ぎも球技も苦手である意味最低なんだわここ)
そんな話はともかく、、
『自転車は何故倒れないのか』こういうテーマの物理的解釈とか調べてみるとこれがまた随分面白いアイデアを拾えました。
(著作権的に引用して問題無い奴だと思うので一分そのまま引用しますか)
例えば、自転車が走行中にバランスを崩し左に倒れようとすると、前輪の偶力によって、右側に倒れようとする力が働き、打ち消しあって自転車は倒れません。
しかし、同じ偶力の作用によって前輪は左側に曲がろうとします。
そのため、自転車全体は左へ曲がることになります。
実際の自転車やバイクの運転は逆の発想です。
左に曲がるときは、あえてバランスを崩して左に倒れるようにします。すると前輪の偶力の働きでスムースに左へ曲がっていくのです。
自転車が手放し運転でも真っ直ぐ倒れないし、上手な人は手放し運転でも左右のバランスだけで左右に曲がれるのも、この仕組みです。
逆に、競技用自転車(ピスト)をバックさせると、すぐに倒れてしまいます。
偶力が逆に働くためです。

「頭いい人って偉大だね〜」とか感心している場合じゃないですな。
この話って某ゲーム原作ネタだと「抑止力」とか言われたり、
言論や政治が右傾化したり左傾化する原理と同じなんじゃね?
(或いは反動論)
「倒れないから左に曲がる」
不思議な事に「右バネが反作用的に引っ張るから相殺して倒れず曲がる結果を導く」
推進力の方が推進ありきってかまー漕いで進むのがデフォってのは時間軸における抗(あらがう)なりの背景とよく似ている。
「バタバタとどっちか行くわけでその都度ハンドルでさばくから前に進む現象になる(ハンドルを直進固定すると自転車は倒れる)、ハンドル固定でまっすぐだけとかは無く、オイオイどっち行ってんだとかバタバタしている様子が俯瞰で見ると意図した方位に進んでいる現象として観察される。」
そらそうだ、
人の足も左右二本でだ「真ん中の足の方向」なんて無いからね。

その都度細かくバタバタしている様子も傍から見ると直進して見えるってのがまたアレなんだろうな。


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posted by kagewari at 19:46 | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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