2013年04月04日

『縁と韻』

こういう言葉だとか(ここもだが)言い回しなり表現少なく無い。
大元は”熟語”なんかと思うが、
「縄と鞭(オイオイ)」「白と黒(赤と黒だろう)」勿論「陰と陽」だとか「善と悪」などなどいろいろあんでしょう、
「『縁と韻』ではなく『縁と運』じゃねーか?」なご意見もあると思いますが、
勝手に改定します。
『縁と韻』の方が状況にあってるような気がするんですよ、
えー意味がよくわからん方は『韻』となると思いますが、
(俺のなんとなくなのでちゃんとわかっているワケじゃありませんで、)
韻:辞書的には、詩歌で、同一または類似の音を、一定の位置に繰り返し用いること。
最近のラッパーのみなさんは「韻を踏む」よく使うみたいですが、
JAZZだけでなく音楽的なひとつの進行なりの形のように理解してもいいかもです。
符号というか、調子というか。
これに対して『縁』は偶然性の高い方向のナントカとなる。

世の中『縁と運』で回っているのが幸福なことなんですが、
いかんせんなかなかそういう幸せな状態ばかりではないのが世知が無い世の中でそう理想的な環境も難しいものでしょう、結論『縁と韻』みたいになってんのが実情じゃないかと。
(個人心理学的な自我内部にもそういった論理性が成り立っているのではないかという推定です、)
悪循環だと「新規と地雷」みたいな事かな、
自然循環だと「未来と調子」なのかな、
韻を踏む、調子に乗る、
感じがよけりゃいいが、悪循環で感じ悪いと最悪ですわね。
「フラグとなって」だとか「それがトリガーとなり」だとかの現象は多分にこの『韻的世界』が関わっていて(同じ韻でも因果の因でもいいのかな)、
本来は「運」であるべき事象をそのまま「運」で認知することはそうそう多く無く、解釈論の中で「踏める韻をみつける」ような恰好でそれは認識されとんじゃないかという話です。
(書いていてもよくわかってないので、これ読んでわかる人がいるのか疑問だか、このブログにおけるテキストはかなり実験的な内容なっているので悪しからず。)

所謂陰陽師的な「呪(しゅ)」だとかの発動要因はもっぱら言葉の主たる意味の方では無く、韻の調子ってのかな、そっちじゃネーかと。
「言葉の韻を踏んでっちゃう」のだから。
言語構造における流れというか調子における無意識側の干渉というのが『韻』として現れてるのじゃないかと考えてみる。
(5・7・5・7・7でも説明できんのかもしんないけど言語論までやるつもりないので、省略。)

事実人は言葉使いが固定的な場合(典型例は地方の方言:これに自我拘束的意味合いんのは論議の必要が無い)、自我はなんとなく特定の性格(これキャラクターって意味ね)を帯びる。
そっから考えるとすると、
普段の言葉使いの傾向には、それなりに「結論を導く方便」がすでに織り込まれており、
なんてーか『縁起の縁とは縁遠い』世界になるワケです。
それこそ『縁と運』じゃーありませんが、あたかも運気なるものがあたかも抵抗できない世界的に本当にあるかのような錯覚(幻想)←本来「運まかせ」のように『運(はこびだとか進行ですか)』って言葉は固定的では無いって意味の筈が内的にそうなっていない場合がある。つまり同じ運でも運命の運でそれが踏まれている。
(この運命にしたって本質的語彙は:さだめと読めば仮想的上部構造の意思による予め決まった運(はこび)?みたいなことになるのだが、そら運だからさ段取りっちゅうか、めぐり合わせ的な機会だとか”場面”であり、その場面への対処や判断がどうなるだとかその場で考える話なんで先に結論のある話では無い。)

慣れ親しんだ音調ってか”調子?”を反復的に行うのはそれぞれの自我の流儀でもあるんですが、この流儀ってものが自由に好き勝手にできあがっているならいざ知らす(それなら確信犯的個性)、なんかこう(方言の場合は素だから仮想上の普遍共同幻想に近いんだけれど地域保守性の刷り込みには違いはない)アレレな結果である時「調子変えていこう」なご意見もあっていいのだと思うんだが、
(必ず変えなければいけないという意味では無い)
ここに感情的反発があるならばだ(あたかもその調子が自分のアイデェンティーであるかのように変化を拒否する保守防衛がある場合)、それは『縁起』に対しての強い拒絶や否定と同義になる。
俯瞰で見れば「新規」って事項を認めないかのように。
(所謂事実上の「反復再現性の保守」にベクトルかかっている証明)
構造論で言えば『退行』までいかなくても『現状保持(保守)』の証明になる。
保守するべき現状に自覚的(確信犯的)利益認識があるなら合理的だが、現状に不満があるのに保守してたら根本的な論理矛盾だ。

世の中には「言い回し」って言葉もある、
そっちで想像してもらう方がこの話はわかりやすいか、
メタファーの暗喩(或いは暗韻)系の話と勿論重なっているんだけども、
聞きなれた言語表現の中に無意識的何はそういうところから顔を出していて、レトリック的手法だけでなく、思考を拘束するとかあり得るだろうと。
(強迫心理関係すっと、文法てか日本語がおかしい状態になっているとか珍しくないんだな。)
なんつーか無意識的な文法表現や言語的流れの調子に「その段階」から強迫的思考のフラグは立ってしまう事あり得るのであって、

■ここ逆も真、
だから昔の共同幻想社会では言葉使いなど徹底していた。
そして、家庭内争議がある場合の場当たり的心理学的対処として「いっそ各人上流階級的に名前をさんづけで呼びあってみたらどうなのか」のような試行だとかにも(ちょっと遠いけども)関係してんじゃないだろうか。
(主語選択を強制的に変化させる流れが『韻』的バックグラウンドを変える刺激になるかもしれない)実際に悪態つくときなんかでも、意図的に相手の名称に敬称付けたりだとか、普通に使用される技法だったりする。
その反対に業界人的に名前に「ちゃん付け」する手法も又、別の『韻』を呼んでくるってのかな、

■『精神分析』において(他でやっているとか聞いたことが無いのでここだけの話になるのかなと思うが)「意図的カウンター表現」で事実関係の説明入る場合、極端な表現や乱暴な言葉だとか(ヤクザ言語的な)所謂この意図は『反抗期』において言葉が荒れるでしょ的見方から(強迫的思考との均衡論)有効性を担保しているんだけれど(反抗期心理の再現が狙いなので)、
これも思考の調子を反抗調へ(音楽における転調みたいな)というような仕組みが起動すると見る事もできるんだろう。
反抗期を経て大人化した時などに「同一人物とは思えない変貌」頻繁に発生するけれど(所謂「○○君見違えたわね、まーすっかり大人になって」みたいな変化)、周囲が感じる印象の変化ってのはもっぱら「言葉使い(魔法使いと同じイントネーションで)」の変化によるものが大きいのじゃないか。
勿論その『韻』だと、話す内容も変わってくるのだと思う。


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posted by kagewari at 18:54 | Comment(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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