2013年02月24日

『営業トークとレトリック』

そもそもレトリックとは何ぞやから入ってしまうと修辞学がなんたらとかめんどっちい話になるので、まーここでは平たく言うところの「美辞麗句的なインチキ(実は中身が無い)」の方の意味です(ソフィストの意味合いであるとかポピュリズムの意味合いなんかと似て厳密にやっちゃうと意味が違ってきちゃう)。
この技法の典型はプロフェッショナルな店頭販売営業トークなんかに見られます。
現代で言えば「ジャパネットたかた」
(えーとたかたを批判しているワケでは無いので誤解の無いように。むしろ称賛されるべきエンタメ性があるから事例としてわかりやすいってだけです。)

「さー皆さんどうですか、なんと○○しながら○○できると言う?、この○○。どうですか見てくださ?い、○○機能もこんな^に簡単なんですよ。今私がお見せしますけど、ほら○○を○○するだけでこーんな簡単に○○できると言う?○○なんです。この○○今回ジャパネット頑張りました、なんと○○できると言う?○○が、特別価格で○○↑○^○円^↑、これに今なら皆さんお持ちのどーんな○○でも下取りします。いいですか?どーんな機種でも構いません。みなさんご自宅に○○だとかありませんか?下取り価格が1万円↑引きで、どうなりますかみなさん。○^○^↑○○円(♪ジャ^ン♪)↑↑で○○が手に入るんですよ^お安いですよね?、去年なら○○円でも大好評だった○○、新機種の○○モデルが今なら下取り価格で○○○○円。是非検討ください。↓」

凄くいいものに思えます。
又、それこそ『レトリック(演技的演説話法でもある)』
単純にロジカルな認知では無くって、わかりやすく言えばエモーショナルなですね、それでいてなんだかとっても根拠ありげな事例の展開による意味付け(フラグですね)。
こういう条件さえあれば、人はまったくそれまでそんな事を思ってもいなかった事まで「凄く○○で無ければならないのかも」みたいに感情的固着を派生させます。
注)それが感情的固着か否かってのは、それを断念せざるを得ない時に強く感情的に乱れるか否かってところですわね。
注2)人はそれが心底本当に欲しい何かでも、仮に当面それを断念せざるを得ない場合←その断念のプロセスに諦めるに至る根拠がプルーフされているのですから→残念だ、あるいは今度こそとかのフェーズはあるにしろ、実は殊更感情的に乱れるみたいなことにはなりません。なんていいますか「あーあーあーあーあー?えー?、、」の間に残念処理も終わります。

この感情的固着、実は根拠がいい加減なものだから(本当は必要無かったり)、断念する場合の説得的な根拠も提示できないという論理矛盾を抱えます。
「と に か く 欲しい」みたいな。(理由は「とにかく」)
こういう概念の方が心理的には処置に困る事になります。
(残念処理ができない→それだけでなく興奮そのものが残念処理みたいなプロセスの天敵ですし)

■うんで、強迫心理的思考というようなものは「全部レトリック的なもの」でありまして、
事の始まりは「子供トーク」です。
『親子関係社会を前提とする共同幻想文明社会下』における子供の自我は概ねi依存性の快感固着状況が頻繁で(ぐずりや癇癪)子供の自我がロジカルにテイクオフするのは『第一次反抗期(幼年)・第二次反抗期(小学校中年次)』を経てからで、これは好き勝手に自立的な活動可能性に応じて拡大するワケですが(実態は自らの依存性に反抗しているようなもの)、ここに『わかり難い関係』や『権威性が強すぎて反抗が難しい環境』などがあると、このテイクオフは阻害されます。
で、上記あるとおり阻害要因は「難解」だとか「無理筋」とかなので、有無を言わさずというか「具体的根拠を自分に説明できないワケです(その状況を自己紹介することも不可)」、てかこれが説明できれば反抗期が阻害される事ありません(立ち上がった自身の自我のロジカルでなんらかの形で反抗可能ですから)。説明できないがなんか「と に か く ダメ」みたいな根拠と同時に強い感情的固着(反発)を伴うものになります(対象への快感依存が解消していないから)。

なんていいますか、強迫心理下における心理というようなものは、ジャパネットを見て「スゲー欲しい」状態で盛り上がっている人に、「そんなんはかくかくしかじかの理由でいらいないでしょ」な説明しても、まったく聞く耳持たず状態が派生している様、のようなものです。

でー、成長するにしたがって獲得された知的機能はもっぱら「レトリック上手」な方向に活用されるので(そっち方向流れを固定されているため)、「あー言えば(感情的に興奮しながら)こう言い返す」研修を叩き込まれた詐欺的営業マンみたいな自我を「うっかり自分の本音」と取り違えるほどに叩き込まれます。
(てか、自分で自分に叩き込んでいるのですが←『共同幻想適応過程』とほとんど同じ構図です)
■ここで二次的問題が表面化する→自意識共犯状態
そりゃ腕利きの営業マシンガントークスキル所有者相手に「具体的に○○ですよ」なんて悠長な会話で対抗する事は不可能で、強迫心理的には「そんな相手をやり込めるのは児戯に等しい」レベルに到達しており、ここで強迫心理の防壁を突破するってことは「凄腕の新興宗教信者が布教中の街角で論戦しかけるようなもの」になります。
(少なくとも宗教なるものへの知見でそれなりの理論武装してかないと洒落にもならない)
実はこの『自意識共犯的な二次的派生』は『共同幻想適応人格』において実に一般的な原則でもありまして(これが『反抗期の闘争』の対象でもある)、この点に関しては強迫心理だから殊更どうこうって話ではありません。

