現在ことほど左様にまんま生きているんだし、まさか遺影の心配して写真撮る人もいないだろう(笑
ましてや、思い出と称して人物写真を何か残しておこう(記憶の外部化)ってのもまるで実存が怪しいから証拠写真を必要としているようで、どうもなんてーのか「え、なんで」と納得いかないワケだ。
思い出す必然性のある記憶なら忘れないのであって、それって他人に見せるためのコピーじゃねの?ってね、だとすっと著しく実存感無いのであってこれやたらと意味合いが軽くなる。
それこそ結婚式後の出席者一堂の写真みたいに、何らかの実存(あれも一種の絵と言えば絵だからね)があれば納得もいくのだけれども、どうも外部化の意図=実存を記録するってその内容を「どんなもんだろう」と考えるのが習い性になっている。
PCに喩えるとそれこそ忘れやすそうな重要度の低いDATAほど「あれっ、これいるかも」的についつい保存するもので、なんせハードエラーでDATAが消失する危険性も高いからどうやって保存するのかにあれこれ気を使ったりもする。
そう「消えそうな記憶ほど外部化したいと思う」のだ、消えそうなんだから消えちゃ困るわな(笑
そんな意味じゃ「生きている」なんざ現象は記憶の連続性って実存になるので、これを切り離して外部化するとそれこそ遺影みたいに、なんかな〜と思う。
そのPCの記憶分野の論議もネットじゃお盛んで、
フォーマット形式の「NTFS派・FAT32派論争」だったり、最近話題の仮想シリコンディスクとでも呼べばいいのかCF内蔵型のIDEHDD互換フラッシュメモリの耐久性はHDDと同等か論争など、各論尽きない。
確かに些細な記憶(消えやすい)は、自意識マターではないので潜在意識に潜ってしまう事も多いから「メモリに憶えているのに読み出せないアーカイブス(肝心の試験の時に思い出せないってアレですよ)」をいつでも取り出せたらどんなに便利かって自意識特有のストレスに呼応するものかもしれない。
だとすると、
ほら、PCで消えちゃ困るってDATAは「自分がみるため」って事になる。
父親が娘の写真を宗教画:イコンじゃないけれども財布にしのばせるとか欧米的在り様はそれは別の意味でアリだと思うけれども、
「なんとなく記念で撮った人物の画像」って、DATA整理する時の削除リストの典型にも見える、ところがアルバムに入った写真ってDATAじゃないから容易には捨てられない(コレクションに近い)、「象徴化」が行われるからだ。
その象徴化ってアナログ銀縁カメラとデジタルの違いもあると思う。
アナログ写真は『写真として単体に実存』する、
今度は「消えそうな記憶ではなく、消せない記憶として写真は残る」、ネイディヴアメリカンの伝承「写真魂抜かれる」は感覚として外れていない。
その絵に絵としての実存が無い場合、実存しているのは写真であり被写体ではない。被写体が写真って実存の構成要素としてくっついているって事になる(なので反対にプロが撮るグラビアには意味がある)。
自分の写真を顔写真スナップとして撮影するのは、これやっぱ苦手な人って有り得るわなと、自己正当化してみる(笑
これまたPCに溜め込んだDATAを呼び出せない事もある。「あれ、どこのフォルダにしまったのか忘れた」、PCは便利なもので検索って機能があるがそれって連想(キーワード)によって思い出す機能のある脳と同じで、よう思い出せない人には検索で探しても同じように思い出せないのであって「さてローカル検索に意味があるのか」とも思う。
わかりやすい名前=記号で分類するって、脳内の記憶法そのまんまだしね、
写真・磁気ディスク・発展系のPC・フラッシュメモリ・日記等記憶の外部化技術は現在も進行中なのだけれど果たして自我のストレスは解消されたのかって言えば、「おーこのハードヂスクのDATA消えたらどうしようー」と心配する毎日。
不思議とこまめにバックアップを取る行為はなんかいかがわしいとこもあり(クローンの倫理問題みたいに)同時に、複製の存在が希少性を分散させるのでなんとなくDATAの価値が毀損されている感じもする。
ぶっちゃけ面倒くさいのだけれども(笑
実際『ファイル復元』や『壊れたHDからサルベージ可能』とか、こころなしかDATA救出方法の方が人気があるような気がするのは俺だけでしょうか。。
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