この状況を心理学的知識のない人は「大勘違い」してしまうんですよ。
(話を前述の『共同幻想適応人格』で考えれば話早い、「そんなのただの常識論じゃないか」なんて立ち位置では相手にならないのですから。)
「実際にはなんとなくで、ただジャパネット見ては欲しい欲しいているだけ」←みたいに思ってしまうんですよ。
※そして強迫心理下の本人自意識も同じようにそう思ってしまうことが多い(或いはあえてなんてことはないと思い三重の防壁となる場合も少なくない)。
しかしレトリックが自意識共犯構造で補強され二次的問題化している状況ってものは、子供の癇癪とは筋の違うものであって、街で布教活動中のみなさんに頭ごなしに「おかしいだろ」と言えば話が通じるみたいに思っている人どこにもいませんよね。
二次的に獲得された理論武装的な振る舞いの部分については、「具体的根拠がうまいこと織り込まれている」のですから、二次的に補完されている具体的根拠に対しては個別に対応しないと「強迫心理本体」に辿り着けません。
※『共同幻想適応人格』で考えるのがいちばんわかりやすい→「それがかくかくしかじかの常識だから」「○○も○○するような普通の事だ」などの羅列をスルーして『共同幻想本体』への疑問や問題意識(反抗)に至る事は無い。←いえいえ別に反抗期的に『共同幻想』関連に対して対抗する意図が無ければそれでいんですが。→まさに「普通はそれでいい」。
(上記は「強迫心理」関連の諸問題があって、これに自意識が対抗する場合の話スから、)
※話を戻すと→「今私がお見せしますけど、ほら○○を○○するだけでこーんな簡単に○○できると言う?○○なんです。」←この○○機能ってものがどういう機能なのかって具体論はスルーできないという話です。

■心理学的に言えばこの二次的部分は「そのまま自意識が関与したロジカル」なので、精神分析やら構造的問題とは違い自主的に対処するフェーズなんですが(ザックリ言えば心理学が登場しなくてもいい場面)、馬鹿にならん問題なんです。
言葉にすれば「事実関係を自分なりに抑える」という話には違いないんですが、手練れの営業マン側も粘り強くこれを売り込み続けるワケでありまして、手を変え品を変えの連続攻撃になる場合もあり得ます。

心理学が心理学として関与できるのは、自我のコアに関わる構造問題がメインであり、
その後の「自分の自我内における自分VS自分みたいな仮想反抗期リハビリ過程」には心理学ので出番はありません。(←両者出そろうところまでが心理学マター)
二次的に派生しているレトリックが何であるとか、そこの説明は心理学的に可能ですが、事に対処する個別性の部分は「自意識が関与し自覚がある事」なので(無意識的云々とかの話にならない)、それを放置するであるとかそこを考える事が面倒だみたいな部分は「人生相談マター」になっちゃうのであり、心理学的知見があるから殊更有効性を発揮できるとか考えない方がいい。
(心理学が効果的に機能するのは無意識的領域ですから)
もうね、半分自覚があってバレバレだって要素は『共同幻想適応人格』で言えば、普通に個性で通る話ですし(厳密に言えば二次的なものなので間接的個性となるので違うっちゃ?違うんですが)、大原則は「その後どうするのかは自由」って事になります。

なものだから、
『心理学テキスト』的には、「そういう事になってちゃってる」の説明が”説明するべき内容だ”つー事になるわね。
(※個別性の点で「この考え方は強迫発のレトリックか否か?」の判定はある程度の確度で推定可能だけれど←本人マジにそう思っている(共犯性じゃなくて確信犯性)とかこれって判定しようが無いから。マジに思ってるのであれば仮にそれがネス湖のネッシーでもアリアリなので信憑性どうこうを持ち出しても意味が無いし、むしろ第三者である心理学は「ネッシー」尊重する立場になる。自覚されている部分なので自分に聞いてくれって話に戻るんだなこれ。心理学は人の個性にまでどうこうコメントしませんから、)

■二次的派生部分には「どうするのか自由」ってのが心理学的答えになる。
>この点に関しては強迫心理だから殊更どうこうって話ではありません。
そのまんまです。この話は「会社を辞めるべきか否か、自分の中の人達同士で論議になる過程」と違いはなく、仮にその答えを心理学に投げてしまうと、別の意味(依存的逃避とか)になりますから、仮にそれを人に相談するとするならば心理学は適当ではなく、仮に有効性が幾分かでも担保できるとするなら「人生相談マター」になるっちゅう話です。
▲心理学が唯一有効性を確認できる点を挙げるとすると、強迫心理的な二次的派生の場合「話の前提が固定化され過ぎ」な特徴あるので(『共同幻想』だって固定化されてるんですけど)、結果自分に悩みという認知があるのであれば「聖域無き改革」みたいに「前提の固定化はナンセンスである」と事前に確認しておくべきだってコメントするとこまでになりますね。「前提は聖域だ」じゃ遠回しに誘導尋問型の結論ありきのシナリオができているって事だから。
(「前提も論議の主題だ」みたいに、)


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posted by kagewari at 14:20 | Comment(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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